交際7年目にして発覚した、彼氏の「やりたいことリスト」のヒロインが私じゃなかった件。
神谷蓮司は、誰もが認める理想の彼氏だった。
背が高く、仕事も安定していて、人当たりも穏やかで優しい。周囲の同僚からは、大学時代にこんな男と出会って、そのまま七年も付き合っているなんて運がいいと言われていた。私自身も、ずっとそう思っていた。
あの日、体調が悪くて仕事を早退し、朝凪市にある私たちのマンションへ帰るまでは。
リビングに蓮司の姿はなかったが、ノートパソコンは開いたままだった。画面には共有ドキュメントが表示され、内容が自動更新されている。閉じておこうと手を伸ばした私は、そのタイトルを見た瞬間、動きを止めた。
【さなと叶える五十の恋愛リスト】
私の名前は、佐伯紗奈。
読み方は「さな」だ。
第一項――さなと一緒に猫を飼う【達成済み】
第十二項――さなと夕日の中でロマンチックなキスをする【達成済み】
第三十九項――貯金して、さなの欲しがっている車をプレゼントする【進行中】
最初は何も疑わなかった。蓮司がこっそり私たちのために作っているリストなのだとさえ思った。けれど、読み進めるうちに違和感が膨らんでいった。
そこに書かれている出来事の多くを、私は知らなかったからだ。
そのとき、画面がもう一度更新された。
最下部に、五十番目の項目が現れる。
【愛は沙菜に。帰る場所は紗奈に。】
私は二つの名前を見つめたまま、凍りついたように動けなくなった。
紗奈。
沙菜。
どちらも読み方は「さな」。
けれど、一人は私で、もう一人は水城沙菜だった。
神谷蓮司は、一度だって名前を書き間違えてはいなかった。
最初から間違えていたのは、私のほうだった。
1
浴室のドアが背後で開き、神谷蓮司がタオルで手を拭きながら出てきた。予定より早く帰ってきた私を見るなり、明らかに表情を強張らせる。
「どうしてもう帰ってるんだ?」
その直後、赤くなった私の目に気づき、視線をパソコンへ移した。
蓮司の顔から血の気が引いた。
「……見たのか?」
「うん」
「全部見た」
蓮司はしばらく黙ったあと、私のそばに腰を下ろした。苛立ったときに出る癖なのか、指先で何度もスマートフォンのケースの縁をなぞっている。
「沙菜に悪気はないんだ」
「ただ、一度でいいから本気で恋人に愛されるような恋愛をしてみたいって言ってただけなんだ。だから俺が、この五十個を一緒に叶えるって約束した。全部終われば、それで終わる」
私は何も言わなかった。
蓮司は、その沈黙を「話を聞く気がある」と受け取ったらしい。
「紗奈、約束する。俺は沙菜と家庭を築くつもりなんてないし、おまえと別れるつもりもない」
「最後に結婚するのは紗奈だ」
一拍置いてから、彼は私が七年間待ち続けた言葉を口にした。
「四十九個まで終わったら、俺たち結婚しよう」
頭の中が真っ白になった。
この「結婚しよう」という言葉を、私は七年も待っていた。
大学を卒業したあと、私は蓮司について朝凪市へやって来た。一番苦しかった頃は、二十平方メートルにも満たない古いアパートで暮らしていた。冬に暖房が壊れた夜には、二人で毛布にくるまりながらコンビニ弁当を食べ、いつかどんな結婚式を挙げたいか話したこともある。
やがて蓮司の仕事は安定し、私たちは今のマンションへ引っ越した。
私はずっと、彼はただタイミングを待っているだけなのだと思っていた。仕事がもっと安定するまで。貯金がもう少し増えるまで。二人で安心して暮らせる未来を作れるまで。
なのに、まさかこんな場面で「結婚」を差し出されるなんて思わなかった。
水城沙菜のために。
彼女との恋愛リストを続けるために。
七年間、私にはくれなかったものを、蓮司はようやく差し出した。
私を黙らせるための交換条件として。
そんな結婚なら、いらない。
「蓮司」
声にした瞬間、自分が震えていることに気づいた。
「別れよう」
部屋の空気が一瞬で止まった。
蓮司は長い間、私を見つめていた。どうして話がそこまで大きくなるのか、本気で理解できていない顔だった。
「沙菜に少し付き合うだけで?」
「俺はもう紗奈と結婚するって言っただろ。それに、紗奈を捨てるつもりもない。最後に俺が選ぶのはおまえだ。だから、紗奈が負けるわけじゃない」
思わず笑ってしまった。
「負けない?」
七年間の恋愛が、いつの間にか私と別の女との勝ち負けになっていた。
二千五百日を超える時間が、一瞬で空っぽになった気がした。
私は彼を見つめたまま、ふと思いついたように尋ねた。
「今日が何の日か知ってる?」
蓮司は眉を寄せ、しばらく考え込んだ。
「付き合った記念日?」
私は首を横に振った。
「違う」
「紗奈の誕生日?」
「それも違う」
少しずつ、彼の顔に苛立ちが浮かんだ。
「紗奈、知ってるだろ。俺、そういう日付を覚えるの苦手なんだよ」
そのとき、ちょうどインターホンが鳴った。
玄関へ行き、配達員から予約していたバースデーケーキを受け取る。
蓮司が目を見開いた。
「今日、あなたの誕生日だよ」
「去年、自分で言ったでしょ。今年は早く帰って、二人だけでゆっくりケーキを食べたいって」
「だから私、早退して帰ってきたの」
腕の中のケーキを見下ろす。
次の瞬間、私は手を離した。
箱が床に落ち、鈍い音を立てた。崩れたクリームが、箱の隙間からはみ出していく。
「でも今のあなたに、このケーキを食べてほしいとは思わない」
2
リビングの空気が凍りついたようだった。
蓮司は長い間黙っていたが、やがてしゃがみ込み、床に落ちたケーキを少しずつ箱へ戻し始めた。付属のフォークを手に取り、形の崩れたケーキを口へ運ぶ。まるで、それで私に謝っているつもりのようだった。
「これでいいか?」
何の前触れもなく、涙が落ちた。
苦しくないはずがない。
七年間愛した人だ。いつか一緒に年を取るのだと、本気で信じていた人でもある。どれだけ失望していても、床にしゃがんで潰れたケーキを食べている姿を見れば、胸は痛んだ。
蓮司は立ち上がり、慎重に私へ近づいてきた。
「紗奈、もう一度だけチャンスをくれ」
「ちゃんと片づける。リストが終わったら、沙菜とは何の関係も持たない」
その頃にはもう、うまく息ができないほど泣いていた。
私は彼を押しのけ、そのまま寝室へ入り、鍵をかけた。
長い間泣いた。
目が痛くなり、声も枯れた頃には、外はすっかり暗くなっていた。水を飲もうと部屋を出たとき、バルコニーのほうから蓮司の低い声が聞こえてきた。
「ごめんな、沙菜」
足が止まった。
一瞬だけ、本当に今日のことを後悔しているのだと思った。
けれど、次に聞こえてきた言葉で、その期待は消えた。
「安心して」
「約束は変えない」
「これからも、恋愛リストは最後まで一緒にやるから」
針で鼓膜を刺されたような感覚だった。
私は勢いよくバルコニーのドアを開ける。
「神谷蓮司、今なんて言ったの?」
彼が振り返った。
顔に浮かんでいた笑みが消える。
私ははっきり見た。
あれは、悪いことをした人間の怯えではない。
また見つかったことへの苛立ちだった。
「沙菜とは終わらせるって言ったよね?」
「どうしてまた嘘をつくの?」
一晩中押し込めていた感情が、とうとう爆発した。
私は彼の頬を叩いた。
「最低。自分が気持ち悪いと思わないの?」
蓮司は顔を横に向けたまま、二秒ほど固まった。
再びこちらを見たとき、その目はもう冷え切っていた。
「佐伯紗奈、いつまで騒ぐつもりだ?」
「俺は何度も説明しただろ。少し沙菜に付き合うだけだ。どうしてその程度のことも受け入れられないんだよ」
怒りを通り越して、笑いが込み上げた。
「裏切りは裏切りでしょ」
「まるで自分がいいことをしてるみたいに言わないで」
蓮司の顎が強張った。
「紗奈、おまえにも限度があるだろ」
「俺は十分おまえに配慮してる。俺が簡単には離れないと分かってるからって、何をしても許されると思うなよ」
何か言い返そうとして、やめた。
もう、何を説明する気にもなれなかった。
蓮司は寝室へ入り、乱暴にドアを閉めた。
その扉一枚で、本当に別々の世界へ分かれてしまったようだった。
私は一睡もできなかった。
明け方近く、玄関のドアが開く音がした。
しばらくすると、LINEにメッセージが届いた。
【朝ごはん買ってくる】
その一文を、私は長い間見つめていた。
付き合い始めた頃、蓮司はよく早起きをして朝食を買ってきてくれた。私が好きなのは鮭のおにぎりで、ツナマヨは苦手だということも、昔の彼なら私以上に覚えていた。
そのうち仕事が忙しくなり、私は彼に少しでも長く寝てほしくて「もう買わなくていいよ」と言った。
それ以来、休日で時間があっても、蓮司が自分から朝食を買いに行くことはなくなった。
私はスマートフォンを伏せ、荷物をまとめ始めた。
七年前、私は喜んで蓮司について朝凪市へ来た。
七年後。
一人で、ここを出ていく。
十五分ほどして、コンビニ袋を提げた蓮司が戻ってきた。ちょうどスーツケースを引いて玄関へ向かっていた私と鉢合わせになる。
彼は私とスーツケースを交互に見た。
「佐伯紗奈、本気なのか?」
「うん」
「本気だよ」
蓮司の顔色が変わった。
「おまえ、いったいどうしたいんだよ?」
「俺はただ、沙菜の願いを一つ叶えてやりたいだけだろ。そのくらいも許せないのか?」
「少しは沙菜みたいに素直になれないのかよ。俺を困らせるなよ!」
苦笑しか出なかった。
七年間の恋が、最後にはこんなものになった。
昔交わした「ずっと一緒にいよう」という言葉が、今ではただ虚しかった。
言い返す気力すらなく、私は一刻も早くここから出たかった。
3
ところが、スーツケースを引いて彼の横を通り過ぎようとした瞬間、蓮司が突然ハンドルを掴んだ。
次の瞬間、乱暴に横へ投げられる。
スーツケースは壁にぶつかり、留め具が外れた。服や洗面用品、細々とした私物が床一面に散らばり、リビングは一瞬でめちゃくちゃになった。
私は散乱した荷物の真ん中に立ち尽くし、とうとう堪えられなくなった。
「神谷蓮司、最低!」
「悪いことをしたのはあなたでしょ!」
「どうして私に怒るの?」
本気で泣き出した私を見て、蓮司の動きが一瞬止まった。慰めようと一歩近づいてきたが、私はすぐに身を引いた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
藤原美咲からだった。
電話に出るなり、焦った声が飛んでくる。
「紗奈、蓮司と喧嘩したの?」
反射的に音量を下げようとした。
けれど、もう遅かった。
蓮司が私の手からスマートフォンを奪い、そのまま床へ叩きつけた。
画面に一気にひびが走る。
「佐伯紗奈、また俺たちのことを他人に話したのか?」
そのまま手首まで掴まれた。
痛みで息を呑むほど強い力だった。
「昔からそうだよな」
「俺たちの間で何かあるたびに、お母さんに話して、美咲に話して、俺の妹にまで話す」
「何年経っても変わらないんだな」
「疲れないのか?」
怒りに歪んだ彼の顔を見ながら、急に何もかもが馬鹿らしくなった。
愛されなくなると、自分がしてきたことすべてが、相手の中で「悪いこと」に書き換えられてしまうらしい。
痛む手首をかばいながら尋ねた。
「蓮司、最初に二人のことを他人に話したのが誰だったか覚えてる?」
彼の手が止まった。
覚えているはずだ。
昔、私たちが喧嘩をするたび、蓮司はバルコニーへ出て友達に電話していた。
何があったのか最初から最後まで話したあと、決まってこう聞いた。
「紗奈って、やっぱり気にしすぎだと思わない?」
「これって本当に俺が悪い?」
そのせいで、彼の友達に会えば、冗談めかして「男には少しくらい自由な時間をあげたほうがいいよ」と言われたこともある。
このことで、私は何度も蓮司と話し合った。
けれど、彼はまともに受け止めなかった。
だからある時から、私も同じように友達へ悩みを話すようになった。それでようやく、自分がされると嫌なことだと気づいたらしい。
なのに今では、私だけが「何でも人に言いふらす女」になっている。
もう説明するのも面倒だった。
「そうだよ」
「美咲に話した」
「これで満足?」
蓮司は手を離し、「やっぱりそうか」という顔をした。
「付き合ってる頃なら、そういうのも俺を気にしてるからだと思えた」
「でも結婚してからも、何かあるたびに人に話して味方を作るようじゃ、正直疲れる」
私は顔を背けた。
どうせもう、彼と結婚することはない。
蓮司は私の沈黙を、納得したものだと思ったらしい。
スマートフォンで残高を見せてきた。
「結婚資金はもう貯めてある」
「通帳とカードもいつもの引き出しに入ってる」
「俺が戻ったら式の準備を始めよう。式場も挙式のスタイルも、紗奈の好きなように決めていい」
いらない、と言いたかった。
けれど、口にすればまた終わりのない言い争いになることが分かっていた。
だから、何も言わなかった。
蓮司は寝室へ戻り、自分の荷物をまとめ始めた。
私はリビングに残り、散らかった私物を一つずつスーツケースへ戻していった。
そのとき、テーブルに置かれていた彼のスマートフォンが光った。
水城沙菜からLINEが二通届いている。
【れんくん♡ これからしばらく、れんくんは私だけのものだからね。準備できたよ。いつでも出発できる!】
【でも紗奈さんにはちゃんと内緒にしてね。せっかくの旅行、邪魔されたくないもん】
数秒、画面を見つめた。
もう、驚くほど何も感じなかった。
七年間待ってももらえなかった特別扱いを、彼はこんなにも簡単に別の女へ与えていた。
もういい。
ただ、七年間見る目がなかっただけだ。
4
蓮司が荷物をまとめて出てきた頃には、機嫌もだいぶ戻っているように見えた。
けれど私を見ると、また少し表情を曇らせる。
「会社の案件で、急に数日出張することになった」
「ちょうどいい。お互い少し頭を冷やそう」
思わず笑いそうになった。
水城沙菜と恋愛リストを進めるための旅行なのに、平然と「出張」と言える。
しかも蓮司自身は、その説明に何の問題も感じていないようだった。
「紗奈、昔のおまえはこんなじゃなかった」
「今回のことは、おまえも少し考えたほうがいい。どうしてここまで喧嘩になったのか」
本気で理解できなかった。
悪いことをしたのは彼なのに。
どうして反省を求められるのは私なのだろう。
蓮司は私の前にしゃがみ、また優しい声に戻った。
「今回の出張は本当に大事なんだ」
「何日かLINEは見られないと思う。結婚式のことは、先に紗奈が調べておいていいから」
「帰ってきたら、全部元に戻る」
昔のように、彼の手が頭に触れた。
「ここ二日くらいのことは忘れよう」
「これから先は、ちゃんと紗奈を大事にするから」
玄関のドアが閉まった。
その音を聞いた瞬間、私の中でも何かが静かに閉じた気がした。
めちゃくちゃになった部屋を見回し、結局また泣いた。
涙が出なくなるまで泣いてから、もう一度荷物をまとめた。
神谷蓮司。
私はもう、あなたの言葉を信じない。
数時間後、私も朝凪空港へ向かった。
まさか、そこで再び神谷蓮司に会うとは思っていなかった。
出発ロビーでスーツケースを引いていた彼は、私を見つけた瞬間、なぜか怒ったような顔をした。
「俺をつけてきたのか?」
すぐに意味が分かった。
私が「出張」が嘘だと気づき、後を追って空港まで来たと思ったのだ。
一方の私は、蓮司に「本当に出ていく」と知られれば止められる可能性があると思い、その場では何も言わなかった。
昔の私なら、七年も付き合った二人がどうしてこんな関係になったのかと悲しくなっただろう。
今はただ、少し笑った。
「出張なんでしょ?」
蓮司の表情がわずかに固まった。
自分でも気づいたのだろう。
本当に出張なら、ここまで動揺する必要はない。
「じゃあ、おまえは空港で何してるんだ?」
私は搭乗券を軽く上げた。
けれど、行き先は見せなかった。
「結婚の準備」
蓮司は疑うように私を見つめた。
そのとき、若い女性がスーツケースを引きながら近づいてきた。
「蓮司、この人は?」
蓮司の反応は早かった。
「俺の彼女。佐伯紗奈」
続けて私を見る。
「こっちは水城沙菜。同じ案件に入ってる後輩」
水城沙菜。
私とまったく同じ「さな」という名前を持つ女を、私は初めて目の前で見た。
一瞬だけ目を見開いた彼女は、すぐに笑顔を作った。
「佐伯さんだったんですね。初めまして」
「いつも神谷先輩にはお世話になってます。今回の出張も私がしっかりサポートしますので、安心してください」
二人が真面目な顔で芝居をしているのを見ていると、急に滑稽に思えてきた。
普通の同僚を装いながら、裏では五十個の恋愛リストを進めている。
沙菜はちらりと蓮司へ視線を送り、別の搭乗口へ行こうと促した。
二人が少し離れたところで、蓮司が突然足を止めた。
こちらを振り返る。
私はもう、自分の保安検査場へ向かっていた。
説明できない不安が、彼の中で膨らんでいったのだろう。
最後には沙菜を置き去りにして、私のところまで小走りで戻ってきた。
「紗奈」
私は振り返った。
蓮司は長い間、何か言いたそうに私を見つめていた。
「出張、すぐ戻るから」
「家で待ってて」
少し迷ったあと、続ける。
「帰ったら、誕生日もちゃんとやり直そう」
それだけ言うと、少し安心したような顔になり、沙菜のもとへ戻っていった。
やがて搭乗案内のアナウンスが響く。
私は搭乗券を見せ、ボーディングブリッジへ入った。
一度も振り返らなかった。
同じ頃、蓮司が突然足を止めた。
さっきまで私がいた場所を振り返る。
もう、そこに私はいない。
昨夜の私の目。
朝、玄関に置かれていたスーツケース。
そして今、行き先を見せなかった搭乗券。
急に強い不安が込み上げた。
結婚式の準備に、あんな大きなスーツケースが必要なのか。
昨日、私ははっきり「別れよう」と言った。
もしかして。
あれは、ただの意地ではなかった?
私は本当に――いなくなった?
蓮司は突然踵を返し、私の搭乗口へ向かって走り出した。
「紗奈!」
5
けれど後ろから、水城沙菜が彼の腕を掴んだ。
「蓮司、今日どうしたの?」
「さっきからずっと上の空じゃん。約束したでしょ? この旅行の間は他のこと考えないで、二人だけで楽しもうって」
いつものように腕へ絡みつき、甘えた声を出す。
「れんくん――」
「その呼び方、やめろ」
蓮司が彼女を止めたのは、それが初めてだった。
沙菜が固まる。
蓮司自身も、自分が何を言ったのか一瞬理解できていないようだった。
それでも、言い直さなかった。
「俺たち、恋人でも夫婦でもないだろ」
「そういう呼び方はもうやめてくれ。紗奈が聞いたら嫌な気分になる」
沙菜は信じられないものを見るような目をした。
蓮司が彼女の前で私をかばったのは初めてだった。
「この何日かは佐伯さんの話しないって約束したじゃん」
蓮司は眉を寄せた。
今までなら可愛く聞こえていた呼び方が、急に耳障りに感じられた。
少なくとも、沙菜が自分をそんなふうに呼ぶことには、もう強い違和感しかなかった。
以前なら、少し甘えられただけで彼はすぐに機嫌を取った。
けれど今日は、そんな気になれない。
頭に浮かぶのは昨夜の私の顔ばかりだった。
傷ついて。
失望して。
それでも、どこか決意していた目。
今日まで蓮司は、あれをただの「怒り」だと思っていた。
けれど空港で見たスーツケースが、初めて別の可能性を突きつけた。
私は、本当に出ていった。
数日どこかへ泊まりに行ったわけではない。
彼の人生から、完全に離れようとしている。
そう考えた瞬間、蓮司は初めて本気で慌てた。
七年間そばにいた人間だ。
たった一人の水城沙菜のために、本当に失ってしまうなんて。
一方、沙菜はそんな彼の変化に気づかず、到着したらどこで写真を撮るか、何を食べるか、楽しそうに話していた。
スマートフォンに保存した写真を見せようと身体を寄せてくる。
蓮司は彼女を押し離した。
「俺、紗奈を探しに戻る」
沙菜が固まった。
「え?」
「紗奈を探しに行く」
「何言ってるの? 正気?」
蓮司自身、自分でもおかしいと思っていた。
この旅行を楽しみにしていた。
沙菜に、最後まで付き合うと約束したのも自分だ。
それでも今は、もう行きたくなかった。
ただ私を見つけたかった。
謝りたかった。
今度こそ本当に結婚式の日を決めて、もう二度と同じことはしないと伝えたかった。
まだ間に合う。
蓮司は、そう思い込もうとした。
スマートフォンを取り出し、私に電話をかける。
電源が入っていないという案内が流れた。
彼は自分に言い聞かせる。
飛行機の中だからだ。
機内モードにしているだけだ。
次にLINEを開いた。
何か送ろうとしたのに、入力欄を前にして初めて、何を書けばいいのか分からなくなった。
最後には、自分のスーツケースを引き、空港を出ようとした。
沙菜が後ろから追いかける。
「蓮司、どこ行くの?」
「紗奈を探しに行く」
「俺、紗奈と結婚する」
「これからも一緒にいる」
「本当に失うわけにはいかないんだ」
そうして、水城沙菜は一人で空港に残された。
6
マンションへ戻った蓮司は、初めてその部屋が恐ろしく空っぽに感じた。
家具もある。
テーブルも椅子もある。
キッチンのカップだって、一つもなくなっていない。
それでも、何かが決定的に違っていた。
しばらくして、ようやく気づく。
なくなったのは物ではない。
私だった。
蓮司はすぐにLINEを開き、何度もメッセージを送った。
けれど、いつまで経っても既読がつかなかった。
LINE通話をしても応答はない。
普通の電話も繋がらない。
そのとき初めて、自分はもう完全に連絡を拒まれているのかもしれないと思った。
スマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた蓮司は、ふらつくようにテーブルへ近づいた。
朝、床へ落ちたコンビニ袋が残っている。
中には潰れたツナマヨのおにぎりが入っていた。
包装を見つめたまま、長いこと動かなかった。
「紗奈、これ嫌いだった」
「好きなのは鮭だった」
「……俺、間違えたんだ」
突然、涙が落ちた。
顔を上げると、バルコニーに置かれた観葉植物が見えた。
数年前、蓮司自身が店先で「これ、いいな」と言った植物だった。
結局、家へ買ってきたのは私。
最初の頃こそ蓮司も水をやっていたが、仕事が忙しくなると完全に放置するようになった。
それから何年も、世話をしていたのは私だった。
今では立派に育っている。
蓮司はもうじっとしていられなかった。
私の行き先を知っていそうな人へ、片っ端から連絡を始めた。
友人。
大学時代の知人。
昔の同僚。
しばらく話していなかった人にまで電話をした。
返ってくる答えは、どれも同じだった。
「知らない」
最後に、藤原美咲へ電話する。
「おまえ、紗奈の親友だろ。どうしてどこにいるか知らないんだよ?」
美咲も怒った。
「あなたは七年間付き合ってた彼氏でしょ」
「どうしてあなたが知らないの?」
蓮司は何も言えなくなった。
その通りだった。
七年間、私の隣にいたのは自分だ。
なのに最後には、私がどこへ行くのかすら分からない。
電話を切った美咲が顔を上げると、月ヶ瀬市の駅前に見覚えのある人影があった。
彼女は泣きそうな顔で私のもとへ走ってきた。
「紗奈!」
「何も言わずに急に来るから、本当に心配したんだからね!」
「さっき神谷蓮司から電話が来て、何かあったのかと思って焦ったよ」
私は背中を軽く叩いた。
「大丈夫」
「ちゃんと元気だから」
美咲は目を赤くしながら怒っていた。
「神谷蓮司、本当に最低」
「二股みたいなことしておいて、まるで困ってる女の子を助けてるだけです、みたいに言える神経が理解できない」
その言葉を聞きながら、一つ疑問が浮かんだ。
「どうして蓮司が私を探してるの?」
「今頃、水城沙菜と旅行してるはずじゃない?」
美咲は少し考えて、首を傾げた。
「さあ」
「後悔したんじゃない?」
後悔。
その言葉を聞いても、心は驚くほど静かだった。
神谷蓮司が今さら何を後悔していても、もう私には関係がない。
しばらく私は、美咲が経営している小さなカフェを手伝うことにした。
大学時代、私はお菓子作りが好きだった。けれど蓮司について朝凪市へ来るため、より安定したオフィスワークを選び、そのうち好きだったことも全部後回しにしていた。
久しぶりにカフェのキッチンへ立って、ようやく気づいた。
私は何年も、「自分が何を好きなのか」をまともに考えていなかった。
唯一面倒だったのは、神谷蓮司が美咲へ何度も連絡してきたことだ。
【もし紗奈に会ったら、俺が本当に悪かったって伝えてほしい】
【沙菜とは完全に終わらせた】
【紗奈が戻ってくれるなら、何でもする】
長い年月の中で、蓮司は私の我慢と譲歩に慣れすぎていた。
どうせ私なら理解する。
どうせ最後には受け入れる。
傷ついても、自分で気持ちを整理して戻ってくる。
ずっと、そう思っていたのだろう。
でも忘れていた。
許せないこともある。
いつまでも同じ場所で待ってくれる人ばかりではない。
美咲はメッセージを読み終えると、そのまま蓮司をブロックした。
そして私に抱きつき、明るく笑った。
「紗奈がいたから知り合っただけだもん」
「もう彼氏じゃないなら、私が神谷蓮司と連絡取る理由もないでしょ?」
私も笑って、親指を立てた。
7
神谷蓮司は、一か月以上私を探し続けた。
そしてある日、SNSに投稿されたカフェ紹介の短い動画を偶然見つけた。
映像の中で、私はコーヒーを運びながらほんの数秒、画面の後ろを横切っただけだった。
それでも、彼は一目で私だと分かったらしい。
翌日、神谷蓮司は朝凪市から月ヶ瀬市までやって来た。
店の入口に立っている彼を見たときは、さすがに驚いた。
本当にここまで来るとは思っていなかった。
一か月以上が過ぎ、私はもうかなり気持ちを整理できていた。
けれど蓮司は違った。
それから彼は毎日のようにカフェへ来るようになった。
私が何かしようとすると、すぐに手伝おうとする。
そうすることで、まだ自分にも償えることがあると思いたかったのかもしれない。
でも、私にはただ迷惑だった。
「神谷蓮司、いったい何がしたいの?」
蓮司は私を見ながら、小さな声で答えた。
「少しでも紗奈を楽にしたい」
私はため息をついた。
「今のあなた、手伝うどころか仕事増やしてるだけだから」
数日だけで、飲み物を間違えるわ、テーブルを間違えるわ、カップを三個、皿を五枚、小さなスプーンを七本も駄目にした。
美咲の視線は日に日に険しくなっていった。
最後には私を隅へ呼び、一本指を立てた。
「佐伯紗奈」
「一時間あげる」
「神谷蓮司をどうにかして」
私はすぐに頷いた。
「分かった」
美咲は気を利かせ、店の奥にある小さな休憩室を空けてくれた。
ドアを閉めた途端、蓮司が私の手を取ろうとした。
私はすぐに引いた。
「紗奈、ごめん」
「本当に悪かった」
「もう一度だけ許してくれないか?」
「沙菜とは完全に切った。もう絶対に同じことはしない」
「俺たち、昔はあんなにうまくいってただろ?」
私は彼を見た。
「神谷蓮司、こんなことして意味ある?」
目が一気に赤くなった。
用意していた言葉が全部、喉で詰まったようだった。
たぶん、蓮司自身も分かっていたのだ。
もう終わっている。
ただ、認めたくなかっただけだ。
本当に失ってからようやく、自分が何をしたのか理解した。
長い沈黙のあと、彼は小さな声で聞いた。
「本当に……もう一度も無理か?」
私は立ち上がった。
「無理」
その瞬間、休憩室のドアが勢いよく開いた。
誰かが飛び込んでくる。
私も蓮司も、反応できなかった。
水城沙菜だった。
彼女はそのまま蓮司へ飛びついた。
「蓮司、やっと見つけた!」
「どうして連絡返してくれないの?」
「なんで私をブロックしたの?」
「私、何かした?」
ところが蓮司が真っ先に見たのは、沙菜ではなく私だった。
目に浮かぶ焦りが、どんどん濃くなる。
「紗奈、聞いてくれ」
「沙菜がここに来るなんて本当に知らなかった」
「俺は嘘ついてない」
沙菜も彼の視線を追い、私を見た。
「佐伯さん」
「空港で会いましたよね。覚えてますか?」
「覚えてる」
蓮司以外に、彼女と話す理由は何も思いつかなかった。
ところが次の瞬間、沙菜は私の前に膝をついた。
「佐伯さん、お願いします」
「蓮司を私に譲ってください」
「私、蓮司がいないと無理なんです」
反射的に蓮司を見た。
これが「完全に縁を切った」という状態なのだろうか。
蓮司が何か言いかける。
けれどその前に、沙菜が続けた。
「この子から、お父さんを奪わないでください」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
蓮司がよろめくように半歩下がった。
「ありえない」
「俺の子って……どういうことだよ?」
「嘘だろ?」
沙菜は目を赤くしたまま、彼を見つめていた。
私はあの日、マンションで蓮司が言った言葉を思い出した。
沙菜とは身体の関係を持たない。
まして、子どもができるようなことは絶対にない。
今となっては、すべて笑い話だった。
8
沙菜は蓮司の袖を掴み、何があったのか話し始めた。
私が朝凪市を離れて三日目の夜。
蓮司は一人でかなり酒を飲んだ。
そのあと、自分から沙菜へ電話をかけ、彼女の家まで行った。
「あなた、あの夜ずっと紗奈って呼んでた」
「心の中で佐伯さんのことを考えてるのは分かってた」
「それでも私を抱いたのは蓮司だよ」
「私も……止めなかった」
翌朝目を覚ました蓮司は、明らかに後悔した。
沙菜に緊急避妊薬を飲んでもらい、これで終わったと思っていた。
けれど妊娠していた。
蓮司の顔から少しずつ血の気が引いた。
混乱の中で、突然何かを思いついたように沙菜を見る。
「おまえ、もしかしてわざと?」
沙菜が固まった。
「何が?」
「子どもができれば、俺を繋ぎ止められるって思ったんじゃないのか?」
「沙菜、そこまでするのかよ?」
沙菜は信じられないものを見るような顔をした。
あの日、自分から連絡したのは神谷蓮司だった。
彼女の家へ行くと決めたのも彼。
それなのに、追い詰められると真っ先に責任を相手へ押しつける。
沙菜は唇を噛み、しばらくして尋ねた。
「じゃあ、どうするつもり?」
どうする。
蓮司自身にも分からなかった。
そして、反射的に私を見る。
昔から、何か困ることがあると彼は私に相談した。
仕事。
家族。
友人関係。
誰かへのプレゼントまで、私に意見を求めていた。
けれど、もう今の彼には私に聞く資格がない。
沙菜は私と蓮司を交互に見たあと、突然こちらを向いた。
「佐伯さん」
「蓮司、昔からあなたの言うことなら聞くんですよね?」
「あなたが言えば、きっと言うこと聞きます」
「お願いです」
「私と、この子に家族をください」
私の腕を掴み、何度も揺さぶる。
身体がよろめいた。
蓮司がすぐに彼女の手を払いのけた。
「もうやめろ」
「これは俺と沙菜の問題だ」
「紗奈を巻き込むな」
とうとう沙菜の感情が爆発した。
「じゃあどうすればいいの!」
「神谷蓮司、あなたが言ってよ!」
蓮司も固まった。
そうだ。
自分はどうすればいい?
妊娠している水城沙菜。
そして、今になって必死に取り戻したがっているのに、もう自分のものではない私。
けれど私にとって、そんなものは最初から選択肢ですらなかった。
何も言わず、休憩室を出た。
藤原美咲はずっと外で待っていた。
私が出てくると、すぐに駆け寄ってくる。
「紗奈、大丈夫?」
「ごめん。まさか水城沙菜が急に入ってくるとは思わなくて」
私は首を振った。
「美咲のせいじゃないよ」
「それに、私はもう神谷蓮司とは何の関係もないから」
それを聞いて、美咲はようやく安心したようだった。
店内にはまだ客がたくさんいた。
すぐに仕事へ戻り、その後、蓮司と沙菜がいつ店を出たのかすら気づかなかった。
閉店後、美咲が少しだけお酒に付き合ってくれた。
彼女はまだ納得できないようだった。
「やっぱり分かんない」
「神谷蓮司、なんであんなことしたんだろ」
「酔ってたからって、全部お酒のせいにはできないでしょ」
私は首を振った。
「酔った勢いだけじゃないよ」
美咲が不思議そうに私を見る。
大人がする選択には、何でも「つい」「その場の勢い」で片づけられるほど単純ではないものがある。
蓮司は、水城沙菜が自分を好きだと知っていた。
それでも恋愛リストに付き合った。
旅行がどういう意味を持つか知っていた。
それでも私に「出張だ」と嘘をついた。
そして私が離れたあと、自分から沙菜へ連絡し、自分の意思で彼女の家へ行った。
どの段階でも、止まることはできた。
でも、止まらなかった。
その時の彼自身が、それを望んでいたからだ。
沙菜は、七年間続いた安定した恋愛とはまったく違う刺激をくれた。
必要とされる。
憧れられる。
若い女の子が自分だけを見てくれる。
蓮司は、それを楽しんだ。
だから一歩ずつ踏み込んだ。
代償が想像以上に大きいと分かってから、後悔しただけだ。
グラスに残っていた酒を飲み干した。
ある意味では、水城沙菜に感謝してもいいのかもしれない。
彼女がいなければ、七年前の神谷蓮司がもうどこにもいないことに、私はずっと気づかなかっただろう。
人は変わる。
優しくなる人もいる。
大人になる人もいる。
長い間許され続けたことで、相手の我慢を当たり前だと思うようになる人もいる。
神谷蓮司は、私が受け入れられない人間に変わった。
だから私は、離れた。
9
次に神谷蓮司と会ったのは、二か月後だった。
彼はわざわざ月ヶ瀬市まで私に会いに来た。
二か月ぶりに見た蓮司は、ずいぶん変わっていた。
いつも整えていた髪は少し乱れ、顔にははっきり疲れが出ている。以前あった余裕が、丸ごと抜け落ちたようだった。
私を見た瞬間、目が赤くなる。
最近どうしているのか、聞こうとしたのだと思う。
けれど数秒私を見たあと、その言葉を飲み込んだ。
もう聞く必要もなかった。
私は元気だった。
よく眠れている。
美咲と一緒にカフェの新しいデザートメニューを考えるようになり、大学時代に好きだったお菓子作りも改めて勉強し始めていた。
「実は、沙菜と知り合う前から、紗奈と結婚するつもりだった」
蓮司が突然、昔の話を始めた。
「ずっと待たせてることも分かってた」
「ただ、もう少し仕事が安定してから、もう少し貯金してから、もう一つ昇進してからって考えてた」
「俺たちには、まだいくらでも時間があると思ってたんだ」
自嘲するように笑う。
「そうやって先延ばしにしてたら、全部なくなった」
私はもう、ほとんど何も感じなかった。
今日会うことにしたのも、一度きちんと話を終わらせるためだった。
「神谷蓮司」
時計を見る。
「今日私を呼び出した理由が、もう意味のない昔話をするためなら、ここまでにしよう」
立ち上がろうとした。
後ろから声が飛んでくる。
「子ども、いなくなったんだ」
私は少しだけ足を止めた。
蓮司も立ち上がる。
「沙菜、流産した」
「だから……俺たち、もう一度やり直せないか?」
思わず振り返った。
「神谷蓮司」
「いい加減、目を覚まして」
彼の顔が一気に青ざめる。
「その子がいるかいないかなんて、私たちが別れた理由じゃない」
「水城沙菜がいるかどうかも関係ない」
「あなたが私に隠れて、別の女の人と恋愛リストを叶えることを選んだ時点で、私たちの関係はもう壊れてた」
「そのあとに起きたことは、私が離れて正解だったって何度も確認させてくれただけ」
蓮司の腕が、ゆっくり下がっていった。
私は彼を見た。
「もう私を探さないで」
「少しでも悪かったと思ってるなら、私が静かに暮らせる場所くらい残して」
「そうじゃないなら、私はまたここから離れる」
蓮司の身体がはっきり揺れた。
そのとき、少し離れた場所に見覚えのある姿が見えた。
水城沙菜。
こちらを睨みつけている。
私は一度言葉を切り、付け加えた。
「あなたも、水城沙菜も」
「もう二度と会いたくない」
言い終わった瞬間、沙菜が走ってきた。
そのまま私の頬を叩こうと腕を振り上げる。
反射的に身体をずらした。
彼女の手は横の柱にぶつかり、沙菜の顔が痛みで歪む。
蓮司はすぐに私の前へ立った。
「俺をつけてきたのか?」
信じられないという顔で沙菜を見る。
「いい加減、少し一人にしてくれないか?」
けれど沙菜は、完全に感情を失っていた。
「神谷蓮司、前から言ってるでしょ」
「最初に私へ近づいたのはあなたなんだから、最後まで責任取ってよ」
「どこへ行っても、私はついていく」
「もう逃げられると思わないで」
あとになって知った。
流産してから、沙菜は以前よりずっと不安定になっていたらしい。
蓮司の周りに女性がいるだけで疑う。
返信が少し遅ければ、何度も電話する。
電話に出なければ、会社まで押しかける。
ひどいときには職場で騒ぎになり、同僚や上司にまで二人の事情を知られていた。
蓮司は今の立場まで来るのにかなり苦労していた。
仕事を辞めたくはない。
けれど沙菜とも完全には切れない。
結果、彼女が騒ぐたびに折れるしかなかった。
今回だって、本当に月ヶ瀬市へ仕事で出張してきただけだった。
それなのに沙菜は、黙って後をつけてきた。
とうとう蓮司が爆発した。
「何度言えば分かるんだよ! 今回は本当に仕事なんだ!」
「出張なんだよ!」
「どう説明したら信じるんだ!」
沙菜は一瞬固まった。
やがて、突然笑った。
「出張?」
「蓮司、覚えてる?」
「昔、私と旅行するために佐伯さんへついた嘘も、『出張』だったよね?」
その一言で、周囲が静まり返った。
蓮司も動けなくなった。
ゆっくり私を見る。
もうその目には、言い訳もなかった。
ただ、惨めさと後悔だけが残っていた。
そう。
あのとき、彼は同じ言葉で私を騙した。
今度は本当に仕事なのに。
もう誰にも信じてもらえない。
自分で一つずつ選び続けた結果だった。
蓮司は全身から力が抜けたように立ち尽くした。
しばらくして、小さく言った。
「沙菜」
「また、おまえの勝ちだ」
「帰ろう」
沙菜の怒りが嘘のように消えた。
笑顔を浮かべ、蓮司の腕へ絡みつく。
「うん」
「帰ろう」
今度の蓮司は、何も言い返さなかった。
その腕を振りほどくこともしなかった。
二人が遠ざかっていくのを、私はその場で見ていた。
昔の私は、蓮司がいつか後悔して、ボロボロになった姿を見れば、きっと胸がすっとすると思っていた。
でも実際にその日が来ても、残ったのは安堵だけだった。
本当に一人の人間を手放したあとでは、その人にどんな報いが返ってくるかさえ、もう大して重要ではない。
夜、自分の部屋へ帰る途中でコンビニに寄った。
鮭のおにぎりと飲み物、それから新発売のプリンを一つ買った。
窓辺には、数日前に自分で選んだ小さな観葉植物が置いてある。週末には美咲と陶芸教室へ行く約束もしていた。
カフェの新しいデザートメニューは、もう第一案が完成している。
このまま順調にいけば、近いうちに美咲と一緒に店を運営することになるかもしれない。
七年前。
私は神谷蓮司のために、知らない街へやって来た。
七年後。
ようやく、自分のために人生の予定を立てるようになった。
誰かの帰りを待つ必要はない。
誰かに「家」を与えてもらう必要もない。
自分の部屋がある。
好きな仕事がある。
会いたいときに会える友達がいる。
自分のために使えるお金も、少しずつ増えている。
あの五十の恋愛リストを、その後思い出すことはほとんどなくなった。
私の人生に、誰かが作ったリストなんて必要なかった。
今の私は、ちゃんと自分の人生を歩いている。
よく眠れて。
よく笑えて。
貯金だって、少しずつ増えている。
それで十分だった。




