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第5話:不文律の種

 王宮の朝は、静謐な美しさと裏腹に、常に誰かの悪意を含んでいる。

 アンジェリカが王妃クリスティーヌから賜った「王太子妃の間」は、3LDKという広さを誇る壮麗な邸宅だが、そこに婚約者であるアルベルトが足を踏み入れることは一度もなかった。


「アンジェリカ様、本日もアルベルト殿下はプリシラ様の『番の間』で朝食を摂られるそうです。……公務の打ち合わせも、すべてキャンセルされました」


 ソフィアが悔しげに報告する。

 本来、王太子ともなれば、婚約者である正妃候補と朝の会食を共にし、その日の政務を確認するのが義務である。だが、アルベルトは「番」という免罪符を手に入れてから、そのすべてを放り出していた。


「構いません。その代わり、財務卿への返信は私が代筆します。殿下の印章を借りてきてちょうだい」


 アンジェリカは、鏡の前でイヤリングを直しながら淡々と命じた。

 アメジストの瞳には、怒りも悲しみも宿っていない。ただ、冷徹なまでの事務処理能力がそこにあるだけだ。


「……アンジェリカ様。殿下は、お嬢様がどれほど支えているか、これっぽっちも理解していらっしゃいません!」

「いいのよ、ソフィア。理解させる必要もありません」


 アンジェリカは、薄く唇を吊り上げた。

 アルベルトが堕落すればするほど、アンジェリカの代筆と判断が「王太子の意思」として国を動かしていく。実務の全権を握ることは、後の「計画」において不可欠なプロセスだった。


 ---


 午後、アンジェリカは図書室へと向かった。

 王宮の広間から枝分かれする複雑な廊下を渡り、人目を避けるようにして、重厚な木製の扉を開く。


 そこには、既に先客がいた。


「……待っていたよ、アンジェ」


 書棚の陰から姿を現したのは、レオナルドだった。

 彼は手にしていた古い魔導書を閉じ、彼女を迎え入れる。二人だけの密会は、もはや日常となりつつあった。


「レオ。今日は一段と顔色が悪いわ。……また、王弟閣下と一緒にアルベルト殿下の後処理を?」

「兄上の不始末を、僕が王弟閣下……父上と一緒に片付けているだけさ。近隣諸国への祝辞の返信も、兄上はプリシラとのティータイムを優先して放り出したからね」


 レオナルドは疲れを見せながらも、アンジェリカの前では穏やかに微笑んだ。

 彼は、自分が国王ジェイスの実子ではないことを知っている。王妃クリスティーヌと、王弟グレインの間に生まれた不義の子。だが、この国では王妃が恋人を持ち、その子供を王子として育てることは、隠された「特権」として認められている。


「ねえ、レオ。アルベルト様はまだ気づいていないのね」


 アンジェリカが本棚の端に指を這わせる。


「王妃が恋人を持ち、その子供が王子として育てられる制度を。王位は継がないけれど、実の父の家を継ぐということを。……あの方は、番さえ見つかれば、自分が唯一無二の絶対者になれると信じ込んでいる」

「……兄上は、制度の『美しい部分』しか見ていないんだ。陛下が番である兄上の母、フィオナ様をどれほど愛し、甘やかしているか。それだけを見て、自分も同じことができると思っている」


 レオナルドはアンジェリカに一歩近づき、その細い腰に手を回した。

 アンジェリカは拒むことなく、その胸に身を委ねる。


「でも、陛下はある意味での賢王だよ。番に溺れても、国政は母上にすべて任せ、その『自由』を完全に保証している。……兄上はどうだ? 君を虐げ、君の自由を奪い、自分の所有物として棚上げにしようとしている」


 レオナルドの指先が、アンジェリカの顎を優しく持ち上げた。


「……僕が許さない。君を、あの男の『人形』にはさせない」

「レオ……」

「アンジェ、兄上のは近いうちに大きなミスを犯す。……プリシラの我が儘を叶えるために、王家の宝物庫に手をつけようとしているんだ。それが発覚した時、僕たちが動く」


 レオナルドのエメラルドの瞳に、昏い炎が宿る。

 それは、純粋な少年が抱くにはあまりに鋭く、毒を含んだ光だった。


「……私は、あなたの望む通りに動くわ。レオ」


 アンジェリカは、彼の首筋に手を回し、唇を寄せた。

 王宮の規則では、王妃が恋人を持つのは「結婚後」の話だ。だが、今の二人にそんな倫理は通用しない。

 アルベルトが「番」という名の檻に自ら入り、快楽に溺れている間に、アンジェリカとレオナルドは着実に、彼を玉座から引き摺り下ろすための毒を調合していた。


「愛しているよ、アンジェ。……君が王妃になるその日まで、僕は影で君の牙になろう」


 甘い囁きとは裏腹に、交わされる約束は血のように重い。

 静まり返った図書室で、二人はしばらくの間、外の世界の喧騒を忘れて寄り添い続けた。


 その日の夕刻、アルベルトがプリシラのために「アンジェリカの母の形見である首飾り」を寄越せと使いを出した。

 アンジェリカはそれを聞き、鏡の中の自分に向かって、これまでで最も美しく、そして冷酷な笑みを浮かべた。

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