第8話:完成された儀式と、異変
ロイさんの家は、牧場跡地から少し下った、なだらかな斜面の中腹にひっそりと佇んでいた。
足元の土質が微かに変わり、ふわりと風の通り道になる場所。
まるで最初からそこにあった風景の一部みたいに、その家は周囲の自然に溶け込んでいる。
決して目を引くような豪邸ではない。
けれど、建材である木と石のあしらいは、どこまでも丁寧だった。
屋根の角度は、冬の重い雪を滑らせるため。
窓の位置は、限られた日照を最大限にすくい取るため。
季節ごとに変わる風の抜け方すら、完全に計算し尽くされている気配が漂っている。
こういう家は、信用できる。少なくとも僕の経験則がそう告げていた。
この土地に長く住み、深く根を下ろす覚悟。それがなければ、家はこんなふうに「育たない」からだ。
(丁寧な暮らしって、こういうことを言うんだよね……)
「おじゃまします……」
「おう。上がれ上がれ。遠慮するな」
ロイさんは靴を脱ぎながら、家の奥へ声を飛ばした。
よく通るその声色が、ここが彼にとって一番の安らぎの場なのだと雄弁に語っている。
「おーい、エレナ。客だぞ。学園の新入生だ。例の煮込みの仕上げを頼む」
「——はいはい、ただいま」
返事と一緒に、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
迷いのない足取りが、そこが彼女の絶対的な領域であることを物語っている。
エプロン姿の女性が、ひょっこりと顔を出した。
「……あら。学園の?」
「あ、はい。今年入学したばかりで……鴨葱焔乃士って言います」
「私はエレナ。……ふふ、もしかして、この人に誘拐された?」
エレナさんは、ロイさんの肩をポンと叩きながら悪戯っぽく笑う。
途端に、家の空気が一気に華やいだ。
冗談の通じそうな明るい人で、僕も思わず笑みがこぼれる。
「あはは。見事な一本釣りでした。食欲という餌に勝てなくて」
「ああっ! ハクゲツに釣られたのね! アレ、ほんとに美味しいのよ。食べたことある?」
「狩ったことはありますけど、食べたことはないんです。なので、めっちゃ楽しみにしてます!」
「あらすごい! 狩ったことある人の方が珍しいのに! ……じゃあ、待っててね。もう煮込みは終わってるから、あとは香りを入れるだけよ」
「いつもありがとな、エレナ」
「いいのよ、アナタ。むしろ感謝するのはこっち。いつも大変な狩りをしてくれてありがとう」
「バーロー、こんなのすっとこどっこい屁の河童のすけだぜ」
「……アナタ気づいてないかもしれないけど、その言い回し、絶妙にダサくておかしいわよ?」
「……俺をおかしくさせてるのは、いつもお前だろ」
そう言って、ロイさんはさらっと奥さんに口づけた。
あまりにも淀みのない、自然な流れ。
ためらいも、誰かに見せつけるような気負いもない。
ただ、息をするのと同じくらい当たり前に。
第三者が気まずさを覚える余地すら与えない、あまりにも堂々たる愛情表現だった。
僕は思わず、その光景をまじまじと見つめてしまう。
達人は、愛の伝え方にも一切の隙がないらしい。
「……もうっ! そこに鴨葱くんがいること忘れてるでしょ、バカ」
こういう、ひたすらに甘いシーンを見せつけられた時、なんて言うのが正解なんだっけ。
拍手? 無視? それとも褒めるべき?
『あアッ! 宿主ッ! 迷う君も実に……じ、実にィッ! 美味しそうだネエ……』
突然、脳髄のど真ん中でガラスを叩き割ったような甲高い声が響いた。
視界の裏側にぬらりと浮かび上がったのは、極彩色の悪夢を具現化したような男——第六世代の錬金術師、レクターだ。
顔の半分を覆い隠すのは、笑っているのか泣いているのかすら判然としない、歪な道化師のメイク。
着ているのは、数えきれないほどの薬品で焼け焦げ、毒々しい極彩色に染まりきった、継ぎ接ぎだらけの白衣。
紫色のオールバックの髪を仰々しくかき上げるその姿は、底知れず不気味だ。
そしてキモイ。
『ここは「ごちそうさま」って言えばいいんダァ! 毒を食らわば皿までってネエ!』
相変わらず鼓膜に障るほどうるさいし、幻覚なのに目がチカチカする。
そしてキモイ。
けれど、そのアドバイスは腹立たしいほど的確だった。
そしてキモイ。
「……ごちそうさまです!」
「あん? ……ああ、いいんだ、気にするな。また食わせてやる」
「……アナタ気づいてないかもしれないけど、その返し、変よ?」
ふふっ、と柔らかな笑いが起きる。
それを皮切りに、エレナさんは「仕上げてくるわね」とキッチンへ戻っていった。
湯気の向こうから、トントンと小気味よい包丁の音がリズムを刻み始める。
食欲をそそる匂いとともに、穏やかな家庭の温度が、ゆっくりと部屋中を満たしていった。
◇
居間に通され、勧められるままに腰を下ろす。
使い込まれた木の椅子は、まるで人の体重のかかり方を熟知しているかのように、軋みひとつ上げず僕を受け入れた。
部屋に満ちる静寂を、キッチンから響く心地よい音が優しくほどいていく。
コト、コト、コト……。
鉄の重厚な鍋の中で、具材が柔らかく踊る音だ。
急がず、焦らず、一定のリズムで火と対話している。
スープにたっぷりと「とろみ」がついていることは、表面で気泡が弾ける、ぽってりと重たい音だけで伝わってきた。
そして、何より香りだ。
(……ん? この香り……)
最初に鼻腔をくすぐったのは、深い森を思わせる燻製のような芳ばしい薫香。
なるほど。
ハクゲツの肉をそのまま煮込むんじゃなくて、一度表面を軽く燻して、香りを纏わせてから鍋に入れているのか。
そうすることで、野性味のある脂が引き締まり、スープに複雑な奥行きが出る。
間違いなくプロの仕事だ。
それだけで期待値が跳ね上がるが——次の瞬間、まったく別の香りが脳を鋭く刺した。
ジュワァァァッ……!
仕上げの香味油か、それともスパイスを熱したのか。
弾けるような音と共に、鮮烈でエキゾチックな刺激臭が一気に広がる。
そこだけ、部屋の空気の密度がぐんと重く変わった。
(……なんだ、このスパイス?)
カルダモンに似ているけれど、もっと重厚で、鼻の奥がツンと痺れるような……。
少なくとも、その辺の市場で嗅げるような安っぽい代物じゃない。
これ、とんでもなく高価いやつなんじゃないか?
いや、それ以前に、一般の流通ルートで手に入るものなのか?
グゥゥゥ……。
警戒心よりも先に、腹の虫が正直すぎる反応をした。
「お待たせ。エレナ特製、月冠鹿の蹄煮込みよ」
エレナさんがテーブルに置いた深皿を見て、僕は思わず息を呑んだ。
琥珀色に輝き、とろりと透き通ったスープ。
その中央に鎮座するのは、限界まで煮込まれて宝石のように角の取れた蹄と、今にも骨からほろりと崩れ落ちそうな肉塊。
表面には燻製された脂が黄金色の膜を張り、見たこともない黒いスパイスの粒が、夜空の星屑みたいに散らされている。
これはもう、料理というより完成された『儀式』のようだった。
対面の席に着いたエレナさんは、なんでもない顔で小さな錠剤を指先で摘まみ、ぽいっと口に放り込んだ。
水で流し込む仕草は、食前の胃薬でも飲むかのように自然で——僕にはただ「日常のルーティン」にしか見えない。
だが、ロイさんが一瞬だけ、その手元に視線を落とした。
瞳の奥に、ほんの少しだけ寂しそうな翳りが落ちる。
彼は無意識のうちに、自分の指にはめられた黒い指輪の縁をなぞっていた。
暖炉の火に照らされても光を反射しない、鈍く沈んだ黒。
妙に目に焼き付くのは、竜が自らの尾を咥えている——ウロボロスを模した、その異様な意匠のせいか。
なぜか、その手元から目が離せなかった。
エレナさんがロイさんの手首に、軽く触れて止める。
「また、その癖」
そう笑うエレナさんに、ロイさんは何も言わずに指輪から手を離す。
……ただ、視線だけが一瞬、遠い過去を見るように宙を彷徨った。
そしてエレナさんは小さく息を吐くと、僕に向き直る。
「……冷める前に食べて。これ、香りが命だから」
僕は弾かれたように頷き、両手を合わせた。
「……いただきます」
震える手でスプーンを伸ばし、スープと肉をすくい上げる。
湯気とともに立ち上るのは、暴力的なまでの旨味の予感。
おそるおそる、口に運ぶ。
——瞬間だった。
舌の上に乗せた途端、濃厚なゼラチン質とコラーゲンが爆発した。
(——うおっ!?)
美味い。なんだこれ、美味すぎる。
一度燻製されたスモーキーな香ばしさが鼻腔を抜け、その直後、あの謎の黒いスパイスが舌をピリリと心地よく刺す。
それが呼び水になって、ハクゲツの濃厚な旨味が——ダムが決壊したみたいに喉の奥へと流れ込んでくる。
とろける食感。
旨味の奔流が、思考の輪郭をドロドロに溶かしていく。
理性の判断がまったく追いつかない。
ただ本能だけが「もっと寄越せ」と脳内で叫んでいた。
「こ、これ! お、おいしすぎます……! エレナさん天才過ぎませんか?」
「ふふふ。よかったわ。気に入ってもらえたようで。丁寧に仕込んだ甲斐があったわ。たくさんあるから、遠慮せずに食べてね」
エレナさんのその言葉に、僕は首がもげそうなほどの勢いで頷いた。
そして——もう一口。
今度は、蹄のゼラチンが熱で“ほどける”瞬間が、さっきよりはっきりと分かる。
口の中が、圧倒的な幸福感と香りで満たされていく。
僕はたまらず骨ごと持ち上げて、肉に直接かじりついた。
しっかりした肉の味。野性味はあるが、嫌な臭みは一切ない。
筋肉質な“野生”の旨さが、噛み締めるほどに際限なく滲み出してくる。
これは——ガチでやばい。
ぷるぷるの蹄を吸い、脚のしなやかな肉にがぶりつく。そしてまた、ぷるぷるをスープと一緒にかきこむ。
その旨味の無限コンボが止まらない。
骨に残るわずかな肉の欠片や、こびりついたコラーゲンまでも啜り尽くしたくなる。
まさしく悪魔的なおいしさだ。いっそのこと、ここの家の子になりたいとすら思う。
このまま、最後の一滴まで残さず平らげたい。
僕は完全に、目の前の食事に恍惚としていた。
しかし——。
異変は、そんな至福の絶頂で突然訪れた。
この家のあまりの暖かさに、極上の美味に。
僕は完全に、油断しきっていたんだ。




