第9話:蹄煮込み、経験を喰らう
(……ん?)
——なんだ、この異質な感覚は。
舌を支配していたはずの爆発的な旨味が、ただの「味覚」として処理されない。
処理が——終わらない。
徐々に、「味覚」は変容していく。
まるで、鮮明な「記憶」そのもののように——。
あるいは、生々しい「経験」の奔流となって——直接、脳髄へと押し流される。
鬱蒼とした森を駆け抜ける四肢の躍動。
頬を鋭く切る、冷たい風の感触。
巨大な捕食者から逃げ惑う、血の凍るような恐怖。
何がなんでも生き延びようとする、むき出しの生存本能。
そして、鈍く光るクロスボウ。
(……これはハクゲツの記憶? なんで僕が、ハクゲツの生きた時間を——)
ガツンッ!!
味覚の信号が脳の中枢に届いた瞬間、まるで巨大な鉄のハンマーで頭蓋をかち割られたような衝撃が走った。
「……え?」
指先から力が抜け、スプーンが滑り落ちる。
硬い床にぶつかる銀の音が、ひどく遠い場所から聞こえた。
急激に、意識のピントが外れていく。
視界がぐにゃりと不自然に歪み、目の前で驚愕に目を見開くロイさんの顔が、泥みたいにドロドロと溶け落ちていく。
——いや、違う。
これは物理的な現象じゃない。
視覚情報そのものが処理落ちしているみたいだ。
僕の認識する世界の解像度が、段階的に崩壊していくような感覚。
全身の毛穴という毛穴を、無数の氷の針で内側から突き刺されるような悪寒が駆け抜けた。
身体の主導権まで抜け落ちていく。
そうだ。
断じてこれは「味」なんかじゃない。
これは、圧倒的な質量と熱を持った——「情報」だ。
月冠鹿という生命が、過酷な自然の中で積み重ねてきた生存の最適解。
気配を殺す隠密の業。
筋肉が記憶する極限の躍動。
足裏から骨を伝う微細な振動——。
それら十数年分にも及ぶ膨大な生存記録が、味覚という極細のケーブルを通じて、僕の脆い脳内へ暴力的に流れ込んでくる。
処理の許容量は、とうにオーバーしている。
危険を知らせる警告音すら、鳴る余裕がない。
そして。
過負荷で完全にショートしかけた思考回路のど真ん中で——『それ』は起きた。
僕の内で沈黙を保っていた、六つの強烈な共振が——
震え、震え、打ち震えて。
『——封印が外れたか』
誰だ。
この声は、今まで僕の中にいた六人の誰とも違う。
もっと深く、もっと古く。
そしてもっと——底知れず暗い。
得体の知れない漆黒のソレが、脳の最奥で鼓膜を撫でるように嗤ったのだ。
直後。
僕の肚の底で、六人の英雄たちが一斉に立ち上がる、その凄まじい気配を感じた。
それは「一つの意思」と呼ぶには、あまりにも異常なほど同調しすぎていて。
「個別の魂」と呼ぶには、あまりにもバラバラで歪だった。
しかし、彼らの放つ鋭い殺気のような視線の先は、ひたすらに、ただ一つの巨大な影を捉えていた。
最初に脳を揺らしたのは、第一世代・ガンテツの地鳴りのような低い声だった。
『ワイらが英雄なんじゃ。お主が英雄にならん宿命があってはならん。怠けることは許さん。屍を超えてゆけ!』
次に、第二世代・オーガの、肌を灼くような荒々しい怒号。
『クソガキ、感情を爆発させろ。止まるぐらいなら死ね!』
第三世代・ヴァンデルの、絶対零度の冷徹な宣言。
『我がかつての魔法を焼き尽くしたように、貴様はすべての理を喰らうがいい』
第四世代・ジュリアの、優しくも逃げ場を許さない甘い圧力。
『ホノちゃん、力が強いことは罪じゃない。どう使うか——誰に使うかが大事なんだよ?』
第五世代・ミネルヴァの、機械のように計算され尽くした冷静さ。
『ご主人様、百パーセントの機会があるなら、ぜひとも口にしてください。すべての機会を欲するのです』
そして、第六世代・レクターの、神経を逆撫でする狂気じみた薄笑い。
『いいネエ! ボクらは似た者同士。ボクは物質を! 宿主は性質を喰らうんダ! 毒を食らわば皿までダァッ!』
六つの強大な共振が、脳漿をぐちゃぐちゃに掻き回すように爆ぜる。
そして——。
六人全員が、寸分の狂いもなく同時に叫んだ。
「「「「「「——主の帰還は近い——」」」」」」
肚の底……。
物理的な臓腑を通り越した、魂のさらに最深部。
脳が焼き切れるような酩酊感の中で——。
深淵が、またしても愉快そうに嗤った。
(第?世代:???)
『——焔乃士よ。やってみせろよ。この俺を——』
——そこで、僕の意識はぷつりと途切れた。




