第21話:猛毒の解体
「番の間」に充満する、あのねっとりとした甘い香気が、アンジェリカの思考を侵食しようとしていた。
床に這いつくばり、胸を押さえて荒い息を吐くレオナルド。その背中を、カレンが「愛おしそうに」撫でている。だが、アンジェリカの目には、それが獲物の活力を吸い取る蜘蛛の仕草にしか見えなかった。
「……ソフィア、窓をすべて開けなさい。障壁も、魔法騎士を呼んで強制解除を」
アンジェリカの鋭い命令に、背後の侍女が震えながらも動き出す。
カレンが、レオナルドの胸元から顔を上げ、アンジェリカを睨みつけた。その瞳には、もはや初日の純朴な少女の面影はない。
「無駄ですわぁ、アンジェリカ様。レオ様は私の『番』。理屈ではなく、血が求めているのですもの。貴女のような冷たい女が、いくら叫んだところで届きはしませんわぁ」
カレンの声は、部屋の空気に溶けるように甘く、毒々しい。
アンジェリカは一歩、また一歩と、二人の元へ歩み寄った。ドレスの裾が石床を擦る音が、死刑執行人の足音のように響く。
「……血、ですって? 貴女のような小娘に、王家の神聖な共鳴が起きるはずがない。その首元の紋章も、その体から漂う不快な匂いも……すべてはアルベルトが用意した、出来の悪い『お芝居』でしょう?」
アンジェリカは、扇の先でカレンの顎を強引に跳ね上げた。
至近距離で見つめるカレンの瞳。その奥に、僅かな動揺が走るのをアンジェリカは見逃さなかった。
「な、何を……! 私は、神に選ばれた……」
「神ではなく、薬に選ばれたの間違いではなくて? 『擬似共鳴』。禁書に記された、王族の保護本能を強制的に誤作動させる呪術薬。……アルベルトは、自分がプリシラに溺れた屈辱を、レオナルド殿下にも味わわせたかったのね。同じ地獄へ引き摺り込むために」
「アン……ジェ……リカ……」
レオナルドが、掠れた声で彼女の名を呼んだ。
彼のエメラルドの瞳は、いまだに霧がかったように濁っている。だが、アンジェリカの声だけを頼りに、彼は必死にカレンから離れようと指先を床に立てた。
「レオ。見なさい、この女を。これが、貴方の愛するべき『運命』だというの?」
アンジェリカは、カレンが隠し持っていた香袋を、力任せに引きちぎった。
中からこぼれ落ちたのは、どす黒い紫色の乾燥した花弁と、粘り気のある粉末だ。
「ひっ……!」
カレンが悲鳴を上げ、後ずさる。
窓から入り込んだ冷たい夜風が、部屋に溜まっていた甘い香気を一気に押し流した。その瞬間、レオナルドを縛っていた「枷」が、音を立てて砕け散った。
「……が、はっ……!」
レオナルドは激しく咳き込み、床に四つん這いになって荒い呼吸を繰り返す。
霧が晴れていくように、彼のエメラルドの瞳に、鋭利な知性が戻ってくる。彼は、目の前で怯えるカレンを、ゴミを見るような、冷徹極まる視線で射抜いた。
「……よくも。僕を、これほどまでに、汚したな」
その声は、地獄の底から響くような静かな怒りに満ちていた。
レオナルドはゆっくりと立ち上がる。その足取りには、先ほどまでのふらつきはない。彼は無造作に、床に落ちていたカレンの香袋を、軍靴の踵で踏みつぶした。
「レオ様ぁ……違うんです、私は、アル様に……!」
「黙れ。不浄な言葉を吐くな」
レオナルドはカレンを見下ろしたまま、背後の騎士たちに短く命じた。
「……この女を地下へ。死なせない程度に、すべてを吐かせろ。誰が関わったか、どの薬師が薬を調合したか……一人残らず、僕の手で『処理』する」
騎士たちがカレンを左右から抱え、引きずり出していく。
広間に残されたのは、激しい闘いを終えたような静寂と、アンジェリカとレオナルドの二人だけだった。
レオナルドは、震える手でアンジェリカの頬に触れた。
彼の指先は氷のように冷え切っていた。
「……アンジェ、すまない。僕は、……君をあんな女の言葉で傷つけた」
「いいえ。……貴方が壊れる前に、間に合って良かったわ」
アンジェリカは、彼の手に自分の手を重ねた。
レオナルドは、そのまま彼女を強く抱きしめ、その肩に深く顔を埋めた。
彼の体は、まだ僅かに震えている。
「……アルベルト。あの男だけは、決して許さない。……番という呪いを使って、僕たちの未来を汚そうとした罪、その身で購わせる」
「ええ。……準備は整っているわ、レオ。あの男は、もう自分の墓穴を掘り終えている」
二人の影が、月の光の下で冷たく重なる。
「偽物の番」という最大の危機を乗り越えたことで、二人の絆は、もはや神の定めた運命すら超越しようとしていた。




