第3話:冷ややかな熱
王太子の「番」が見つかったという衝撃は、一夜にして国中に広まった。
翌朝、王宮の一角にあるアンジェリカの執務室には、朝早くから山のような書類が届けられていた。
「アンジェリカ様、またメルフィール子爵家からの面会要請です。それから、アルベルト殿下の側近を通じて、プリシラ様の『生活環境』に関する要望書が……」
侍女のソフィアが、困惑した表情で束になった紙を机に置いた。
アンジェリカは羽ペンを止めることなく、淡々とそれらに目を通していく。
「面会はすべてお断りして。今、私が子爵家と会えば、余計な憶測を呼びます。それから、プリシラ様の要望書は……何かしら、これ」
アンジェリカの眉が、わずかに動いた。
そこには「部屋の壁紙をすべてピンク色に張り替えること」「専属の料理人をメルフィール家から呼び寄せること」「アンジェリカが所有している宝石箱の中から、いくつか譲り受けたい」といった、信じがたい要求が並んでいた。
「……下位貴族の教育しか受けていないとはいえ、あまりに無知が過ぎますね」
アンジェリカは冷ややかな溜息をつき、その紙を端に避けた。
王宮の「間」は、それぞれが独立した邸宅のようなものだ。それを個人の好みで勝手に作り変えることは許されないし、他家の宝飾品をねだるなど論外である。
「殿下は、これに目を通されたのかしら」
「はい。殿下が直筆で『すべて叶えてやるように』と追記されております」
書類の隅には、乱暴な筆跡でアンジェリカへの命令が記されていた。
アルベルトは、自分が手に入れた「番」を甘やかすことが、王太子としての正義だと信じ込んでいるらしい。
「却下します。王宮の規則に則り、必要なもの以外は認めないと伝えて。殿下には、私から直接お話しします」
「……よろしいのですか? 殿下は、あのように昂ぶっていらっしゃるのに」
ソフィアの心配はもっともだった。昨夜のパーティー以来、アルベルトは自分に逆らう者を「真実の愛を邪魔する悪役」と見なす傾向がある。
だが、アンジェリカは揺るがなかった。
「それが私の役目ですから」
彼女は席を立ち、窓の外を見つめた。
手入れの行き届いた中庭を、レオナルドが歩いているのが見えた。彼は第二王子として、兄のフォローに奔走しているのだろう。その足取りはどこか重く、アンジェリカの胸に小さな疼きを走らせる。
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昼下がり、アンジェリカはアルベルトの執務室を訪れた。
扉を開けるなり、部屋の中から甘ったるい香水の匂いと、弾むような笑い声が漏れてくる。
「ですからぁ、アルベルト様ぁ。あのドレス、どうしても着てみたいんですぅ」
「ああ、いいとも。プリシラには世界で一番美しいドレスを用意させよう」
ソファーに深く腰掛け、プリシラを膝に乗せているアルベルトの姿があった。
アンジェリカは表情を一切変えず、完璧な礼を執る。
「失礼いたします、アルベルト殿下」
「……何だ、アンジェリカか。せっかくの気分が台無しだな」
アルベルトは露骨に嫌な顔をした。
プリシラはアンジェリカを見ると、これ見よがしにアルベルトの腕にしがみつき、挑発的な笑みを浮かべる。
「あ、アンジェリカ様ぁ。ごめんなさいねぇ、お忙しいのに。アルベルト様が、どうしても私を離してくださらないんですぅ」
「……そのようですね。お熱いのは結構ですが、公務と私情の区別はつけていただかないと困ります」
アンジェリカの声は、冬の湖面のように静かだった。
彼女は手元にある資料を机に置き、淡々と説明を始める。
「プリシラ様が要望された内容の八割は、王宮の規定により認められません。特に、他家の財産を要求する行為は、外交問題にも発展しかねない重大なマナー違反です。以後、厳に慎んでいただけますか」
「な……っ!」
アルベルトの顔が真っ赤に染まった。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか! プリシラは私の番だぞ! 彼女の望みは私の望みだ。王太子である私の命令に背くというのか!」
「殿下の命令であっても、法律と儀礼に反することは行えません。それが、未来の王妃として私が預かっている権限です」
「黙れ! 王妃、王妃と……お前はいつまでそんな高慢な態度でいるつもりだ! 番も見つからないような『欠陥品』のくせに!」
激昂したアルベルトが、机の上のインク瓶をなぎ倒した。
黒い液体が資料に広がり、アンジェリカの白い靴に数滴跳ねる。
「……殿下。言葉が過ぎます」
アンジェリカは視線を落とし、汚れを小さく見つめた。
その時、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開いた。
「兄上、そこまでだ」
立っていたのは、レオナルドだった。
普段の穏やかな笑みは消え、そのエメラルドの瞳には鋭い冷徹さが宿っている。
「……レオナルドか。お前には関係ないだろう」
「関係あります。アンジェリカ嬢は、兄上の正妃となるお方だ。それを侮辱することは、王家の秩序を乱すことに他ならない。……陛下に報告されてもよろしいのですか?」
「くっ……」
アルベルトは忌々しげに顔を背けた。王としての資質を問われることを、彼は何よりも恐れている。
「フン、勝手にしろ。プリシラ、行こう。ここには不潔な空気が流れている」
アルベルトはプリシラの腰を抱き、アンジェリカの肩をわざとぶつけるようにして部屋を出て行った。
静まり返った室内。
レオナルドが、ゆっくりとアンジェリカに歩み寄る。
「……アンジェリカ嬢。大丈夫かい?」
その声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように柔らかかった。
彼は懐から清潔なハンカチを取り出すと、彼女の足元に膝をつき、靴の汚れを丁寧に拭き取り始めた。
「レオナルド殿下……! そんな、王子である貴方が、そのようなことを……」
「いいんだ。僕がやりたいからやっている」
レオナルドは顔を上げず、静かに言葉を紡いだ。
「兄上は、何も分かっていない。……貴女がどれほどの痛みを堪えて、そこに立っているのか。……僕には、それが耐えがたいんだ」
拭う手の感触が、アンジェリカの肌を通して熱を伝える。
アンジェリカは、彼の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「ありがとうございます。……でも、大丈夫。私は、強いですから」
そう言ったアンジェリカの微笑みは、どこか儚げで、そして確かな決意に満ちていた。
王太子の「番」という狂った歯車が回り始めたことで、二人の運命もまた、隠された真実へと加速していく。
誤字を見つける度に修正をしております。
不慣れなため、何度も更新をしており、すみません。




