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番外:木漏れ日のエチュード

アンジェリカとレオナルドの出会い~本編までの話です。

 春の陽光が王宮の庭園に降り注ぎ、色とりどりの花々が芳香を競い合っていた。

 六歳のアンジェリカ・アルバスタは、母に連れられて訪れたこの場所で、少しだけ冒険に出ることにした。母と王妃クリスティーヌが仲睦まじくお茶を楽しむ間、アンジェリカは可憐なレースの袖を揺らしながら、蝶を追うように迷路のような生垣を抜けていく。


「あら……?」


 庭園の最奥、白い石造りの東屋の陰。そこでアンジェリカが見つけたのは、蹲り、小さな肩を震わせている五歳のレオナルドだった。

 プラチナグレーの柔らかな髪、宝石のようなエメラルドの瞳。けれど、その瞳はいま、こぼれ落ちる大粒の涙で濡れている。


「……どうしたの? どこか痛いの?」


 アンジェリカが鈴を転がすような声で話しかけると、レオナルドはビクリと身体を跳ねさせた。


「……君もぼくのこと、笑いに来たの?」


 彼は、兄であるアルベルトに「一人でここまで戻れたら仲間に入れてやる」と嫌がらせで置き去りにされ、広すぎる庭で途方に暮れていたらしい。

 アンジェリカは、涙に濡れた顔を背けようとするレオナルドの隣に迷いなく座り、苺の刺繍が施されたハンカチで、その泥のついた頬を優しく拭った。


「笑うわけないでしょう。わたしはアンジェリカ。あなたの瞳があまりに綺麗だから、つい見惚れてしまっただけよ」


 アンジェリカの天真爛漫で、けれど凛とした微笑みに、レオナルドは言葉を失った。

 自分を否定する者ばかりの王宮で、こんなにも優しく、自分を「綺麗だ」と言ってくれる人に出会ったのは初めてだった。


「……ぼくは、レオナルド。お庭が広くて、迷っちゃって。どこに行けばいいか、分からなくなっちゃったんだ」

「それなら、わたしも一緒に探してあげる。立ち上がって、レオ」


 アンジェリカは小さな手を差し出した。レオナルドが恐る恐るその手を握ると、陽だまりのように温かな温度が伝わってきた。小さな胸が、トクン、と熱く脈打つ。


「じゃあ、レオね!ねぇ、レオ。約束しましょう。もしあなたがまた迷子になっても、どこか暗いところに閉じ込められても……わたしだけは、必ず見つけてあげる。世界中の人が忘れても、わたしだけはあなたの居場所を忘れないわ」


 レオナルドは、その言葉を魔法のように聞き入った。

 アンジェリカが繋いだ手をギュッと握り返す。その瞬間、彼にとって、この広すぎる王宮は恐ろしい場所ではなく、彼女という光がいる特別な場所に変わった。


「……ほんとうに? ……ずっと?」

「ええ、ずっと。わたしたちが大人になっても、ずっとよ」


 アンジェリカはレオナルドに悪戯っぽくウインクをして、彼を連れて母たちの元へと歩き出す。彼は、前を歩くその背中を見つめながら、生まれて初めての感情に包まれていた。

 ——この子を、離したくない。この子の隣に、ずっといたい。


 それからの日々、二人の交流は夢のように甘い時間となった。

 王宮で茶会が開かれるたび、レオナルドは最高の笑顔でアンジェリカを迎え、アンジェリカはレオナルドのために選んだ甘いお菓子をこっそりポケットに忍ばせてきた。


「アンジェ、見て。庭で一番綺麗なバラを摘んできたんだ」

「まあ、嬉しいわ。レオ、あなたの瞳と同じ色ね」


 アンジェリカが贈られたバラを髪に飾ると、顔を真っ赤にしてレオナルドは照れた。

 たとえアルベルトに嫌がらせをされても、アンジェリカに会えると思うだけでレオナルドは強くなれる。彼女に褒めてもらいたくて、必死に難しい勉強や剣術を練習した。二人が見せ合う笑顔だけは、誰にも邪魔されない自分たちの秘密の宝物だった。


 アンジェリカもまた、レオナルドの純粋な優しさに触れるたび、心が蕩けるような心地よさを感じていた。


「アンジェリカ、大好きだよ」


 レオナルドがそう囁くたびに、アンジェリカの胸の奥で、小さな恋の蕾が少しずつ、けれど確実に花開こうとしていた。


 ---


 幼い二人の世界は、まるでお伽噺の続きのように輝いていた。

 庭園の秘密の場所で、レオナルドがアンジェリカのために即興で物語を語り、アンジェリカがその物語に美しい結末を添える。そんな無邪気な時間が永遠に続くと、誰もが信じていた。


 しかし、アンジェリカが八歳になった冬。

 王宮の庭園が真っ白な雪に覆われた頃、彼女の母が静かに息を引き取った。


「……お母様、行かないで。私を置いていかないで……」


 アンジェリカの小さな世界は、一夜にして色を失った。母の葬儀の後、公爵家の屋敷には冷たい静寂が満ち、彼女は悲しみに暮れる父の前でも、公爵令嬢として気高く振る舞わなければならなかった。誰にも涙を見せられず、凍えそうな心を抱えて、アンジェリカはかつてレオナルドに出会ったあの東屋へと、縋るように足を運んだ。


 雪の積もったベンチに座り、独り震えているアンジェリカの背中に、温かな感触が重なる。


「……アンジェ。見つけたよ」


 振り返ると、そこにはマントを羽織ったレオナルドが立っていた。

 彼は、喪服に身を包んだアンジェリカの青ざめた顔を見ると、何も言わずに彼女をマントの中に引き入れ、その小さな身体を包み込んだ。


「レオ……。どうして、ここが……」

「約束しただろう? どこにいても、君を見つけるって。……今度は僕の番だ」


 レオナルドは、冷たくなったアンジェリカの手を自分の両手で包み、一生懸命に温める。

 触れ合った鼓動が、アンジェリカの耳に規則正しく響く。それは、絶望の中にいた彼女にとって、世界で唯一の、確かな「生」の証だった。


「アンジェ。泣いてもいいんだよ。僕の前では、完璧な令嬢じゃなくていい。……僕が、君の悲しみを全部半分こにするから。だから、独りで抱えないで」


 その優しい声に、アンジェリカの瞳から、それまで堪えていた大粒の涙が溢れ出した。

 レオナルドの服をギュッと掴み、胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくる。母の死以来、初めて見せた弱さ。レオナルドは、背中を優しく撫で続け、涙が止まるまで、ずっと寄り添い続けた。


「レオ、ありがとう……。あなたがいてくれて、本当に良かった」

「アンジェ、僕は誓うよ。いつか僕が大きくなったら、君を悲しみから守れるくらい、強くなる。君の笑顔を、僕が一生守るから」


 雪の降る東屋で、レオナルドはアンジェリカの額に、誓いの口づけを落とした。

 悲しみの中で再確認されたのは、互いが互いにとって、欠かすことのできない唯一の光であるという事実だった。


 ---


 それからの二年間は、これまで以上に甘やかで、切実な時間となった。

 九歳になったレオナルドは、周囲が驚くほど大人びた雰囲気を纏い始めていた。彼はアンジェリカに会うたび、庭園の珍しい花や、彼女が喜びそうな詩集を贈り、惜しみない愛を囁いた。


「アンジェ、見て。今日のために、新しいワルツのステップを練習したんだ。君と踊る、最初のダンスのために」

「ふふ、まあ素敵。でもレオ、私の方が少し背が高いから、リードは私に任せてね」


 そう言って笑い合う二人の姿は、まさに初恋の真っ只中にいる少年少女そのものだった。

 アンジェリカもまた、母を亡くした喪失感をレオナルドの愛で埋めていった。彼の前でだけ見せる、柔らかく、蕩けるような笑顔。彼女にとっての幸せは、レオナルドという名の未来そのものだった。


 だが、幸せの絶頂にいた二人に、最悪の報せが届く。


「……アンジェリカ・アルバスタ。貴女を、第一王子アルベルトの婚約者に指名する」


 それは、国王ジェイスによる、政治的な冷徹な判断だった。

 第一王子アルベルトの権力基盤を固めるために、有力な公爵家の令嬢アンジェリカが必要とされたのだ。


「……嘘でしょう? どうして、私が……。レオじゃなくて、アルベルト殿下の?」


 知らせを聞いたアンジェリカは、絶望のあまり崩れ落ちた。

 翌日、王宮の隠れ場所でレオナルドに会った時、彼は今にも泣き出しそうな、それでいて激しい怒りに燃えた瞳をしていた。


「アンジェ、逃げよう。君をあんな兄上の元へ行かせたくない! ……君を愛しているのは僕だ。君が愛しているのも、僕だろう?」


 レオナルドは、アンジェリカの肩を強く掴む。その瞳には、かつてないほどの必死さが滲んでいた。

 アンジェリカは、彼の手に自分の手を重ね、悲しみに震える声を絞り出した。


「レオ、分かっているわ。……でも、逃げれば、あなたの立場が危うくなる。……アルバスタ公爵家だって……」

「そんなこと、どうだっていい! 君がいない未来なんて、僕には意味がないんだ!」


 アンジェリカは、激しく叫ぶレオナルドの唇を、自らの指で優しく塞いだ。

 彼女の瞳には、愛ゆえの、そして守るための、静かな決意が宿っていた。


「レオ。……信じて。私は、諦めない。……あの方の婚約者になるのは、あなたを、そして私たちの未来を守るための『仮面』よ」


 アンジェリカは、首元から一枚のペンダントを取り出した。それは、レオナルドが初めて贈ってくれた押し花を閉じ込めたものだった。


「私たちは、表立っては会えなくなる。……でも、心は、ずっとレオの隣にいる。……少しだけ、待っていて。私、必ずアルベルト殿下の隣で、あなたのための場所を作るから」


 アンジェリカは、レオナルドの頬に深く、祈るような口づけを贈った。

 それは、純粋な初恋の終わりであり、運命を欺くための「共謀」の始まりだった。


 二人は、引き裂かれるようにその場を立ち去る。

 アンジェリカはアルベルトの婚約者として「冷徹な令嬢」を演じ始め、レオナルドは誰にも悟られぬよう、深い執着を胸に秘めて力を蓄え始めるのだった。


 ---


 婚約が決まってからの数年間、二人の世界からは色彩が消え失せたかのようだった。

 王宮のきらびやかな夜会で顔を合わせても、アンジェリカはアルベルトの傍らで完璧に微笑む「氷の令嬢」を演じ続け、レオナルドは兄に影のように従う「目立たない第二王子」として、ただ静かに息を潜めていた。


 けれど、すれ違う瞬間の、わずか一秒にも満たない視線の交差。

 その一瞬に、二人はかつての庭園に降り注いだ陽光を、雪の東屋で分かち合った温もりを、そして互いへの変わらぬ誓いを確かめ合っていたのだ。


(レオ、待っていて。貴方と共にある準備を、必ず整えてみせるわ)

(アンジェリカ、あともう少しだ。必ず君の隣に戻ってみせる)


 その言葉を交わせぬ渇きが、かえって二人の愛を狂おしいほどに純化させていくのだった。


(完)

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