第22話:忠告と、約束
和やかだった場に、目に見えない線が一本引かれる。
ロイさんが、これまでに見せたことのない真剣な——いや、厳しい顔つきになる。
まるで今この瞬間だけ、優しい牧場主の皮を脱ぎ捨てて、昔の「隊長」に戻ったみたいに。
「最後に一つだけ忠告がある」
「忠告、ですか?」
「ああ。学園の裏山……あそこの『深部』には絶対近づくな」
ロイさんの声が、一段低くなった。
それは、歴戦のハンターだけが醸し出せる、死線の向こう側を知る者の警告だった。
「あそこは危険だぞ。竜息山と呼ばれて、禁足地になるだけの理由がある。あそこは、高熱の胞子を放つ『竜息茸』の群生地だ。紫色に発光する美しいキノコだが、その胞子を吸い込めば、ものの数呼吸で喉と肺を焼かれる。並の人間なら即死さ」
「ドラゴンマッシュ……」
その名前に、僕の心臓がドクリと跳ねた。
聞いたことがある。実家にいた頃、叔父が一度だけ持ってきた、あの伝説級の高級食材だ。
市場に出れば金貨の山と交換される、幻のキノコ。
……そして、父さんが「絶対に近づくな」と言った、数少ない“例外”でもある。
「あれは正しく処理すれば万能薬にも極上の食材にもなる。だが、生の胞子は猛毒だ。しかも、あのキノコは魔力を帯びている。不用意に近づけば、皮膚と肺はもちろんのこと、魔導回路まで焼き尽くされるぞ」
ロイさんの目が、射抜くように僕を見据える。
その視線の奥に、言葉にしない“何か”——おそらくは過去に見た悲劇の記憶が沈んでいる気がした。
「それに、最近あのあたりで質の悪い『密猟者』の出没が増えてる。学園が雇った警備ではなく、もっときな臭い連中だ」
「……質の悪い密猟者?」
「ああ。竜息茸はもちろん、その近くに生息してる魔獣も手当たり次第に乱獲して、闇市場に流す連中だ。自然への敬意も、命への感謝もないハイエナどもさ」
そこで一度言葉を切り、ロイさんは悔しそうに拳を握りしめた。
ギリ、と革手袋が軋む音がした。
「……昨日のハクゲツの襲撃も、十中八九そいつらのせいだ」
「えっ……? 密猟者の?」
「ああ。ハクゲツは本来、もっと山の奥深く、人目につかない場所に住む警戒心の強い生き物だ。こちらから刺激しない限り、人里に降りてくるなんてありえない。それが七頭もまとまって、あんな風に殺気立って襲ってきた……ありゃあ、ただ腹を空かせてたんじゃない」
ロイさんの瞳に、鋭い怒りの光が宿る。
「『復讐』に来たんだよ」
「……復讐?」
「ハクゲツは群れの絆が強い。特に、幼体への執着は凄まじいんだ。……おそらく、密猟者どもが金になるハクゲツの幼体を狩ったんだろう。あるいは、攫ったか。子供を奪われた群れは、怒りで我を忘れて暴走する。目につく『人間』すべてを敵とみなしてな」
背筋が寒くなった。
脳裏に、あの鋭い目をしたハクゲツたちの姿が蘇る。
あれは食欲じゃなかった。憎悪だ。
大切な家族を奪った「人間」という種族そのものへの、決死の特攻だったのだ。
「あいつらがいるせいで、魔獣の生態系が狂い始めてる。俺たちまっとうな狩人の評判まで下がりやがる。お前の腕は見込んだが、裏の社会の連中はハクゲツよりタチが悪い。心配なんだ。……絶対に近づくなよ」
ロイさんの言葉には、嘘偽りのない心配が込められていた。
僕みたいな学生が、利権と暴力が絡む闇に足を踏み入れないように。
「……わかりました。肝に銘じます」
僕は神妙な顔で頷いた。
ロイさんの忠告はもっともだ。幻の食材には心が踊るし、どんな味がするのか気になって仕方がないけれど——。
(……さすがに、行くわけにはいかないよね)
僕は心の中で首を振った。
命の危険に、子どもをさらうような凶悪な密猟者。
そこまでのリスクを背負ってまで、キノコを採りに行く理由がない。
だって、僕は料理人である前に、酪農家だ。
僕の本分は、牧場を整備し、牛を育て、最高のミルクとチーズを作ること。
危険なダンジョンに潜ってレア食材をハントするのは、冒険者の仕事であって僕の領分じゃない。
この新しい牧場で、堅実に、平和に牛たちと暮らす。
それが一番の幸せなんだから。
(……うん。食べてみたいし、すっごく気になるけど。さすがにね)
好奇心はある。
けれど、理性がそれを押しとどめる。
今の僕には、その禁忌を超えるだけの「決定的な理由」が存在しないのだ。
「約束します、ロイさん。絶対に近づきません」
僕はロイさんの目をしっかりと見て、誓った。
その言葉に、嘘はなかった。
「わかった。信じてるよ、鴨葱くん」
ロイさんは僕の肩を叩いた。
その手のひらの温かさが、朝日よりも優しく感じられた。
「また、バイトに来いよ。牛たちも、お前を待ってるからな」
「はい! 絶対に行きます!」
——この時は、まだ。
まさかその数日後、何気なく飲んだ「一本の牛乳」が、その誓いを木っ端微塵に砕くことになるとは——知る由もなかった。




