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空洞

作者: Ono
掲載日:2026/03/15

 バスを降りた瞬間、ちょっとした眩暈を感じて琴浦(ことうら)(さく)は目を細めた。初夏の潮風が髪を乱し、シャツの裾をはためかせる。停留所から歩いて十五分ほどの道を、朔は荷物を肩に掛けたままゆっくりと歩く。

 海が見える。水平線が空と混ざり合ってぼんやりと滲んでいた。

 幼馴染である直澄(なおずみ)がこの海辺の町に引越したのはもう三年も前だった。だから朔は、三年ぶりに彼に会うことになる。


 朔の記憶の中の天羽(あもう)直澄(なおずみ)はとにかく元気で、いつもそこらを走り回る少年だった。寺の境内を、畦道を、林の中を、ガキ大将のように笑いながら駆けて、朔はそのあとを必死でついて行った。

 朔の家は山の中腹にある小さな寺で、直澄の母親はそこで事務の仕事をしていた。だから幼い頃、二人は毎日のように顔を合わせた。

 直澄は朔の一つ年上で、いつも朔を引っ張り回すのが好きだった。


 ある梅雨の日。母親が仕事を終えるのを、直澄は境内の軒下で待っていた。ところがその日は仕事が長引いて、弱い朔とのゲーム対決に飽きた直澄は、一人で雨の庭に出て行った。

 寺の庭の片隅に手水鉢がある。そのすぐそばに奥深くまで穴が掘られていて、ちょうど水が落ちる穴の下に甕が伏せられている。水琴窟というものらしい。そこに水が落ちると地中から琴に似た音が響いてくるのだ。

 慣れすぎた朔には興味を惹かれないものだったが、直澄はその音を気に入っていた。そうして雨に濡れたまま、音を聞き続けていた。


 直澄は風邪を拗らせ、肺を悪くした。それから直澄の体は雨にひどく敏感になり、湿気の多い土地には住めなくなった。医者の勧めで天羽家は海辺の町へ越していった。雨の少ない、乾いた潮風が吹く町へ。

 朔は自分のせいだとは思っていない。思わないようにしていた。

 けれどあの日のことを思い出すたびに何かが胸の奥できゅっと締まる気がして、直澄に会いに行けずにいた。たった一言でも、中に入れよと、そう声をかけていれば何かが違ったのだろうか。


 梅雨がくると外に出るのが億劫になる。だから五月のうちに、今のうちにと自分に言い聞かせてバスに乗ったのだった。


 教えてもらった番地をたどると、白い漆喰壁の小奇麗なアパートがあった。朔の感覚では「アパート」と呼ぶのは気が引ける、少し異国情緒のある海辺のおしゃれな建物だった。

 庭に植わっている木の種類も分からないが、根元に「南天」と書かれてあった。天羽と書かれた表札を探してチャイムを押すと、一分ほど経ってからドアが開き、朔の母が迎え入れてくれた。


 案内された直澄の部屋は、真昼だというのに薄暗かった。

「……朔」

 直澄は驚いた顔をしている。澄んでいながら何かの影が重なったような震え声。その声を聞くと朔はなぜか「久しぶり」と言いかけた言葉がしぼんでしまった。

「連絡なしにきてごめん。留守じゃなくてよかった」

 直澄は「留守のことはないよ」と笑う。三年ぶりに見る直澄は輪郭線が薄くなったように思えてならない。朔が見慣れた、外を走り回って日焼けしたあの顔ではなかった。家の中で過ごす時間の長さが肌に染み込んでいるような、そういう白さがある。


 手持無沙汰にカーテンを少しめくって窓の外を眺める。すぐ近くに海が見えた。

「毎日これが見られるんだから贅沢だな」

「見飽きたよ、海なんか」

 直澄は布団に寝転がったまま素っ気なく答えた。

「退屈なんだ、毎日。何もすることがない」

「それが静養だろ」

 直澄は返事をしなかった。


 台所からお湯の沸く音がした。直澄の母がお茶を淹れてくれているようだ。そろそろ麦茶のほうがいいなと朔は思う。自宅ではもう冷蔵庫に麦茶が入っていた。

 三年前はいくらでも話題が尽きなかったのに、直澄と何を話せばいいか分からない自分が不思議だった。

「海、行った?」

 適当にそんなことを言うと、直澄は小さく咳をしてから誤魔化すように「ううん」と答えた。

「潮風を浴びたら体に障るってさ。窓からは見えるのに、見えるだけだ。写真を飾ってるのと同じだよ」

 心配しすぎなんだと遠くを見つめる直澄に、朔は自分が間違えたことを知った。


「お前の家の庭、水琴窟があるだろ」

「え? ああ」

 地中に埋められた甕に水滴が落ち、反響して琴に似た音を鳴らす。彼を夢中にさせた音。

 直澄の母親は雨が降るたびに彼を家に閉じ込めるようになり、家中の戸をきつく締め切って雨音を遠ざけた。朔の家である寺に近づくことも禁じられた。

「また聞きたいな、あれ」

 それはもう二度と叶わないと知っている者の響きだった。直澄の病状は、朔が想像していたよりもずっと重いのかもしれない。


 直澄は布団に入ったままだったが、朔が持ってきたゲームをして二人で遊ぶ。時間を忘れ、三年前に戻ったような気がした。

「朔」

 不意に直澄は白い手で朔を引き寄せて薄い胸板に朔の手を当てる。

「ここ、聞いてみろよ」

 促されるまま、朔は直澄の胸元にそっと耳を押し当てた。規則正しい心音の奥で、呼吸をするたびに擦れた音が聞こえる。

「声が、変なふうに響くだろ」

 頭上から囁く直澄の声は、確かに肺という空洞の中で反響し、くぐもって朔の耳に届いた。


「……不思議だけど、変ってわけじゃない」

 それは嘘ではなかった。重なり合うような音は琴の音に似て、きれいだと思った。しかし「心音がきれいだ」なんて、口にするには重たい気がして朔は言葉を濁す。

「岸辺に洞窟があるんだ。向こうにある岬のところ。雨が降ると、天井の穴から水が垂れてきて、岩肌に当たって、洞窟全体に響くらしい」

 天然の水琴窟だと直澄は笑う。鼓動が頼りなくて朔は笑えなかった。

「帰る前に雨が降ったら、お前、聞いていけよ、朔」

「一緒に行こうよ。おばさんに頼んでみるから」

「そうだな」

 母さんが聞いてくれるといいけど、と答えながら、直澄は少しもそうは思っていないようだった。


 結局、その約束は叶えられなかった。朔が滞在している間、五月の空は憎らしいほど晴れ渡り、一滴の雨も降らなかったのだ。


 やがて梅雨が過ぎ、焼けつくような夏の盛りが過ぎて九月の終わり、朔は電話を受けた。直澄の母親からだった。

 電話の内容は、長くはなかった。


 ***


 葬儀は海辺の町で行われた。

 直澄の顔はただ眠っているようだった。穏やかで、もう疲労もなく、朔が知っているどの顔よりも安らかに見えた。

 火葬場で別れた後、もう一度見た時には直澄は小さな白い壷に入っていた。庭の底にある甕も、あんな形をしているのだろうか。

 壷は直澄の母が田舎へと持って行き、朔のもとには直澄の一欠けらも残されはしなかった。


 冷たい秋雨が降っていた。朔は黒い傘を差し、直澄が言っていた岸辺の洞窟へと向かった。彼が見たがっていた海と聞きたがっていた音を、代わりに確かめたかった。

 岩場を抜け、岬の下にぽっかりと口を開けた洞窟に足を踏み入れる。中はひんやりと暗く、潮と苔の匂いが充満していた。

 人が二人、並んでやっと立てるくらいの小さな洞窟。奥に行くほど狭くなっている。天井のどこかに空いた小さな穴から雨水が滴り落ち、洞窟の岩肌に当たって特有の反響音を生み出した。

 朔は入り口に傘を放り出して、洞窟の奥に腰かけたまま音を聞いていた。


 目を閉じて聞くと確かに似ている。くぐもって響く、寂しくも心地好い音。洞窟全体が楽器になったようで、一粒一粒の水音が重なって、何か大きなものの声になる。

 水琴窟に似ていた。でもそれよりも、もっと深いところ、もっと遠いところにある音だった。

 直澄の音に似ていた。


 どれくらいそうしていただろうか。

 ふと足元に冷たいものを感じて目を開けると、いつの間にか海水が足首のあたりまで入り込んでいた。

「……っ」

 朔は慌てて出口を振り返ったが、そこはすでに黒々とした海水で塞がれようとしていた。

 血の気が引く。雨に気を取られて忘れていた。今日は新月だ。潮の満ち引きが最も激しい大潮の日。瞬く間に、水嵩は膝から太ももへと上がってくる。

 洞窟の天井にある雨が入る穴は、到底人が通れる大きさではない。出口はすでに完全に水没し、波に抗って外へ出ることはできなかった。波が押し寄せるたびに洞窟内の空気が圧縮され、異様な海鳴りが鼓膜を圧迫する。


『帰る前に雨が降ったら、お前、聞いていけよ』

 暗闇と氷のような水の中で、朔は直澄の声を聞いた気がした。

「直澄」

『俺には、お前の家の庭の音が一等良かったんだ』

「直澄、そこにいるのか?」

 朔は叫んだ。しかし返ってくるのは冷たい水の音ばかりだ。

『くぐもって響く音は、優しい』

 その声は、かつて朔が耳を当てた胸の奥から聞こえてきた音と同じ響きだった。

「直澄!!」


 大きな波がきた。洞窟の天井からも雨が降り続けていた。朔の音は雨と波に埋もれて途絶えた。




 翌朝、海辺の町で騒ぎがあって、朔は病院のベッドで目を覚ました。

『帰る前に雨が降ったら、聞いていけよ』

 一緒に行こうと言ったのに、朔は約束を守ってやれなかった。そもそも守る気などあったのだろうか。

 窓の外ではもう雨が止んでいた。


 うちに帰ってから、朔は手水鉢のそばに屈み込んだ。柄杓で水を汲んでそこに流す。水が滴り、ちょうど真ん中に落ちたようだった。

 連日の雨で溜まった水からいつもよりも深く、遠い音がする。

 ――朔、聞いてみろよ。

 ――うん。すごくきれいな音がする。

 直澄の胸元に耳を当てた時に聞いたのも、洞窟の中で聞いた音も、全部そこに入っている。重たいから言えなかった。その音の美しさと、その音が持つ意味を、一緒には飲み込めなかったから。


 直澄を夢中にさせた音。雨も寒さも忘れて聞き続け、彼を連れていった音。あの日のままの直澄の声が今も地の底から聞こえてくる。

 朔の瞳から滴る水では琴を鳴らすには足りなかったけれど、くぐもって響く音は怖いくらい優しかった。

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