第29話:いつもの味
自宅に帰った僕は、服を脱ぎっぱなしにして、まず湯船に沈んだ。
肩まで浸かった途端、湯の中でぱらぱらと、何かが溶けていく。
血の匂いだったのか、脂の匂いだったのか、夜気の冷たさだったのか——自分でも区別がつかないまま、それは湯の表面に薄く広がり、やがて溶けていった。
代わりに、透明だったお湯がみるみる濁っていく。
先に体を洗っておけば良かったかもしれない、と頭に一瞬よぎる。けれど、結局のところはどっちでもいい。
湯船から上がり、牛乳から作られた実家のお手製石鹸で、仕上げるように丁寧に体を洗った。汚れたメガネもついでに綺麗にしておく。
風呂から上がると、少しだけすっきりした感覚がある。
濡れてへなった濃い栗色の天然パーマの髪を、魔石温風器で乾かすと、少しずつクルクルにもどっていく。
丸い眼鏡をかけて、鏡越しに自分の顔を見る。
うん、確かにキレイにはなった。体もあったまった。
でもまだ心はむずむずして、眠気は遠いままだった。
寝る前に念波石で実家へ通話を繋ぐ。
耳の奥に響く父さんの声は、いつもよりほんの少しだけ細く聞こえた。
——けれど、危篤というわけじゃないらしい。
それが確認できただけで、胸の奥の緊張が、ほんのわずかほどけた。
母さんは相変わらず元気で、牧場跡地を手に入れることができた話をすると、声がぱっと明るくなった。
……いつもより、明るかった気もする。
「よかったね」と笑ってくれて、僕もつられて笑い返した。
牛や羊、馬たちは、協業していたダリアさんのところで引き続き世話をみてもらっているらしい。
ありがたい限りだ。ダリアさんには、ずっと頭が上がらない。
とりあえずは一安心。
実家の畜産動物たちも、どうにかなっていることがわかった。
二人とも元気でいる——そう確認できた。
……はずなのに。
通話が終わった途端、残ったのは“安心”じゃなくて、鈍い重さだった。
二人とも、たぶん強がってる……気がする。
その強がりを責めたいわけじゃない。むしろ、ありがたい。
ありがたいんだけど……それでも僕は、どう応えたらいいのかわからなかった。
結局、最後に口から出たのは「二人とも、無理はしないでね」だった。
行き場のないような、浮ついた気持ちを隠すみたいな言葉。
本音ではある。けど……もっと他に、何か言えた気もする。
それがどんな言葉なのか、僕にはまだ見つけられる気がしない。
念波石を机に置いて、僕はしばらく、その薄灰色の石をぼんやり見下ろしていた。
——あ、そういえば。
母さんの声の余韻に引っ張られるみたいに、記憶の底から、ふとひとつの味が浮かび上がってきた。
台所に立つ。
冷蔵庫の隅から、実家から持ってきた小瓶のストックを引っ張り出す。真っ赤に熟したトマトの実。母さんの牧場の隣で、母さんが水をやって育てたやつだ。
食糧保存から小瓶をひとつ開ければ、元の大きさに戻るモッツァレラチーズ。これは自分で作ったもの。
窓辺の鉢植えに手を伸ばして、バジルの葉を二、三枚ちぎる。
実家から運んできた、まだ呼吸している唯一の家族だった。
トマトを輪切りにする。モッツァレラも同じ厚さで。
でも切られた厚さはいつもよりも均一じゃなかった。
皿の上で交互に並べて、バジルを乗せる。粗塩、オリーブオイル、ほんの少しの黒胡椒——それだけ。料理とも呼べないくらいの、簡単なやつ。
せめて、もう少し丁寧に下拵えをすればよかったのだけれど。
でも。今はいいんだ、これで。
丁寧さに欠けてるかもしれないけれど。
今はいいんだ、これで。
だってこれが食べたかったから。
そしてもうひとつ、食糧保存で封じ込めた小瓶を開ける。
小瓶に閉じ込めておいた、母さんのチーズケーキ。ベイクドと、レアの二種類。それらが白い平皿の上に、静かに乗る。
レシピは母さんお手製のもので、僕もよく作る。僕が作っても味は似るんだけど——今、食糧保存から出したのは、母さんが作ってくれた方だった。
その事実が、今の僕にとってはありがたかった。
食卓の上に、三つ並べる。
赤と白と緑のカプレーゼ。焼き目のついたベイクドチーズケーキ。
真っ白くなめらかなレアチーズケーキ。
「いただきます」
食事のタイミングになっても、英雄たちの声はなかった。
まず、カプレーゼを一口。
トマトの果肉が歯の間で弾けて、モッツァレラのミルクの匂いがふわっと広がって、バジルの青さが鼻を抜けていく。
……いつもの味だ。
——良かった。味がする。
そう思った瞬間、肩の力がふっと抜けた。
自分でも気づかないうちに、どこか身構えていたらしい。
ベイクドチーズケーキにフォークを入れる。
焼き目の下、しっとり重たいチーズ生地。噛むと舌の上でゆっくり溶けていく。甘さと、ほんの少しの塩気と、焦げ目の香ばしさ。
食感も、ちゃんとわかる。
甘さも、ちゃんとわかる。
こっちも、食べられる。
レアチーズケーキにフォークを移す。
ひやっと舌に触れて、そのままなめらかに溶けていく。軽くて、優しくて、酸味がほんの少し混じる。
うん。こっちも、ちゃんと味がする。
気づけばあっという間に食べ終わり、そのまま椅子の背に体を預けた。
歯を磨かなきゃ、と頭の片隅で思う。
思うけれど、体が動かない。瞼の重みが増していく。
うとうと。
立ち上がろうとするけど、体の重みも増していく。
ふと。
——生きてる。良かった。
そう聞こえた。
呟いたのか、ただ思っただけなのか、自分でもよく覚えていない。
うとうと。
微睡みの中で、言葉と意識の境界がぼやけていく。
うとうと。
洗面所がとても遠い気がする。
……だめだ。だめだめ。
ぐっと、椅子のひじ掛けに両手の力を乗せる。
視界が高くなる。
よかった。立ち上がる力だけは、なんとか振り絞れたようだ。
よし、このまま洗面所へ——
だが。
気づけば、足はベッドに向かっていた。
うとうと、うとうと。
倒れ込むようにシーツに吸い込まれた瞬間——
意識は、いつのまにか無意識へと溶けていった。
微睡みに、助けられた気がした。




