『人の婚約者にしか欲情しない泥棒猫令嬢に転生したので、断罪される前に全校生徒の前で公開土下座して修道院へ逃げ延びます』
前世の記憶が蘇ったのは、ちょうど王立学園の中庭、噴水の陰で侯爵令息の胸元に指先を滑り込ませていたその瞬間だった。
「……っ!」
突如として脳内を満たした前世の三十年分の記憶。くたびれたスーツ、深夜の残業、満員電車。そして、深夜のスマホで読み漁っていた数多の悪役令嬢ものWeb小説。
現世の私の名は、クララ・フォン・レヴィン男爵令嬢。十七歳。
この身体がこれまで何をしてきたのかという記憶が、怒涛の勢いで接続される。
――嘘でしょ。
私は、息を呑んだ。
よりにもよって『他人の婚約者にしか欲情しない泥棒猫令嬢』に転生していたのだ。
フリーの男には見向きもせず、誰かの薬指に指輪が嵌った瞬間、あるいは誰かの婚約者が決まった瞬間にだけ猛烈なハンター精神を燃え上がらせ、甘い上目遣いと涙、あざとい身体接触で男たちを狂わせて婚約破棄に追い込んできた、稀代のサロメ系ビッチ。
いま目の前で頬を紅潮させている侯爵令息も、学園の生徒会長であり、冷徹な美貌を持つ公爵令嬢エレノア様という完璧な婚約者がいる男だった。
(死ぬ……! このままだと確実に断罪されて首が飛ぶか、路地裏で刺されて死ぬやつだ……!!)
「クララ、どうしたんだい? そんなに震えて……寒いのかな」
侯爵令息がとろんとした瞳で私の肩を抱こうと腕を伸ばしてくる。
生理的嫌悪感と死の恐怖が混ざり合い、私の脊髄が反射的に動いた。
「触るんじゃねえええええッ!!」
バチンッ、と中庭に乾いた破裂音が響き渡った。
私の渾身の平手打ちを食らった侯爵令息が、白目を剥いて噴水の縁に倒れ込む。
私は乱れた呼吸を整えながら、倒れた男を見下ろした。
駄目だ。生半可な言い訳や、しおらしい態度でフェードアウトなんてできる状況じゃない。すでに何件もの婚約破棄事件の裏で暗躍してきた私の悪名は、学園の上流階級には完全に知れ渡っている。氷点下の視線と憎悪が、いつ私を破滅の断頭台へ送ってもおかしくない。
生き残るための道はただ一つ。
言い訳の余地もないほど、完膚なきまでに私自身を社会的・精神的に叩き潰し、二度と誰の脅威にもならないと全方位に知らしめること。
私は覚悟を決めた。
「お父様」
その夜、私は男爵邸の執務室のドアを蹴破らんばかりの勢いで開けた。
書類仕事に追われていた父が、ぎょっとして眼鏡をずらす。
「な、なんだいクララ。夜遅くに……」
「今すぐ、全貴族に向けた私の『醜聞告解および永久謹慎届』を作成し、社交界の掲示板および学園長、ならびに被害者のご実家すべてへ速達で送付してください」
「は……? お前、何を言っているんだ。そんなものをばら撒けば、我が家の恥を自ら晒すようなものだぞ!?」
「私は病気です! 他人の皿の肉しか美味しく感じられない、極めて浅ましく卑劣で醜悪な精神的寄生虫でございます! 貴族社会のメンツなどと呑気なことを言っている場合ではありません! このまま放置すれば我がレヴィン家は公爵家や侯爵家の怒りを買い、改易・お取り潰し、一族郎党路頭に迷うことになります! 自首です! 先手必勝の全面降伏しか道はありません!」
父が泡を吹いて倒れそうになるのを支え、私は自分でペンを執った。
貴族としての体面を自ら焼き払うような、狂気の沙汰であることは重々承知している。だが、中途半端な隠蔽こそが最大の毒弾になることを、前世の企業コンプライアンス地獄で嫌というほど学んでいた。
便箋に叩きつけるように、自らの罪状を詳細に書き連ねていく。誰にどんな手管を使って擦り寄ったか、いかに自分が愚かで浅ましいか、その手口の全貌と、被害者令嬢たちへの土下座ものの謝罪文。最後に「私は恋愛感情など微塵もなく、ただ他人の幸福を破壊したいだけの害獣でした」と太字で刻みつけた。
そして迎えた翌朝。
私は学園の講堂にいた。全校集会が始まる前の、生徒たちが最も集まる時間帯だ。
吹き抜けの高い天井の下、ひな壇のように一段高くなった前方の演壇付近には、頬を赤く腫らした生徒会長の侯爵令息と、その婚約者である冷徹な美貌の公爵令嬢エレノア様、そして過去に私が手を出した男たちとその婚約者令嬢たちが陣取っていた。
令嬢たちの瞳には、長年煮え湯を飲まされてきた底冷えのする憎悪が宿っており、今まさに公開断罪の火蓋が切られようとしていた。
「クララ・フォン・レヴィン男爵令嬢。昨夜届いた怪文書の件も含め、貴女のこれまでの不届きな振る舞いについて――」
エレノア様が凛とした声で口火を切った瞬間。
私は、講堂の中央、全校生徒の視線が集中する石畳の上に、迷わず両膝を叩きつけた。
さらに両手を床につき、額を激しく打ち付ける。
ゴスッ、と鈍い音が広い講堂に響き渡った。
「ぎゃっ!?」と誰かの悲鳴が上がる。
「エレノア公爵令嬢様! ならびにこれまで私の醜悪極まりない自己顕示欲の犠牲になられた高潔なる令嬢の皆様方!」
額を床に擦り付けたまま、私は腹底から声を張り上げた。前世の社畜時代、炎上した取引先の役員室で身につけた完璧な土下座フォームだ。
「わたくしクララは、生まれついての卑しい盗癖により、皆様の大切な婚約者様方をたぶらかし、その尊厳と名誉を著しく毀損いたしました! 弁解の余地は微塵もございません! 万死に値する愚行でございます!」
講堂が水を打ったように静まり返った。
断罪しようと構えていた令嬢たちも、復讐の炎を燃やしていたはずの男たちも、全員がぽかんと口を開けている。
私は顔を上げた。額にはべっとりと赤紫色のたんこぶができているが、構うものか。
「特に! そこにいらっしゃる元凶の男ども!」
私は立ち上がり、演壇で私に骨抜きにされていたアホ面令息たちを指弾した。
「『君のほうが可愛い』だの『僕の運命は君だ』だのと、耳打ちしてきた言葉の数々! 反吐が出るほど滑稽でした! 婚約者という世界で一番大切にすべき存在を裏切り、ぽっと出の男爵令嬢の甘ったるい声一つで尻尾を振るような腑抜け! 軽薄! 無能! 節操なし!」
「な、なんだと……!?」
侯爵令息が顔を真っ赤にして演壇から身を乗り出すが、私は間髪入れずに言葉を叩きつける。
「私が欲しかったのは貴方様方ではありません! 令嬢方が慈しみ、育て上げ、磨き上げた『完成された男の輝き』を横取りし、彼女たちの絶望する顔を見て優越感に浸りたかっただけの、最低最悪の泥棒根性です! 中身がすっからかんの貴方様方そのものには、銅貨一枚の価値も感じておりませんでした!!」
「ぐ、ふ……っ!」
図星を突かれたのか、数人の令息が胸を押さえて崩れ落ちた。
被害者側の令嬢たち――伯爵令嬢や子爵令嬢たちが、わなわなと肩を震わせている。怒りと呆れ、そして何より「自分たちが必死に繋ぎ止めようとしていた男の情けなさ」をこれ以上ないほど露悪的に突きつけられ、苦々しい溜息や、毒気の抜けたような乾いた笑いが漏れ始めていた。ある令嬢などは、横に立つ婚約者を汚物でも見るような目で睨みつけている。
私は最後に、息を呑んで立ち尽くすエレノア様に向き直った。
ドレスのポケットから取り出したのは、一本の大きな裁ち鋏だった。
「ひっ!」
周囲の衛兵が剣の柄に手をかける。公衆の面前で刃物を振り回すなど、下手をすれば反逆や狂人として即座に拘束されかねない凶行だ。
だが私は刃を自分に向け、艶やかなブロンドの巻き毛を一掴みにした。
他人の男を誘惑するために磨き上げてきた、私の唯一の武器。
ジョキッ、ジョキジョキッ。
容赦のない金属音が講堂に響く。
床に散らばる黄金色の髪の毛。私は迷うことなく、自慢のロングヘアを無残な虎刈りのショートボブへと切り落とした。
「……本日をもって、わたくしクララ・フォン・レヴィンは学園を自主退学いたします。また、生涯いかなる殿方とも交際・婚姻を結ばず、北方の修道院へ入り、生涯を神への祈りと反省、そして被害に遭われた皆様への慰謝料を稼ぐための労働に捧げることを誓います!」
私は再び、床に頭を叩きつけた。
「どうか、レヴィン男爵家への連座だけはご容赦を! すべての罪は、この卑劣な害獣クララ一人のものにございます!!」
静まり返る講堂。
換気用の高窓から吹き抜けた冷たい風が、床に散った私の髪を揺らす。
完全に、完膚なきまでに自分を晒し上げ、社会的生命を自ら粉砕した。
これ以上の断罪のしようがない。これ以上責め立てれば、逆に追及する側が悪者に見えてしまうほどの徹底的な自爆テロだった。
長い沈黙のあと。
コツ、コツと優雅な靴音が演壇の階段を降り、近づいてきた。
伏せた私の視界に、豪奢なドレスの裾が入り込む。
エレノア様だ。
「……顔を上げなさい、クララ」
恐る恐る顔を上げると、公爵令嬢は見たこともないような複雑な表情で私を見下ろしていた。
背後の令嬢たちを見やると、ある者は扇で口元を覆いながら「……もう、責める気も失せましたわ」と首を振り、またある者は「男を見る目がなかったのは私の方かもしれませんね」と冷めた瞳で自分の元婚約者を切り捨てていた。クララへの憎悪は、あまりにも徹底的な土下座とセルフ処刑によって、行き場を失って霧散してしまったのだ。
エレノア様は深くため息をつき、扇子で私の額のたんこぶをトントンと軽く叩いた。
「貴女、本当に救いようのない悪女ね。けれど……自分の罪の醜さを白日の下に晒し、ついでにここにいる殿方がどれほど中身のない腑抜けかまで証明してくれた潔さだけは、認めてあげます」
エレノア様は冷然とした視線を演壇上の侯爵令息へ投げ、彼を凍りつかせた。
「北方の修道院行きは許可します。男爵家へのお咎めも、私の父に取りなして最小限にしてあげましょう。……その代わり、死ぬまで懺悔しなさい。二度と、他人の庭の果実を盗もうなどと思わないことね」
「ははーっ! ありがたき幸せに存じます!!」
こうして、私の「死亡フラグ回避作戦」は幕を閉じた。
数日後。
荷物を一つだけまとめた私は、馬車に揺られて極寒の北方修道院へと向かっていた。
頭は短く刈り込まれ、身に纏うのは粗末な麻の修道服。手元には、これから一生かけてこなさなければならない、羊の毛刈りとジャガイモの皮剥きという膨大なノルマ。
だが、馬車の窓から流れる雪混じりの景色を見つめる私の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
(生き残った……! 首も繋がったし、実家も潰れなかった!)
恋愛? 他人の婚約者?
冗談じゃない。男なんて面倒くさい生き物、もう二度と視界に入れたくもない。
これからは極寒の地で、誰の恨みも買わず、誰の邪魔もせず、慎ましく自給自足の社畜生活を送るのだ。
「待ってろよ、北の大地! ジャガイモ共、完膚なきまでに皮を剥いてやるからな!」
前世で培った不屈の社畜魂を燃え上がらせながら、元・泥棒猫令嬢は、第二の人生へと力強く馬車を走らせたのだった。




