第23話:味がしない、ジャーキー
学園への帰り道。
ロイさんと別れ、僕は一人、帰路につく。
戦利品のジャーキーを齧りながら、木漏れ日の中を歩く。
歯を立てるたび、カチカチに乾いた肉繊維がバキッと砕け、噛みしめるほどに凝縮された塩気と脂が舌に広がる。
最高のおやつと、最高の報酬。
気分は上々——のはずなのに。
僕の頭の中で、またしても聞き馴染みしかない声が響き始めた。
『さてと、小僧。ひとつ、お主に話したいことがある』
その声色は、悪い予感と威厳を纏っている。
ガンテツの声が聞こえたけど、僕は聞こえないフリをしてジャーキーを齧った。
口は動くはずなのに、喉の奥が重い。
咀嚼音だけがやけに大きく響く。
『おい! 聞こえんフリするな! 大事なことを話そうとしとんじゃ。向き合え!』
ガンテツの頑固な声が、脳を直接ノックする。
コツ、コツ、と。
頭蓋骨の内側を金槌で叩かれているみたいに。
「うーん、やっぱり聞かないとダメ?」
『アハハ! ホノちゃん、意味わかんないよ。隠し事を嫌そうにしてたのはホノちゃんじゃん!』
ジュリアの呆れた声。
わかってる。わかってるけど、今は美味しいジャーキーの余韻に浸っていたいんだ。
だって。
現実は、消化に悪いから。
『だからテメエはクソガキのクソッカスなんだよ。命のやりとりにも興味がないフリしやがって……』
ドスの効いた低い声。
第二世代の英雄、狂戦士オーガだ。
声だけで血の匂いが漂ってきそうな圧迫感。こいつが出てくると話がややこしくなる。
足元の小石を踏んだ。
ザリッという音が、鼓膜ではなく骨を揺らす。
「いや、それには興味がないんですけど……マジで……」
『ハンッ! テメエの性分をわかってねえようだな。そもそもテメエがどんな“なり損ない”——』
言い切れないまま、言葉が宙でへし折れた。
遮られたのは、僕じゃない。脳内の“空気”そのものだ。
『——オイ、野蛮人。貴様それ以上口にするな。誰が許可した? 正気なのか?』
オーガの暴言を遮ったのは、底冷えした冷徹な響き。
第三世代、魔導王のヴァンデルだ。
『ア~~ン? 魔法だけに頼る、インテリゴミッカス野郎が。オレに許可なんていらねえんだよ』
『我が許可しておらぬ。それがわからぬというなら、貴様の好きな消しカスにして土の肥料にしてやってもいいのだぞ』
『ア? 上等だよ! テメエッ、表に出ろ! ミンチにして捏ねてやっからよ!!』
脳内の空気が、一気に尖る。
喧嘩の火種は、いつだって乾いた薪に落ちるものだ。
僕は、ジャーキーをもう一口噛んだ。
味を感じようとして——瞬、味が遠くなる。
焦げた音みたいな雑音が、脳の奥に走った。
『は~い、ストップ!! ヴァン兄も、オーガ兄も血の気押さえて! ここはしっかり話し合おうって、あたしたち会議で決めたでしょ!?』
『まるで獣と子ども。犬に戯れるような喧嘩ごっこならよそですればいいのに。……話し合った内容を反故にする、チンケな脳みそしかないのが、かわいそうで仕方ありませんわ』
ミネルヴァが冷ややかに言い放つ。
『ルヴァ姉も、火種投下しないのっ! 鎮火するのも一苦労なんだからっ!』
『まったク! みんなもボクを見習って、宿主のために身を捧げればいいの二ッ! あアッ! 研究材料としての愛! なんて素晴らしイお方! 毒を食らわば皿まで!』
『……レクター、アタシはアンタにはツッコまないよ?』
『……カオスになってきたわい。英雄どもが一斉に話すと収拾がつかんから困る』
頭の中で、歴史上の偉人たちが小学生みたいに騒いでいる。
頭痛が痛い、とはこのことだ。僕の脳みそは託児所じゃないんだぞ。
僕は視線を上げた。
木漏れ日が眩しい。眩しすぎて、目の奥がツンとする。
「……僕の気持ちの代弁どうも。じゃあ、話はもういいのかな? サクッと帰って、こっちは少しでも早くチーズケーキを食べたいんだから」
『いいわけあるか。……のう、小僧。ビビっとるのはわかる。しかし向き合え』
ガンテツの声は、いつになく真剣だった。
逃げ道を塞ぐような、重みのある響き。
足が、わずかに止まる。
止まった瞬間だけ、風の音がやたら大きく聞こえた。
「……やっぱダメか」
『そもそもご主人様、何に対してそんなに腰が引けてるのですか。ただでさえ臆病野郎ですのに、これ以上縮こまられも鬱陶しいだけですわ』
「あいかわらずミネルヴァの鋭利な言葉が今は心地いいよ。……ったく。なんでかな。気絶したことと関係がありそうなことはわかってる。でもなんでか、あんまり直視したくない自分もいるんだよ。こうなった理由があるなら……僕が知りたいぐらいだ」
言葉にすると、余計に輪郭がはっきりする。
あの時見た、自分のものではない「死ぬ瞬間の記憶」。
あれを思い出すのが怖いから、僕は無意識に思考を避けていたんだ。
噛んでいるはずの最高級ジャーキーが、急に砂を噛んでいるみたいに味気なく感じる。
『……その理由はワイにはわからん。わかりきらん。しかし大事なのは、逃げぬことじゃ。小僧、どうする。ハクゲツとは立ち向かった。立派じゃった。じゃが、大事なことからは逃げるか?』
逃げる。
その言葉に、完全に足が止まる。
確かにハクゲツからは怖くても逃げなかった。
でも、自分の「中身」からは?
「……っ! もういい……わかったから……聞くよ。僕の負け。……で、何?」
『小僧、心して聞け。お主の魔導体質である《還元消化》が、本格的に目覚めはじめちょる』
喉の奥が、きゅっと縮む。
答えは予想していた。なのに、真正面から突きつけられると息が詰まる。
「やっぱり……そうか。ハクゲツの煮込みを食べて気絶したのって、その《還元消化》のせいってわけね? そうなんでしょ?」
『……コレクト。その通りですわ』
ミネルヴァが、そのまま解説を引き継ぐ。
『《還元消化》はいわば、食べた魔獣の「経験」を自分ごとのように還元し、消化する魔導体質です。特に、その魔獣の性質が強く出る特定部位を食べると発動しやすい。今回の場合は、ハクゲツの蹄だったのでしょう。肉体の構造そのものが変化することは、ほとんどありませんが、経験の摂取による身体操作の向上や、新しい「特性」の獲得はありえます。……しかし副作用として、その経験が未知で、かつ強力なものであるほど、消化そのものに時間がかかり、脳がシャットダウンするのです』
舌の上に残っていたはずの旨味が、どんどん薄くなる。
食べているのに、食べていないみたいだ。
「戦闘中に特に際立ってた、あの感覚……足裏で振動を感じて、見えてないのに立体的にカタチがわかったんだ。……あれは、ハクゲツの能力で間違いないんだね?」
『コレクト。あれはおそらく「振動感知」のようなものでしょう。微々たる振動でも、その波長から周囲の空間を把握する。かつてハクゲツの祖先は、視界の悪い森で絶滅に瀕していたそうです。その危機から逃れるために、まさしく自然の叡智が生み出した——“濾過された生存本能”とでも言えますわね』
「あー……嫌になるよ。それじゃあ僕、何かを食べるたびに、いちいち気絶するってことじゃん。命がけの食事なんてゴメンだよ。食べるの大好きなのに……」
『ホノちゃん、それは安心して。実際に今、ジャーキー食べたじゃん。でも気絶してないよね?』
「……あれ、ほんとだ。なんで?」
さっき食べた時も、覚醒作用こそあれど、意識は飛ばなかった。
『もうすでに同じ種族の月冠鹿を食し、インストール済みだからです。同じ種族である以上、すでに特性的な経験は摂取済みであり、二度目以降は《還元消化》による負荷は発生しません。おそろしく合理的な魔導体質なのです。ご主人様より、能力のほうが賢いですわね』
「いつもありがとう。淡々とトゲを吐いてくれたおかげで、僕のメンタルも強くなっていってるよ……。あ、でもさ、それじゃあやっぱり“初めて食べるような強力な魔獣”だと、気絶しちゃうリスクは変わらないってことにならない?」
『あアッ! 宿主よ、それもないから安心してヨ! 《還元消化》が反応するのは、際立った「特性」のミ! だからこそ、際立った魔獣の部位に反応すルッ! そこらへんの平々凡々な魔獣ごときじゃ、味が薄すぎて反応すらしないからネエ!』
「……そっか。それならいいけど」
安堵のため息をつく。
とりあえず、何を食べても卒倒する虚弱体質になったわけではないらしい。
「強力な初見の食材」にだけ気をつければいいってわけだ。
……なのに。
胸の奥の重しだけは、外れない。
僕が強くなるたびに、誰かの「死」を背負っていく感覚だけが、胃の底に残っていた。
『ホノちゃん……元気があまりなさそうだね?』
ふいに、ジュリアが心配そうに声をかけてきた。
見透かされている。
僕が本当に恐れているのは……能力のことじゃない。
「……べつに」
『やっぱりお父さんのこと、気にしてるから……?』
心臓を、冷たい指で撫でられたような感覚だった。
「……そう、だね……魔導体質が適応してるってことは、それを封印してた父さんが……元気をなくしてきてるってことだから。ほんと勝手だよ。どんな魔導体質かすら教えないで、命を削るように封印してたってことなんだから」
ずっと目を逸らしていた事実だ。
この厄介な体質を封じていたのは、父さんの命(魔力)だった。
それが解け始めているということは、父さんの封印が弱まっているということだ。
つまり——父さんの「命」そのものが、少しずつ尽きかけている証拠でもある。
僕が幼いころから聞かされていた、封印の話。
父さんは、この体質はあまりにも厄介だから封じるんだと、そう教えてくれていた。
でも、肝心の詳細は「知る必要がない」と伏せられた。
どうせ封印するんだから、知ることもない——そう言われていた。
うそつき。
こんな形で、その詳細がわかってしまったじゃないか。
それに、負担はないとも言っていた。
けれど、それも嘘だったのだと、今ならわかる。
……いや。
本当は、薄々気づいていた。
学園に出発する頃には、父さんはもう、元気をなくし始めていたから。
『……小僧。あまり気負うな。同じ体質を持つ父親は、お主につらい経験をさせたくなかった。時折とはいえ、経験の消化はその質にかかわらず、追体験を伴う。それはすなわち、死ぬまでの経験まで、分け隔てなく流れ込んでくるということじゃ。最初の《還元消化》、小僧にとっても辛かったはずじゃ。あれは誰にも否定できん親心なのよ』
「……わかってるよ! そんなことぐらい!!」
僕は叫んでいた。
誰もいない森の道で、自分の声が静寂に虚しく響く。
さすがにもう、見て見ぬフリはできない。
ハクゲツの一生を追体験したような、あの感覚は、少なくとも楽しいものではなかった。
その記憶のすべてを覚えていなくとも、生きた感触だけは残っている。
鳥が一羽、枝を飛び立つ音がした。
それすら、やけに大きく感じる。
「わかってるけど……さ! どうしようもないこともあるじゃん! あなた達英雄にはわからないだろうね! 小市民の感覚なんてっ! それに僕は、まだまだガキだしっ!」
父さんが僕を想ってくれたことも、そのせいで父さんが弱っていることも、全部わかってる。
だからこそ、どうすればいいのかわからない。
感謝すればいいのか、怒ればいいのか、悲しめばいいのか。
澱む感情が、堂々巡りのまま体内を回る。
『——あ゛?』
脳髄に、ノイズみたいな濁声が響いた。
オーガの声だ。
『ピーピーと……ションベン臭えことばっか垂れてんじゃねえぞ、クソガキが』
その声には、同情も慰めもない。
ただの不快感を含んだ、殺意の塊。
『ションベン臭えことばっか言ってんじゃねえぞ。漢なら、意志ぐらい汲み取って飲み込め。クソが。酪農を継ぐのに都合のいいところばっか受け取ってんじゃねえぞ』
カッとなった。
一番痛いところを、土足で踏み抜かれた気がした。
口の中で、ジャーキーがぱさりと崩れる。
味は、もうしない。
「ハッ! オーガって、人の気持ちがわかる人だったんだね!? ただのクソみたいな殺人鬼だと思ってたよ!!」
『あ゛ァ? ……テメェ、いま俺に言ったのか? 噛み潰すぞ?』
脳内で、物理的な圧力が膨れ上がる。
殺される——本能がそう警鐘を鳴らすほどの殺気。
怖い。
……でも、それがなんだ。
こっちだってムカついてるんだ。
『オーガ、落ち着け……。ワイからも頼む。お主の気持ちはわかるがのう、今は焔乃士の気持ちを汲んでくれ』
『……ハンッ! 正気かよガンテツ。こいつテメエの親父にクソを塗り込もうってハラでいやがンだぞ!?』
『わかっとる。じゃが、お主までクソッタレになる必要はない。漢なんじゃろ? この程度のこと汲めんほどの器なのか? のう?』
『……ったく。そう言われたら仕方ねえ。ここでテメエをどうにかしようとしたら、器が小せえのは俺の方になるからな。ここは収めてやるよ。クソガキ、ガンテツのクソジジイのおかげで、命拾いしたな。しばらくずっと女々しく宣ってろ、バカが』
フッ、と殺気が消えた。
嵐が去ったみたいに、オーガなりに引いてくれたのだろう。
あるいは、これ以上いじめても味がしないと判断しただけかもしれない。
僕は、大きく息を吐く。
吐いたはずなのに、胸の奥の澱みは残ったままだ。
『ホノちゃん、大丈夫……?』
ジュリアが恐る恐る声をかけてくる。
「大丈夫、じゃない……うん。今はちょっと荒れてる。ごめん。話しかけてもらえないでくれると、ありがたい」
僕は視線を落とした。
ポケットの中の小瓶と、牧場の権利書。
あれほど欲しかった宝物が、今は少しだけ重く、冷たく感じられた。
『ご主人様……何か想うことがあるなら、吐き出してくれてもいいんですよ? 論理的解決はできませんが、傾聴することは私にも可能ですわ……』
「いいっ! ほっといてほしい!」
僕はそれきり、口を閉ざした。
英雄たちも、それを察して静かになったみたいだ。
なんだ。
たまには気をつかえるじゃないか。
……足取りが重い。
ジャーキーを噛む顎も疲れた。
思考がぐるぐると回って、熱を持って痛い。
何もかもが嫌になりそうだ。
……こういう時は、あれだ。
何も考えずに、優しいものに触れたい。
(……帰って、ミルクでも飲もう)
白い、母なる味。
それを飲めば、きっとこのざわつく心も少しは落ち着くはずだ。
そう言い聞かせ、僕は逃げるように歩調を速めた。
……学園に引っ越してきて、まだ二日。
もう実家に帰りたくなった。




