第22話:復讐の残火
偽りの番による「毒」が抜けた王宮には、冷徹な静寂が戻っていた。
カレン・バーネットが地下牢へと消え、その背後にいた薬師や内通者の粛清が進むなか、アンジェリカはレオナルドの傍を離れようとはしなかった。
「……アンジェ。君の手を、また汚させてしまった」
レオナルドは自室のソファで、アンジェリカの膝に頭を預けていた。
エメラルドの瞳はかつての輝きを取り戻しているが、その奥には消えない自己嫌悪が澱のように沈んでいる。擬似共鳴によって強制的に引き出された「本能」の記憶は、彼にとって何よりも忌まわしい汚辱だった。
「いいのよ、レオ。貴方は被害者なのだから。……それに、これで確信が持てたわ。王家の血に流れる『番』という理不尽なシステムも、所詮は薬ひとつで偽造できる程度のものだということが」
アンジェリカは、レオナルドのプラチナグレーの髪を優しく梳いた。
彼女の指先は、迷いなく彼を肯定し、その傷を癒していく。
だが、平穏は長くは続かなかった。
「……失礼いたします! 陛下より至急の伝令です!」
扉を叩く音とともに、騎士団長が血相を変えて飛び込んできた。
「『罪人の間』にて火災が発生! 警備の隙を突き、アルベルト殿下とプリシラが脱走いたしました! また、保管されていた禁忌の魔導具数点が強奪されております!」
アンジェリカの指先が、ぴたりと止まった。
レオナルドは弾かれたように身を起こし、その瞳に冷酷な狩人の光を宿らせる。
「……逃がしたか。あれほど厳重に監視していたというのに」
「申し訳ございません! 内部に手引きした者がいた模様で……現在、全力で追跡しておりますが、火の回りが早く、王宮の一部にも延焼しております!」
「……狙いは、僕たちか」
レオナルドの呟きを裏付けるように、窓の外から凄まじい爆発音が響いた。
夜空が赤黒く染まり、かつて「番の間」と呼ばれた塔が、巨大な松明のように燃え上がっている。
---
炎の咆哮が響く回廊を、アンジェリカとレオナルドは駆け抜けていた。
崩れ落ちる壁、舞い上がる火の粉。その熱気のなかで、狂気じみた笑い声が反響する。
「ヒャハハハ……!燃えろ、すべて燃えろぉ! 私を捨てた世界なんて、壊れてしまえばいいんですぅ!」
「番の間」の庭園。炎に照らし出されたその中心に、プリシラが立っていた。
かつての愛らしさは微塵もなく、泥と煤に汚れた顔で、強奪した魔導具を狂ったように振り回している。
「プリシラ。……もう終わりだ。大人しく投降しろ」
レオナルドが剣を抜き、冷徹に告げる。
その背後から、影のように一人の男が姿を現した。
「終わりだと? ……いいや、これからだ、レオナルド」
アルベルトだった。
頬はこけ、瞳は落ち窪んでいるが、その眼光だけが異常な熱を持ってギラついていた。彼は手にした黒い魔石を高く掲げる。
「お前は、自分がすべてを手に入れたと思っているのだろう? アンジェリカという完璧な駒を手に入れ、私を追い落とし、王座に手をかけた。……だがな、レオナルド。お前のその『理性』という薄っぺらな盾を、今度こそ粉々に砕いてやる」
アルベルトが魔石に力を込めると、黒い霧がプリシラを包み込んだ。
プリシラは絶叫を上げ、その体が異様に膨れ上がる。禁忌の魔導具による過剰な魔力供給――それは術者の命を削り、周囲を道連れにする自爆の術式だった。
「アンジェリカ様ぁ! 貴女さえいなければ、私はアル様と幸せになれたのにぃ! 貴女のその綺麗な顔、焼き尽くしてあげますぅ!」
プリシラが炎の塊となって襲いかかる。
レオナルドは瞬時にアンジェリカの前に立ち、魔法障壁を展開した。だが、アルベルトの狙いは別にあった。
「……気づくのが遅かったな」
アルベルトが背後の崩れかけの壁に向かって、隠し持っていた短剣を投じた。
その先には、避難しきれずに取り残されていた、年若い侍女たちの姿があった。
「レオ、あの子たちが!」
アンジェリカの叫びに、レオナルドの動きが一瞬だけ削がれる。
王としての責任感と、アンジェリカを守るという執着。そのわずかな隙を、アルベルトは見逃さなかった。
「死ね、レオナルド!」
アルベルトが隠し持っていたもう一振りの短剣を、レオナルドの心臓を目掛けて放つ。
炎のなかで、銀の刃が死の軌跡を描いた。
アンジェリカは、思考よりも先に体が動いていた。
彼女はレオナルドを突き飛ばし、自らの体をその軌道上へと投げ出す。
(……これで、いい)
アメジストの瞳が、迫り来る刃を捉える。
愛する男を守り、そして仇を討つ。
完璧な物語の終焉を、彼女は自らの血で描こうとした。
だが、刃が彼女の肌を裂く直前。
横から伸びた強靭な腕が、アンジェリカを強引に引き寄せた。
「……勝手な真似をするな、アンジェ」
レオナルドの声だった。
彼は素手で刃を掴み、その手を血に染めながらも、アルベルトを氷のような瞳で射抜いていた。
「僕の命も、君の命も、勝手に捨てることは許さない。……アルベルト。お前の遊びは、ここで本当におしまいだ」
レオナルドの手から溢れ出した魔力が、炎を飲み込むほどの冷気を放つ。
絶望と怒りが混ざり合った、王者の力が解放されようとしていた。




