第7話:牧場跡地と、ブラックウッドの男
新聞を開くのは、朝食を片付けてからにした。
腹が落ち着くと、ようやく指先のムズムズも少しマシになる。
机の上で「動く新聞」は、相変わらず小さく脈を打っていた。紙の端が、呼吸みたいにわずかに波打つ。
僕は意を決して、そっと広げる。
ぱっと、紙面が明るくなる。
写真が“写真”のままじゃない。
湯気が立ち、雲が流れ、誰かの口が動く。
音は出ないのに、見ているだけで情報が押し寄せてくる。
いきなり、見出しが目に刺さった。
【回路問題の孤児・子どもの失踪が相次ぐ】
【裏社会に利用されている可能性——】
(うわぁ……物騒だな)
胸の奥が、ほんの一瞬だけ冷えた。
——でも僕は、ページをめくる手を止めない。今の僕が欲しいのは、事件の真相じゃない。
(目的は、牧場!)
そう自分に言い聞かせて、紙面を流し見のまま指を滑らせる。別のページが、するりと立ち上がってきた。
【密猟者の増加? バイソンの角が高価になる背景】
【取引は裏ルートへ——監視強化の動き】
(へぇ……)
一瞬だけ気になる。
でも今の僕に必要なのは、角でも裏ルートでもなく——土地だ。
指で払うと、紙面が切り替わり、地図の上に小さな印が灯った。
「土地・不動産」——その文字が見えた瞬間、指が勝手に止まる。
そして、そこに載っていた。
ーーーーーーーーーーーーー
ブラックウッド牧場跡地
[売却/交渉可]
売価:8ソル金貨
ーーーーーーーーーーーーー
「……は?」
思考が止まった。
次に来たのは、胃の奥がきゅっと縮むような感覚だった。
(八ソル金貨……? 僕の全財産、四ソル金貨と……こまかいのがちょっとだよね? ……倍じゃん。普通に無理じゃん。詰んだじゃん……)
学業のかたわら、一ソル金貨稼ぐだけでも、余裕で半年は消える……。
目の前が一瞬だけ暗くなる。
でも——そのすぐ横の文字が、僕の視界を引っ張り戻した。
ーーーーーーーーーー
[売却/交渉可]
ーーーーーーーーーー
(……交渉?)
胸の奥に、小さな火が灯る。
値札が無理でも、話ができるなら——まだ可能性はある。
「……いけるか? 交渉なら……いけるかも……!」
声が漏れた。
自分でも情けないくらい必死だ。
同時に、物件欄の端で、小さな映像がふわりと再生される。
穏やかな笑顔の男女。
年の頃は四十代くらいだろうか。並んでこちらに向かって手を振っている。
後ろに見えるのは、木の柵と広い空。日差しが柔らかい。
——なんだか、すごく人が良さそうな夫婦だ。
(……この人たちが、売主?)
ページの中の二人は、口元を動かして笑っている。
音はないのに、なぜか「どうぞ、よかったら」って言われてる気がした。
(……これはどう考えても呼ばれてる! 行くしかない!)
僕は椅子から立ち上がり、家を飛び出した。
『ご主人様。ここから目的地まで、最寄りの魔導バスを利用することもできますが、いかがなさいますか?』
「うーん……距離ってどんなもんなの?」
『最短距離で行けば、おおよそ十二キロメートルほどです。ご主人様の速度なら、十五分もあれば余裕をもって到着できるかと』
「なぁんだ、めっちゃ近所じゃん。走って行くよ!」
借りた家は学園の裏を抜けた少し先にある。
目的地も、どうやら学園側らしい。
朝霧の残る学園の敷地を横切り、坂道を転がるように下る。
裏通りを曲がり、ミネルヴァの指示に従いながら駆け抜ける。
冷たい朝の風が、熱を持った頬に心地いい。
そして——とうとう、その場所(聖地)に辿り着いた。
「……ここだ」
柵に手をかけようとした、その時だった。
「坊主、うちになんか用かい?」
背中から、ぽとりと声が落ちてきた。
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたみたいに跳ねた。
驚いて振り返ると、いつの間にか男が立っている。
黒い外套をだらしなく着崩し、髪は寝癖みたいに無造作な黒髪。
無精髭の浮いた顔は、四十代半ばといったところか。
だが、何より異様だったのは——その「立ち方」だ。
風の音も、草の擦れる音も、虫の声も聞こえる。
なのに、この男の存在だけが、風景の空白みたいに抜け落ちていた。
まるで、最初からそこに「岩」として置いてあったみたいに。
あるいは、世界そのものが彼を無視しているみたいに。
気配が「空気」そのものに溶けてるみたいだった。
(……この人、ただ者じゃないな)
——と、そこまで思って。
男の顔を見た瞬間、別の記憶が弾けた。
さっき新聞の端で、にこやかに手を振っていた“夫婦”。その、男の方。
(……あ。あの新聞に映ってた人だ)
だが、その実力に感心している場合じゃない。
今の僕にとって重要なのは、この男の戦闘力より、この土地の所有権だ。
心の中でかぶりを振り、努めて明るく声をかける。
「あ、どうも。おはようございます。ここって牧場跡地ですか?」
「おう。昔、うちで使ってた場所だ。今は見ての通り跡地。管理もままならず、荒れ放題さ」
そう言いながら男は、柵の柱を軽く叩いた。
カラン、と音が鳴る。中がスカスカに乾いた、寂しい音。
木材の寿命まで見透かすような叩き方に、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの……突然すみません。僕、新聞を見て来ました」
「新聞?」
男の眉が、わずかに上がる。
「ブラックウッド牧場跡地って……売却/交渉可、って載ってて」
言った瞬間、自分の必死さが声に滲んだ気がして、少し恥ずかしくなる。
でも、引けない。
「ああ。そりゃ間違いなくウチだな」
「よかった! 実は僕、個人的に牧場を探してて……!」
「ほう。あんた若いのに珍しいな。セントルファー学園の学生さんかい?」
「あ、はい。今年入学しました……ていうか、それは……」
言葉が止まる。
男の背後から、ひょっこりと顔を出した“それ”に、視線が釘付けになった。
息を呑むほど、美しかった。
透き通るような白磁の毛並みは、朝の光を吸い込んで、自ら発光しているように見える。
頭上には、ガラス細工のように繊細で、それでいて王冠のように雄々しい枝角。
瞳は湖面のように澄んだ青。
(……月冠鹿)
喉が勝手に鳴った。
気配を消す特性を持ち、熟練の猟師ですら捉えるのが困難だと言われる希少な幻獣。
それが今、まるで飼い猫のように男の腰へ鼻先を擦りつけている。
男は僕の凝視に気づき、ニヤリと口の端を上げた。
「ん? 月冠鹿が珍しいのかい?」
「すごい! ハクゲツを狩るだなんて……!」
本当に、信じられないことだ。
月冠鹿は、その特性上、遭遇することすら“奇跡”だと言われる幻獣だ。
気配を断つことにかけては、自然界でもトップクラスにいる。
なのに、それを——狩るだなんて。
「ああ、ちょっとばかし、気配を探るのは得意なもんでね……」
言い方は軽い。
けれど、その声の底には、井戸の底のような、深く暗い静けさがあった。
ただ「探る」のが得意な程度で、ハクゲツを狩れるはずがない。
この人は、自分の気配を完全に殺した上で、相手の気配だけを一方的に掌握しているんだ。
『アハハ! 懐かしい足運びだねえ。まるでシノビの「透かし歩き」そのものじゃん。すっごくやるよ、その人。まあ、アタシから見ればまだまだ「甘えっ子ちゃん」レベルだけど!』
ジュリアの陽気な声が弾む。
伝説のシノビ基準での「甘えっ子」がどの程度の強さなのか見当もつかないけれど、一般人の僕からすれば十分に脅威的だ。背筋に冷や汗が伝った。
「……それよりあんた、その口ぶりだと狩ったことがあるみたいだな?」
「ああ、はい。一回だけですけど」
狩ったことがあるのは本当だ。
四年ぐらい前だっけな。偶然、牧場の近くで見かけたことがある。弱っていたからか、突然こっちに襲いかかってきて、びっくりした。
動きも鈍そうだったから、大人気もなく追いかけた。
それでも捕まえるには一苦労で、一時間弱は追い回した記憶がある。
解体してから父さんが見て、「こりゃハクゲツじゃねえか、よくやった!」と褒めてくれたっけ。
僕としては、ただの「逃げ足の速い鹿」くらいの認識だったけれど。
間違いなく弱々しい反応だったから、ラッキーで狩れたんだと思う。
幻獣とも呼ばれる気配を消せるハクゲツが、ガキひとりに捕まえられるわけがないんだから。
ただ、解体したときには腐っていて、到底食べられる状態じゃなかったのが悔やまれる。
「へー! その若さで経験済みとは恐れ入る。その上、牧場も探してる、か。セントルファー学園の生徒にしちゃ珍しい」
男は破顔した。
その笑い方が妙に人懐っこくて、親しみやすい。
「気に入った! 俺はバトルロイ・ブラックウッド。気軽にロイって呼んでくれ。あんた、名前は?」
「ロイさんですね。僕は鴨葱焔乃士って言います」
「いい名前だ。鴨葱くんも、狩りが趣味なのかい?」
「ん〜、趣味というか……生き方の一部、ですかね?」
食べることは生きること。
家畜を育て、あるいは害獣を駆除し、その肉をいただく。
酪農家として生きる以上、それは避けて通れない「日常」だ。
「生き方……! その年齢にして、そこまで深く『生』と向き合ってるのか……いいな! なおさら気に入ったよ!」
「え、あ、ありがとうございます? ……あ、でもその感じだと、ハクゲツ相手にほぼ一撃ですよね」
ロイさんは肩をすくめた。
「ああ、仕留めるなら苦しませたくない。それだけさ」
その言い方は優しい。共感する。
でも、苦しませずに即死させるには、針の穴を通すような技術がいる。
きっとロイさんの優しさは、残酷なまでの“技術”に裏打ちされているのだろう。
「わかります。僕もやるなら、なるべく一撃で仕留めるよう心掛けてます」
「……ほう。そんなニッコニコで言うことかね」
どうやら僕は、笑ってしまっていたらしい。
頬をさすって、慌てて弁解しようとして——やめた。
綺麗ごとはナシだ。
ロイさんの目を見ればわかる。
この人は、上辺の言葉じゃ誤魔化せそうにない。
だから僕は、僕の中にある「当たり前」を、そのまま口にした。
「……死ぬ命は巡る命。どうせ食べるなら、美味しい方がいいですから」
苦しませれば肉が強張り、血が回って味が落ちる。
奪った命を自身の血肉に変えるなら、最高の状態でいただくのが、看取る側としての最低限の誠意だ。
そこに、可哀想だとか残酷だとか、そんな感傷が入り込む余地はない。
——完璧にとは、いかないけど。
一瞬だけ、ロイさんの目が細くなった。
笑いが消えたわけじゃない。
ただ、獲物を見定めるような鋭い光が、僕の奥底を覗き込んだ気がした。
「……まいったな」
ロイさんが頭をガシガシとかく。
「どうかしました?」
「気が合うやつは好きになっちまうサガでな。もう、鴨葱くんのこと好きになっちまいそうだ。……助けてやりたくなった」
そう言いながら、ロイさんは親指で自分の胸を軽く叩いた。
“腹を決めた”って仕草だ。
「良かったら、うち来るか? 新鮮なハクゲツを振る舞おう。今日狩ったのとは別で、先日仕留めたハクゲツの煮込みを、うちの妻が用意してくれているはずだ。こいつは蹄のゼラチン質がプルップルでうまいんだ。飯でも食いながら、鴨葱くんの話を聞かせてくれ」
(……先日仕留めた? ハクゲツって、そんな簡単に狩れるものなの……?)
感嘆混じりの疑問が、反射で湧いた。
でも、今注目すべきはそこじゃない。
この誘いは、僕にとって“交渉の席”でもある。
僕は、しっかりと見据えてくるロイさんに、真剣な眼差しを向けた。
「行きます!」
僕は迷わず答えた。
もちろん、大事な大事な牧場の交渉をするため。
そして——命を美味しくいただくために。
(だって、幻獣の蹄の“ぷるぷる”煮込みだよ!? 気になりすぎる……!)
食欲に敗北した僕は、ロイさんの後をついていくことにした。
これで、何事もなく牧場跡地の交渉をしながら、美味しく食事ができる。
——そのはずだった。
背中に、妙な視線を感じる。
冷たい針を心臓に当てられたみたいな、あのゾッとする感覚。
振り返る。
誰もいない。
ただ、静かに風が吹いているだけ。
でも。
——昨日、鏡の前で感じたのと、似てる。
……勘違いか。
僕の潜在的な不安が、顔を出してるだけなのか。
(……気のせい、だよね?)
問いかけに返答など、あるはずもなかった。
……。




