第11話:倒れたのが、ここでよかった
「……だいじょうぶかっ! オイ! 大丈夫かっ!」
鼓膜を叩く怒鳴り声と共に、深く濁った水底から強引に引きずり上げられるように、意識が急浮上した。
反射的に大きく息を吸い込む。肺の奥まで、冷たい酸素が無理やりなだれ込んできた。
重く張り付いた瞼をこじ開けると、視界のすべてを塞ぐように、激しく顔を歪めたロイさんのドアップがあった。
近い。荒い呼気が、直接肌にぶつかる距離だ。
「あれ、僕……どうなって……?」
「鴨葱くん、あんた気絶してたんだ! いきなり白目むいて倒れるから、心臓が止まるかと思ったぞ! 何かアレルギーでもあったのか!? あるなら最初に言ってもらわないと困る! しかもさっき、急にひどくうなされて……本当に大丈夫なのか!?」
「あなた、そんなに一気に詰め寄らないであげなさいよ。意識がまだ朦朧としてるんだから、はっきり答えられるわけないじゃない」
「ロイさん……エレナさん……」
僕は焦点の合わない目で、ぼんやりと天井を見上げる。
体をゆっくり起こし、ベッドから椅子へ座り直した。
意識が朦朧として——いや、逆だ。
むき出しになった木の節目が、やけにクッキリと、異常なほど鮮明に見える。
……これは、視覚の問題じゃない。
床についた足の裏から、奇妙な情報が絶え間なく這い上がってくる感覚。
——ギ、チ、ギ、チ……。
——ガタガタガタガタ。
なんだこれ。
床板を通じて、ロイさんが無意識に小刻みな貧乏ゆすりをしている振動が、足裏から骨を伝って、まるで僕の脳髄を直接揺らしているみたいに響いてくる。
——スッ……スッ……。
エレナさんが、立ち位置を変えるために体重を移動させた。
右足から左足へ。そのわずかな重心移動すら、床の木目を伝い、僕の足裏に精緻な「映像」として結像する。
それだけじゃない。
窓の外で、冷たい風が壁を叩く振動。
遠くの茂みで、小動物が地面を蹴って駆ける微細な揺れ。
世界中で起きているあらゆる「震え」が、床に触れた足の裏という極小の接地点から、雪崩のように僕の中へ押し寄せてくる。
(……うるさい。なんだこれ、耳の感度がバグってる……? いや、音じゃない。世界の振動そのものを、足の裏から全身で拾ってるのか……?)
足の裏から骨の髄を駆け上がって、世界の音がべったりと脳に張り付いてくるような感覚。
静けさが消えた。世界が、休むことなくずっと振動し続けている。
まるで僕一人だけが、人間の理から外れたバケモノにでもなってしまったかのように——。
(き、気持ち悪い……)
怖い。
嫌だ。
そんな僕の気持ちを無視するみたいに、世界が主張を押し付けてくる。
感覚が濁流していく。
このままじゃ僕は……。
下から突き上げてくる情報量の渦に圧し潰されて……!
「——鴨葱くん? 本当の本当に、大丈夫か?」
耳元に落ちた低い声で、拡散しかけていた意識が引き戻された。
少しずつ、世界の輪郭が人間のものへと定着していく。
荒くなる呼吸を整えながら、冷静に記憶をたどる。
直前の記憶にひどく不自然な靄がかかっているけれど、確か——。
「あれ、僕はあのぷるぷるの肉を食べて——もしや、気を失った……?」
『その通りです。ご主人様が気絶されてから、現在で八時間と二十一分と十八秒が経過しております。他者の心配が熟成されはじめるには、充分すぎる時間かと』
相変わらずのミネルヴァの秒単位の細かさに、今はひどく安心する。
(そんなに? まさか飯食って気を失うなんて……人生で初めての経験だよ)
『……厳密には、これが二度目です』
(え? そうだっけ……全然覚えてないな)
しかし、なぜ僕は気絶した……?
まさか、毒でも盛られたのか。
わざわざ僕を食事に誘ったのは、最初からそのために……?
いや、だとしたら、なぜ今こうして介抱されている——。
『看病をしてくれたのカ? かな、宿主よ。安心するといいヨォッ! まず食べ物に毒はもられてなイ……むしろボク的には残念なぐらいサ……』
『ホノちゃんっ! 疑うのは、まずは前を向いてからにしなよ』
ジュリアの優しい声に諭され、僕は伏せていた顔をゆっくりと上げる。
そこには——恐怖でも、暗い殺意でもなく。
ただただ僕を心配して、くしゃくしゃに顔を歪めた、不器用なロイさんの顔があった。
「……あんた、悪い冗談はやめろよ……グぅッ! ……バーロー」
ロイさんがふいっと顔を背け、乱暴な手つきで湿り気のある目元を拭った。
荒っぽい言葉とは裏腹に、無骨で広い背中が小さく震えている。
その肩越しに、棚の上に置かれた小さな木彫りの牛が見えた。
——角の先が丸くすり減った、子どもの玩具みたいなものだ。
ロイさんの視線が一瞬だけそこを撫でて、すぐに逃げるように逸らされた。
「ごめんね、鴨葱くん。うちの旦那、泣き虫なのよ」
『あれは誰かと面影を重ねとる節があるのう……』
ガンテツの低い呟きに、僕もなんとなく直感で理解した。
あの必死すぎる取り乱し方は、ただの通りすがりの客に向けるものじゃない。
この人は過去に、自分にとって決定的に大事な誰かを「救えなかった」ことがあるのかもしれない。
「……ううん、僕が悪かったんだ。心配かけてごめんなさい、ロイさん、エレナさん」
「いいのよ! こうして意識が戻ってきて一安心だわ。……それにしても、本当に身体は大丈夫なの?」
「はい。もう今は快調です。寝起きで頭が少しだけボーっとするだけで、視界もクリアだし、体調もばっちり。……でもなんだったんだろう。アレルギーとか特にないんですけどね」
(そういえば、気を失う瞬間……頭の中で何か……見たような……? 聞いたような……?)
思い出そうとすると、頭の奥に不自然な靄が蔓延る。
必死に記憶を取り出そうとしても、ハッキリと思い返せるのは、蹄煮込みの食感と旨味だけ。
『気のせいですわ。ご主人様は、煮込みを口にして、あまりの衝撃にみみっちい脳がショートして気絶されたのです。かわりに私たちは意識があったので保証します。命に関わるような異常はありません』
(そっか。ならいいんだけど……)
……いつもより、ミネルヴァの声が少し早口なのは気のせいだろうか。
何かを隠してる……? ハハ。まさか、ね。
それに、気を失う瞬間、何かがあったような……いや、気のせいかもしれない。
それよりも不快な気分をもたらしてるのは、見ていた悪夢の方のせいだろう。
内容はハッキリと思い出せないけど、それでも一つだけわかることがある……。
僕は殺された。
夢の中で。
それだけは間違いがないと、僕の感覚が訴えかけてる。
(まあ、殺される夢って、珍しいわけじゃないらしいしな……昔も見たことないわけじゃないし)
今はっきりと残ってるのは、この不快感と、そしてやっぱり、あの——奔流するような暴力的な旨味。
あれを食べきれずに気を失っただなんて……。
(ほんと残念……)
「……もっとぷるぷる、食べたかったのに」
「おい!! あんたいい加減にしろよ! アレ食べた直後にぶっ倒れたんだぞ!?」
ロイさんが涙目で、本気で食って掛かってきた。
「あ。……今のは不謹慎でした。ごめんなさい。でも美味しすぎたから……さすがにもう……ダメだよね?」
「……あんた! ハァ……。はは、あんたイカレてるよ、鴨葱くん」
『まったく同意じゃ。アホウ』
(ガンテツも厳しィ!)
『アハハ! ホノちゃん、さすがに食い意地がズレてるよ! アタシだって肝が冷えたんだからね!』
「ふふふ、よっぽど美味しかったのね。でもダメよ、倒れた原因がハッキリわかるまではお預け。当然でしょ」
「あー、ですよね……。さすがに命には代えられないので、おとなしくしてます」
軽口を叩いて冗談で流しているけれど、胸の内側はまだ警鐘を鳴らして落ち着いていない。
“原因不明で倒れた”という事実が、重いボディブローみたいに遅れて腹に効いているのがわかる。
「でも鴨葱くん。あんた、相当『食うこと』に執着してるんだな。倒れる前も、料理作りの過程をずっと真剣に気にしてたろ?」
「うん。気になってましたけど……ん? なんでわかったんですか?」
僕は居間に座っていただけで、キッチンの中を直接覗き込んだわけじゃないのに。
そんなに顔に出てたのだろうか。
「言ったろ? 人より少しばかり気配には敏感だってな。音を聞く耳の角度、匂いを嗅ぐ鼻の動き……見てりゃあ、なんとなくわかるんだ」
ロイさんの目が、一瞬だけ鋭利な刃物みたいに光った気がした。
さっきまでの泣き虫な父親が嘘みたいに消え去り、獲物の底の底まで品定めするような、冷徹な「狩人」の瞳が覗く。
(……少々敏感ってレベルじゃない気もするけど)
やっぱり、この人はただの人のいいおじさんなんかじゃない。
底の知れない、食えない大人だ。
でもそれ以上に、優しい人だとも思う。
いきなり倒れたとはいえ、知り合って間もない他人に、普通は涙を流して看病なんてしない。
その様子を見るに、付きっきりで見ていてくれたことは容易に想像できる。
でも、不思議でもある。
助ける以上の何かが、そこにあるような気もする。
僕のために、なぜそこまでして……。
そんなことを考えていたからか、気づけば僕はロイさんの顔をじっと見ていた。
「あの、一つ、聞いてもいいですか?」
「……なんだ?」
「なんで僕に、ここまで良くしてくれるんですか? だって見ず知らずの他人で、しかも一番面倒くさい年頃の男子ですよ? 僕が逆の立場なら、こんなに無防備に歓迎できないと思います」
『アハハ! ホノちゃん、自分の面倒くささにちゃんと自覚あったんだね!』
「そりゃおめえ、目の前で腹空かせて困ってるやつがいたら助けるってのが、人として通すべきスジってもんだろうが」
『当然だ』
まさかのヴァンデルの声が響いた。
意外だ。
「あなた……」
「なんだよ、エレナ。別に嘘をついてるわけじゃないぞ」
「嘘ではないけど……ごまかしてることはあるわよね」
「……ハァ。なんでそうなるかね。なんでもかんでも腹を割ってオープンにすりゃいいってもんじゃねえだろ……チッ、仕方ねえか」
ロイさんは観念したように短く息を吐き、椅子に座り直した。
背筋を伸ばすその仕草が、どこか深い傷跡に触れる“覚悟”を決めたように見えた。
「俺たちには、昔、ちょうど鴨葱くんぐらいの歳の子どもがいたんだ。……でも、今はもうこの世にはいない」
「え」
「ああ、やめろやめろ。そんな気まずそうな顔を強張らせるな。百パーセント完全に吹っ切れてるわけではないが、こうやって他人に話せるぐらいには、もう乗り越えてる」
「なんで……そんな大切な話を、今日会ったばかりの僕に?」
「あんたがまっすぐ聞いてきたんだろうが」
「そうですけど、聞かれたからって何でも正直に話せってわけじゃないですよ……。ちょっとエレナさん、ロイさんやっぱりだいぶ変な人ですよね?」
「ええ、本当に。あなたと一緒でね」
「まさかのカウンター!?」
重い空気に耐えきれず、思わず笑いに逃げたくなる。
けれど、ロイさんの声は穏やかなまま、その芯の部分だけが揺るぎなく硬かった。
「まあ、なんだ。突然現れた鴨葱くんに、アイツの面影を重ねてしまった気持ちが少しもないと言えばウソになる。だが、こうやってあんたと本気で話してるのは、決して過去の幻影を見てるからだけじゃない」
ロイさんが、ごまかしのない視線でまっすぐに僕を見る。
その瞳は、もう獲物を値踏みするハンターの目ではなく、もっとずっと不器用で温かい。
この感覚に身に覚えがある。
それは、父親のような目だった。
『まあ、のう……』
ガンテツが弱々しく反応した。
どういう意図の言葉なんだろう……。
ガンテツは昔のことを語らない。
でも父親だったことがあったのかもしれないと、なんとくそう感じた。
「俺は、あんたが持っている信念みたいなものに、シンプルに惹かれてるんだ。大方、俺がこうして世話を焼いてるのは、昔の思い出を慰めるためなんかじゃなく、今の君の考え方を応援したいと思ったからだ。……生き物の命に対する、あの誠実な向き合い方。本気で……本気で感心したよ」
「あ、ありがとうございます。なんだか、大人の人にそんなまっすぐ褒められたことないから、ちょっと恥ずかしいというか……」
「鴨葱くん、まだまだ青いんだな」
「それはバカにしてますか?」
「バカにしてますか、ってオイオイ……それをまたまっすぐ聞き返す少年も、相当な変わりもんだぞ。青いってことは未熟だってこと。未熟ってことは、これからいくらでもデカくなれる伸びしろの塊ってことだ。正直、うらやましいよ」
ロイさんが少し寂しそうに笑った。
ピンと張り詰めていた空気が、春風のように柔らかく解けていく。
けれど、僕の耳——いや、床にピタリと吸い付いた足の裏は、相変わらず世界の細部を拾い続けている。
床板を通じて微かに伝わってくる、二人の穏やかな心拍数。
柔らかな衣擦れの音。
滞りなく流れる、血流のわずかな振動すらも。
そこには、嘘をつく時に生じるような筋肉の強張りも、誤魔化すような鼓動の乱れも一切なかった。
足裏から這い上がってくる異質な感覚が、彼らの言葉が「嘘のない真実」であると証明してくれているような気がして——だからこそ僕は、安心してこの温かい椅子に遠慮なく体重を預けることができる。
正直、僕の中で起きてる異変……人間離れしたこの感覚を彼らに打ち明けるのは気が引ける。
けれど、今はとりあえず。
足元から伝わるこの平穏を信じて、心の底から安心することができた。
そう思えて初めて、僕は息をしてる感覚を深く味わえた。
——倒れたのが、ここでよかった。




