第15話:飛んでいけ、空飛ぶハクゲツ
残る三頭のうち、後ろの二頭がゆっくりと後ずさりし、闇に気配を馴染ませる。
対して正面の一頭は、こちらをじっと睨んでいる。
興奮しているのか、口元から涎がダラァっと垂れていた。
だが、すぐには飛び込んでこない。
足元の泥(罠)を警戒しつつも、圧倒的な質量で僕を押し潰すつもりだろう。
「僕をミンチにしたくてしょうがないんだね。……上等だよ。料理人として、その『素材』の挑戦を受けて立つ」
僕は感覚を極限まで鋭くしたまま、じっと動かない。
視界がどんどん暗くなっていくが、焦ってはいけない。
あちらは三頭……囲まれたら終わる。
ここで無為に近づけば、敵の思うつぼだ。
だから僕は、目の前の空気の流れと蠢く存在感に、意識の照準を集中させる。
正面のハクゲツが、こちらへ近づいてくるのを感じる。
じりじり、じりじりと距離を詰め——僕の鼻先数メートルまで迫った、その瞬間。
筋肉が膨張し、全力の踏み込みを見せた。
(今だッ!)
僕は足元に溜まっていた「エイジングで作った泥」を、軸足で蹴り上げた。
泥の塊が、スローモーションみたいに空中で舞う。
そこに手を触れ——魔力を焼き付ける!
《乾燥焼成》ッ!
ジュゴォォォォン!!
泥の波が空中で瞬時に水分を失い凝固。
無数のトゲが生えた、巨大な「陶器の盾」となってハクゲツの鼻先に立ち塞がった。
ガギィィィィィン!!
激しい衝突音。
ハクゲツは自らの突進速度で壁に激突する。
いくつかのトゲが鋼鉄の皮膚に突き刺さるも、浅い。
巨大な角が緩衝材となり、致命傷になるのを防いでいる。
それどころか——
「ぐっ……ぅぅぅ!」
ミシミシと壁が悲鳴を上げる。
壁を支えていた僕の腕に、魔導バスに追突されたと錯覚するほどの衝撃が走る。
エネルギーが僕の足首に伝わり、硬いはずの地面にのめり込む。
「ぐぎぎぎっ!」
(質量が段違いだ……! このままだと……押し切られる!)
グググと後ろへ押される。僕は耐えるように力んだ。
——が、その力みが仇になる。
次の瞬間。
押し合っていた圧が、ふっと抜けた。
踏ん張っていた僕の力は行き場を失い、体が前のめりに崩れる。
一瞬、理解が追い付かなかった。
だが答えは、目前にあった。
ハクゲツがバックステップで一歩引き、わざと押し合いを切ったのだ。
「なっ!?」
そのまま獣は、バネみたいに身を縮める。
低い姿勢から——二度目の突進。
崩れた体勢のままの僕は、対処する間もなく正面から叩きつけられた。
咄嗟になんとか壁を盾にしたはいいものの、その衝撃をまともに受けきれるはずもない。
「ぐっ……!」
——ダメだ、耐えきれない!
壁ごと押し飛ばされ、砕けた陶器を巻き上げながら、僕は後方へ吹き飛んだ。
(ちくしょうっ! 小賢しい肉めっ!)
空中で体勢をクルッと立て直し、着地点の地面に魔力を飛ばす。
《熟成軟化》!
地面を一瞬でドロドロのクッションに変え、泥にまみれながらも衝撃を殺して着地する。
「……くそっ、重すぎる」
ハクゲツはまたバックステップを取る。
自信の表れか、またしつこく突っ込んでくる気配がある。
足元を《熟成軟化》して罠にかけようにも、相手も警戒している。
それに、魔力だって無限じゃない。
無駄撃ちしてガス欠になれば、その瞬間に僕はただの「餌」に成り下がる。
かといって、力勝負では勝てない。
このままでは突破される。
ならば。
(……力で勝てないなら、流すまでだ)
ズズズ……。
ハクゲツが頭を振り、鼻息を荒くする。
怒りで血走った目が、僕をロックオンした。
再び、突進態勢。
(……次で決める!)
僕は低い体勢を取り、足元の泥に手を突っ込んだ。
《乾燥焼成》!
魔力が泥の水分を一気に飛ばし、焼き締められた土が内側から固まっていく。
熱と乾きの匂いが、ふっと鼻をかすめた。
イメージするのは滑らかな壁。
ある程度の範囲が「塊」になったところで——
指をそこに入れ込むように刺す。
「ふんぎぎぎっ! ……ラァッ!」
力いっぱいに引き抜く。
地面が、ずるりと唸って裂けた。
歪ではあるが、確かに壁になるものが、地面からせり上がる。
焼き締められた土塊——即席の陶壁だ。
そして——仕上げ!
生粋魔法:調理——
《油引き》!
壁の表面に、魔力で生成した油膜をコーティングする。
熱したフライパンに油を引くみたいに、陶壁がテラテラと艶めいた。
「来い!」
ドォォォォン!!
ハクゲツが再び突進してきた。
だが今度は、壁を垂直に立てて受け止めるんじゃない。
地面から斜め上へ伸びる——ジャンプ台みたいなスロープに成形しておいた。
受け止める“壁”は、ない。
突進の勢いのまま、ハクゲツの前脚が斜面に乗り——
シュゴォォォォッ!
摩擦ゼロ。
スライダーみたいに、巨体が油膜の上を滑った。
恐ろしい突進エネルギーがそのまま、斜め上への推進力に変換されていく——。
「——そのまま、飛んでいけ!」
ハクゲツは空中に放り出された。
重力から解放され、巨体が宙を縦にくるくると舞う。
家の明かりに照らされる白い巨体。
そして——無防備な腹部が、点滅するみたいに僕の目の前へ晒された。
——《解体》。
視界がモノクロに染まる。
空中の腹部に「赤い切断線」が、鮮やかに輝いた。
僕は手元の炭素包丁を構える。
足を踏み込み、呼吸を止める。
(——今だあああ!)
渾身の投擲。
黒いナイフが、吸い込まれるように空を裂く。
ザグゥッ!
腹部の柔らかい部分——心臓へと繋がる赤いラインの中心に、ナイフが深々と突き立った。
ドサリ。
重い音を立てて、ハクゲツが地面に崩れ落ちる。
ピクリとも動かない。即死だ。
「……ふぅ。今のはヤバかった。でもこれで——」
垂れてきた冷や汗を、泥だらけの手でさっと拭う。
「残り、二頭」




