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第9話:静かなる包囲網

 夜会の騒動は、翌朝には王宮内の勢力図を根底から塗り替えていた。

 アルベルトが国庫を私物化したという事実は、実務を担う中堅貴族たちの怒りに火をつけ、アンジェリカの元には早朝から各方面の支持を表明する書簡が積み上がった。


 アンジェリカは「王太子妃の間」の寝室で、鏡に向かって髪を整えていた。

 プラチナブロンドの長い髪を、今日はあえて一切の飾りをつけずに後ろにまとめる。その潔い姿は、どこか戦場に赴く騎士のような峻烈さを湛えていた。


「アンジェリカ様、レオナルド殿下がお見えです」


 ソフィアの控えめな声とともに、レオナルドが部屋へ入ってきた。

 彼は昨夜の苛烈さを微塵も感じさせない、穏やかな微笑みを浮かべている。


「おはよう、アンジェ。……よく眠れたかい?」

「ええ、とても。……それより、アルベルト殿下は?」


 レオナルドは彼女の背後に立ち、鏡越しにその瞳を見つめた。


「兄上なら、今頃『番の間』でプリシラと泣き言を言い合っているよ。陛下が派遣した騎士たちが、部屋の入り口を封鎖したことも知らずにね。……事実上の軟禁だ」

「陛下が、ついに決断を下されたのね」

「ああ。治水事業の予算に手を出したのは致命的だった。あれには、アルバスタ公爵家をはじめとする有力貴族家も出資していたからね。……兄上は、自分を支えるべき基盤を、自らの手で粉砕したんだ」


 レオナルドの指先が、アンジェリカのうなじを優しくなぞる。

 その熱い感触に、アンジェリカは小さく吐息を漏らした。


「……これから、どう動くの?」

「まずは、プリシラの処遇だ。彼女は今日、公式の尋問を受ける。……アンジェリカ、君も同席してほしい。あの二人がどれほど愚かな行為を積み重ねてきたか、その最後を記録するために」


 ---


 王宮の地下に近い、重厚な石造りの広間。

 そこは、王族の醜聞や機密事項を処理するための、通称「沈黙の広間」であった。

 中央には、青ざめた顔で椅子に座るプリシラと、彼女を庇うように立つアルベルトの姿がある。


 正面に座るのは、国王ジェイス、そして王妃クリスティーヌ。

 国王の隣には、レオナルドと、そして毅然と立つアンジェリカが並んだ。


「……アルベルト。お前に、これだけの証拠を突きつける日が来るとは思わなかったぞ」


 国王ジェイスの声は、地を這うように低い。

 その手元には、レオナルドが収集したプリシラの横領と、アルベルトの職務怠慢を裏付ける膨大な書類が並んでいる。


「父上! これは、これはすべてレオナルドの陰謀です! プリシラはただ、私に似合う贈り物を望んだだけで、何も知らなかったのです!」


 アルベルトは必死に声を張り上げたが、その声は空虚に響くだけだった。


「だいたい、私には『番』がいるのです! 運命に選ばれた私が、なぜこのような屈辱を受けねばならないのですか! アンジェリカのような冷たい女が、私を陥れるためにレオナルドと組んだに違いありません!」


 アルベルトの指がアンジェリカを指す。

 アンジェリカは、アメジストの瞳をわずかに細め、静かに一歩前へ出た。


「殿下。私は、一度たりとも貴方を陥れようとしたことはございません。……貴方が政務を放り出し、プリシラ様との語らいに耽っている間、誰がその代筆を行い、誰が閣僚たちの不満を抑えていたとお思いですか」

「お、お前は私の婚約者なのだから、それをやるのは当然だろう!」

「ええ、当然です。……ですが、貴方が私の母の形見を奪おうとし、公爵家を取り潰すとまで放言された時、私の『当然の義務』は終わりました。私は王妃教育を受けた者として、この国の未来を、無能な統治者に委ねるわけにはいかないのです」


 アンジェリカの言葉には、一片の迷いもなかった。

 その凛とした佇まいに、国王ジェイスは深く頷いた。


「……プリシラ・メルフィール。お前は『番』としての保護を悪用し、国庫を汚した。本来なら極刑だが、番の性質上、命までは取らぬ。……だが、お前には『罪人の間』への入居を命じる」

「え……? 罪人の間……? 嫌ですぅ! そんな、私、嫌ぁっ!」


 プリシラが泣き叫ぶが、国王の視線は次に実の息子へと向けられた。


「アルベルト。お前は今日を以て、王太子の地位を剥奪する。廃嫡だ。……お前も、プリシラと共にそこへ入るがいい。お前たちが望んだ『真実の愛』だ。死ぬまで二人きりで過ごすがよい」

「廃嫡……? 私が……? 馬鹿な……! 私がいなければ、この国は……!」


 アルベルトの膝が、崩れるように床についた。

 彼は隣にいるプリシラにすがろうとしたが、プリシラは「あなたのせいでこんなことに……!」と、逆にアルベルトを突き飛ばした。


 二人の無残な姿を、レオナルドは冷ややかに見下ろした。


「……連れて行け」


 レオナルドの合図で、騎士たちが二人を左右から抱え上げる。

 広間に響き渡る絶叫と罵声。それは、一時の快楽のためにすべてを投げ打った者たちの、惨めな断末魔だった。


 静寂が戻った広間で、レオナルドはアンジェリカの手を優しく包み込んだ。


「……終わったよ、アンジェ」

「いいえ。……これから始まるのよ、レオ」


 アンジェリカはレオナルドの瞳を見つめ返し、小さく微笑んだ。

 アルベルトを排除したことで空席となった王太子の座。そして、その隣に座るべき、真の正妃の座。

 二人の暗躍は、ようやく実を結ぼうとしていた。

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