番外:偽りの羽衣と乙女の純情
偽りの番となった、カレンのお話しになります。
カレン・バーネットにとって、世界はどこまでも優しく、暖かな色彩に満ちていた。
王都から遠く離れたバーネット伯爵領は、豊かな緑と穏やかな民に恵まれた土地だった。領民たちは伯爵家の令嬢である彼女を「カレン様」と親しげに呼び、彼女もまた、市場で買ったばかりの焼きたてパンを頬張るような、飾り気のない日々を愛していた。
「カレン、またそんな風に笑って。もうすぐ十八歳なのだから、もう少し淑女らしくしなさい」
そう言って困ったように笑う母の言葉も、彼女にとっては心地よい風のようだった。
地方貴族の娘として、いずれは家のためにどこかの貴族へ嫁ぐ。それが定められた運命だと分かっていても、カレンの心にはいつも、一輪の忘れられない花が咲き誇っていた。
それは、王都で開かれた第一王子アルベルトの立太子式に参列した際のこと。
華やかな広間、傲慢なまでに自信に満ちたアルベルトの背後で、影のように控えていた第二王子レオナルド。
そのプラチナグレーの髪が光を撥ね、エメラルドの瞳が冷徹ながらもどこか孤独を湛えているのを見た瞬間、カレンの胸は激しく鳴り響いた。
(……なんて、綺麗な方なのかしら)
それは、恋というにはあまりに身の程知らずで、憧れというにはあまりに切実な一目惚れだった。
カレンは知っていた。王族、それも王位継承権から遠い第二王子であれば、十八歳の誕生日に「番拒否」の処置を受けるのが通例であることを。番を判定する機能を魔術で遮断し、その一生を番の呪縛から解き放つことができる。
(殿下が十八歳になられたら……その時、私の釣書を送っていただこう)
カレンは日々、レオナルドに相応しい女性になろうと、不得手な刺繍や詩編の勉強に励んだ。王族と伯爵家では爵位の差こそあれ、地方の有力家系であれば可能性はゼロではない。彼女の願いはささやかだった。レオナルドの傍らで、彼の孤独を少しでも癒やす、穏やかな妻になりたい。ただそれだけだった。
しかし、運命はあまりに残酷な形で彼女の想いを打ち砕く。
アルベルトが「番」であるプリシラに溺れ、夜会の最中に婚約者アンジェリカを侮辱し、廃嫡されたという報せがバーネット領に届いたのだ。
「そんな……。レオナルド殿下が、王太子になられるなんて」
カレンは自室で泣き崩れた。
レオナルドが王太子になるということは、彼はアンジェリカを正妃に迎え、さらに「真実の番」を見つけなければならない義務を背負うことを意味する。
自分のような、ただの伯爵令嬢が入り込む隙など、どこにもなくなってしまったのだ。
「レオナルド殿下……。どうか、せめて幸せになってくださいませ」
カレンが涙を拭い、叶わぬ初恋に別れを告げようとしていたその時、一通の奇妙な荷物が届いた。
送り主は、プリシラの実家であるメルフィール子爵家。父たちは遠い親戚であるという。
中に入っていたのは、古びた書籍と、見たこともない異国の薬草、そして複雑な魔導具の一式だった。
「これは……『番の儀式』を狂わせる禁術の魔導書?」
書籍には、番の識別を誤認識させ、強制的に自分を「番」だと思わせるための手法が詳細に記されていた。香袋によって本物の番の気配を消し、さらに紋章を偽造する呪術。
カレンは知らなかった。これが、罪人の間に堕ちたアルベルトが、弟レオナルドを「偽りの番」で地獄へ突き落とすために仕組んだ罠であることを。そして、プリシラがカレンの肉体を利用して、再び権力の座に返り咲こうとしているという、醜悪な企みを。
「これを……これを使えば、私はレオナルド殿下の隣にいられるの?」
疑いを知らないカレンの純情は、禁術という名の甘い蜜に吸い寄せられてしまった。
自分ではない誰かが、自分の身体を乗っ取ろうとしていることなど、夢にも思わずに。
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禁術の儀式は、カレンが想像していたような「恋のまじない」などではなかった。
レオナルドの立太子式当日、カレンが用意された香袋を身に纏い、偽りの紋章を刻む呪文を唱えた瞬間。彼女の視界はどす黒い霧に覆われ、意識の深淵へと引きずり込まれた。
「……ふふ、ようやく手に入れたわぁ。新しい、真っさらな身体を」
カレンの口から漏れたのは、彼女の穏やかな声ではない。それは、亡霊のように昏い欲望を滾らせたプリシラの声だった。アルベルトの計略により、禁術の代償としてカレンの精神は肉体の隅へと追いやられ、代わりにプリシラが主導権を握ったのだ。
豪華絢爛な大広間。立太子の儀式において、カレン(プリシラ)は真実を呪術で歪め、自らを「番」として認めさせた。
「レオナルド殿下……?」
可憐な乙女を演じながら、内側ではプリシラが勝ち誇ったように嘲笑っていた。レオナルドが困惑し、絶望に瞳を曇らせるほどに、彼女の醜い感情は悦びに震えた。
一方、肉体の奥底に閉じ込められたカレンは、悲鳴を上げ続けていた。
(やめて……! 私は、そんな風に殿下を苦しめたいわけじゃない!)
愛しいレオナルドの視線が、自分(の身体)に向けられるたび、そこに宿る嫌悪と拒絶がカレンの魂を切り刻む。彼女が望んだのは、ただ彼に寄り添うこと。こんな嘘で彼を縛り付け、彼の愛するアンジェリカから引き離すことではなかった。
しかし、偽りの栄華は長くは続かなかった。
アンジェリカの冷徹な知性が、カレンから漂う不自然な魔力の揺らぎを見抜いたのだ。
地下牢へと引き立てられ、アンジェリカの手によって呪術が解除された瞬間、カレンの肉体からプリシラの毒々しい精神が引き剥がされた。
だが、禁術の反動はあまりに過酷だった。
魔力の大半と生命力を吸い尽くされたカレンの身体は、秋の枯葉のように脆く、衰弱していた。
冷たく暗い牢の中、カレンは微かな意識を取り戻した。
「……レオナルド、殿下……」
掠れた声で呼んでも、もう彼はここにはいない。
最後に彼女の瞳に浮かんだのは、呪術が解けた後、レオナルドがアンジェリカに向けて見せた、この世の何よりも優しく温かな笑顔だった。自分には一度も向けられることのなかった、本物の愛の光。
(ああ……、やっぱり、あのお顔が一番好きだわ……)
カレン・バーネットの短い初恋は、静かに幕を閉じた。
彼女はただ、レオナルドに想いを伝えたかっただけだった。その純粋すぎる心が、悪意という名の毒に利用されたことにさえ気づかぬまま、彼女は初恋の記憶だけを抱いて、永遠の眠りについたのである。
(完)




