第4話:仮面の裏側
アルベルトがプリシラを「番」と認定してから一週間。王宮内の空気は、目に見えて歪み始めていた。
本来であれば、王太子の番が見つかったことは国を挙げての慶事である。しかし、王宮の回廊を歩く貴族たちのひそひそ話には、祝福よりも戸惑いの色が濃い。
「……あの方が、本当に次期王妃を支えるお立場になるのかしら」
「公爵令嬢に盾突くなど、身の程をわきまえていらっしゃらない」
漏れ聞こえる声に、アンジェリカは表情ひとつ変えず歩みを進める。
彼女が向かうのは、王宮の最奥、厳重な警備に守られた「番の間」ではない。その手前にある、王妃クリスティーヌの執務室だ。
「アンジェ、入りなさい」
扉を叩く前に、中から凛とした声が響いた。
室内に入ると、王妃クリスティーヌが膨大な書類を前に、優雅に茶を啜っていた。その隣には、国王の弟であり、実質的に王妃の政務を支えているグレイン公爵の姿もある。
「……お忙しいところ、失礼いたします」
「いいのよ。貴女も、あの愚かな王太子のせいで苦労しているのでしょう? 昨日の報告書も読んだわ。プリシラという娘、身の程知らずも甚だしいわね」
クリスティーヌは溜息をつき、手元の書類をグレイン公爵に手渡した。グレイン公爵はそれを一瞥し、苦笑いを浮かべる。
「メルフィール子爵家の娘か。長男と長女はそれなりに優秀だが、末娘の教育までは手が回らなかったと見える。アンジェリカ嬢、君が泥を被る必要はないんだよ」
「いいえ。私が正妃として立つ以上、これらは避けて通れぬ道です。……それに、アルベルト殿下があれほどまでに彼女を求めていらっしゃるのですから」
アンジェリカの言葉には、嫉妬も悲しみも含まれていない。ただ事実を述べるその姿に、グレイン公爵はエメラルドの瞳を細めた。
「君は、本当に強いな。……レオナルドが、君の身を案じて夜も眠れないと零していたよ」
その名を聞いた瞬間、アンジェリカの胸がわずかに波打った。
レオナルド。彼は昨夜も、アンジェリカの「間」を訪れようとして、警備の目を盗んで庭園で待っていたのだ。
「……レオナルド殿下は、お優しい方ですから」
「優しさ、か。それだけではないと思うがね」
グレイン公爵は意味深な笑みを浮かべ、クリスティーヌと視線を交わした。
この二人は知っている。アンジェリカとレオナルドが、幼い頃からどれほど深い絆で結ばれているかを。そして、この国の歪な「番」の制度が、時に残酷な結末を招くことも。
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その夜、アンジェリカは王族専用の広間へと続く回廊を、一人で歩いていた。
月の光が天窓から差し込み、プラチナブロンドの髪を淡く照らす。
「アンジェリカ嬢」
闇の中から、低く柔らかな声がした。
柱の陰から現れたのは、レオナルドだった。彼は周囲を警戒するように一度視線を走らせると、素早くアンジェリカの手を取った。
「レオナルド殿下。……このような場所で、誰かに見られたら」
「構わない。……いや、今はまだ困るか」
レオナルドは自嘲気味に笑い、彼女の手を自身の頬に寄せた。その冷たい肌が、アンジェリカの指先を冷やす。
「兄上は今日も、あの女を連れて夜会に出た。アンジェリカ嬢、貴女を一人残して。……許せないんだ。貴女が、あんな無能な男のために心を削るなんて」
「……私は、大丈夫です。殿下が番に夢中になればなるほど、私は自由に動けます。王妃教育で学んだ知識も、人脈も、すべては私の手の中にあります」
アンジェリカは、レオナルドの胸元にそっと顔を寄せた。
王宮の広間を介して枝分かれした「間」という名の豪邸。そこは、一度入れば他者の干渉を許さない聖域となる。だが、そこへ至る道はあまりに遠い。
「レオ。私は、公爵家の娘として、この国を守る義務があります。……でも、私の心まで、あの人に捧げるつもりはありません」
「……わかっている。僕も同じだ」
レオナルドは彼女の細い肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「今、父上と母上の間で話し合いが行われている。兄上のあまりの無能ぶりに、閣僚たちも愛想を尽かし始めているんだ。……アンジェ、あともう少しだけ、あのピエロの隣で耐えていてくれ」
レオナルドの瞳に宿る、冷徹な暗躍の光。
彼は、ただ守られるだけの第二王子ではない。愛する者を救い出すためなら、他者を奈落へ突き落とすことさえ厭わない。
「……ええ。私も、準備は整えています」
二人の影が、月の光の下で一つに重なる。
アルベルトとプリシラが愛の言葉を囁き合っているその裏で、王国の根幹を揺るがす「逆転」の物語は、着実に編み上げられていた。
翌朝、アンジェリカは再び完璧な微笑みを貼り付け、王太子の執務室へと向かう。
そこには、自分を虐げていると信じて疑わない、哀れな婚約者が待っているのだ。




