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第6話:逆鱗の触れ方

「……アンジェリカ様、こちらを」


 ソフィアが差し出した盆の上には、一通の書簡が置かれていた。王太子の紋章で封印されているが、その扱いは雑で、端がわずかに折れている。

 アンジェリカが封を切ると、中には殴り書きのような横柄な筆致で、短い命令が記されていた。


『プリシラが、お前の持つ「星涙のエメラルド」を欲しがっている。番の願いを叶えるのは、私の義務だ。今すぐこちらへ届けろ』


 アンジェリカの指先が、わずかに止まった。

「星涙のエメラルド」。それは、亡き母がアルバスタ公爵家に嫁ぐ際、実家から持参したという大切な形見である。単なる宝石としての価値以上に、アルバスタ家の誇りと母の記憶が刻まれた大切な「家宝」だった。


「……アンジェリカ様? お顔色が……」

「いいえ。なんでもないわ、ソフィア」


 アンジェリカは静かに書簡を畳んだ。アメジストの瞳の奥に、凍てつくような冷気が宿る。

 アルベルトは、何も分かっていない。

 王族が他家の「家宝」に手を出すことが、どれほどの無礼であり、政治的な自殺行為であるかを。ましてや、それを正妃となる婚約者から奪い、身分の低い愛妾——「番」に与えるなど、貴族社会の法道を根底から覆す暴挙だ。


「ソフィア、用意をして。アルベルト殿下のもとへ伺います」

「ですが、殿下は今、プリシラ様と……」

「構いません。これは、王太子妃としての『教育』ですから」


 ---


 アルベルトがプリシラに与えた「番の間」は、かつてないほど華美に飾り立てられていた。

 廊下にはメルフィール家から持ち込まれた悪趣味な装飾品が並び、室内からは、下品なほど甲高いプリシラの笑い声が漏れ聞こえてくる。


 アンジェリカが扉を叩く間もなく中へ入ると、そこにはソファに寝そべり、アルベルトに果実を食べさせてもらっているプリシラの姿があった。


「あ、アンジェリカ様ぁ。……ごめんなさいねぇ。お忙しいのに、わざわざ宝石を届けてくださったんですかぁ?」


 プリシラは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、アルベルトの腕に絡みついた。


「アンジェリカ、遅いぞ。プリシラが待ちくたびれているではないか。早くその首飾りを出せ」


 アルベルトは、さも当然のように手を差し出した。その瞳には、婚約者への敬意も、公爵家への配慮も、欠片も存在しない。


「殿下、申し上げます。あの首飾りはアルバスタ家の家宝であり、私の母の遺品です。王家といえど、個人の正当な財産を理由なく奪うことは法で禁じられております」

「法だと? 私が法だ! 番が欲しがっていると言っている。それ以上の理由が必要か!」


 アルベルトは立ち上がり、机を激しく叩いた。その幼稚な怒声に、アンジェリカは微動だにせず、静かに言葉を重ねる。


「……王家の『番』に関する特権は、あくまで精神的な結びつきと、生活の保証に関するものです。他者の尊厳や財産を侵害する権利は、陛下であっても持っておられません。殿下、どうか目を覚ましてください。今の貴方は、一国の主ではなく、ただの略奪者です」

「黙れ! 黙れ黙れ!」


 アルベルトは顔を真っ赤にし、そばにあった花瓶をアンジェリカの足元に投げつけた。

 陶器の砕ける鋭い音が響き、水の飛沫がアンジェリカのドレスの裾を濡らす。


「アンジェリカ様ぁ、怖いお顔ぉ……。アル様、私、怖いですぅ」


 プリシラがわざとらしくアルベルトの背中に隠れる。それを見たアルベルトの怒りは、さらに頂点へと達した。


「失せろ! 宝石を出さないというなら、もういい。お前の家ごと、反逆罪で取り潰してやってもいいのだぞ!」


 その言葉が放たれた瞬間、部屋の入り口に、冷ややかな影が差した。


「……兄上。今の発言、聞き捨てなりませんね」


 レオナルドだった。

 彼は扉に寄りかかり、底冷えのするような薄笑いを浮かべていた。その手には、何らかの公文書が握られている。


「レオナルド、またお前か! 引っ込んでいろ、これは私の家庭の問題だ!」

「家庭の問題、ですか。公爵家を取り潰すと脅迫することが? ……残念ながら、今の会話、すべて記録させていただきました」


 レオナルドはゆっくりと歩み寄り、アンジェリカの前に立った。彼は落ちている花瓶の破片を、自らの靴で静かに踏みつぶす。


「陛下がお呼びです。兄上の『番』に関する予算執行に、重大な疑義があるとのことで。……アンジェリカ嬢、ここは僕に任せて、お下がりください」


 レオナルドがアンジェリカの背中にそっと手を添える。その一瞬だけ、彼の指先が彼女の腰を強く引き寄せた。


「……ええ。失礼いたしますわ、殿下」


 アンジェリカは一度も振り返ることなく、部屋を後にする。

 背後でアルベルトがレオナルドに怒鳴り散らす声が聞こえるが、それも心地よい音楽のように感じられた。


 中庭に出ると、冷たい夜風が頬をなでる。

 レオナルドが、すぐに後を追ってきた。


「……アンジェ。ごめん、遅くなった」

「いいえ。完璧なタイミングだったわ、レオ」


 アンジェリカは、月の下で微笑んだ。その笑みは、もはや淑女の仮面ではない。


「殿下は、自分で自分の首を絞めた。公爵家への脅迫は、お父様やお兄様を動かすのに十分な理由になるわ。……ねえ、レオ。あの方はまだ知らないのね。王族の『番』が、時にその身を滅ぼす劇薬になることを」

「ああ。僕たちが、それを教えてあげよう」


 レオナルドはアンジェリカの手を取り、その手の甲に誓いのキスを落とした。

 暗闇の中、二人の瞳は同じ色——獲物を追い詰める、静かな捕食者の色を湛えていた。

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