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第16話:残響する虚実

 立太子式の大広間は、熱狂的な祝福に包まれていた。

「番」が見つかった。それは王国の安泰を約束する神託であり、貴族たちにとってはこれ以上ない安心材料だった。


 レオナルドは、震える少女の手を握りしめたまま動かない。その背中は、アンジェリカが知る「冷徹な知略家」のものではなく、ただ本能に支配された一人の王族のそれだった。


「……アンジェリカ様」


 ソフィアが、震える声で主の名を呼んだ。

 アンジェリカは、壇上の階段に足をかけたまま、彫像のように静止していた。視界の端で、王妃クリスティーヌが顔を覆い、国王ジェイスが深い溜息をつくのが見える。


 だが、アンジェリカの心は、驚くほど冷静だった。

 沸騰するような絶望のすぐ裏側に、氷のような理性が戻ってくる。


(ああ……これが、あの方が仰っていた「毒」なのね)


 アンジェリカはゆっくりと、壇上から降りた。

 一歩、また一歩。

 ざわめく群衆を割り、彼女はレオナルドの背後に立った。


「レオナルド殿下」


 アンジェリカの声は、凛としていた。会場の喧騒が、その一言で水を打ったように静まり返る。

 レオナルドの肩が、びくりと跳ねた。彼は憑き物が落ちたような、あるいは悪夢から覚めたような顔で、ゆっくりと振り返った。


「アンジェ……リカ……」


 彼のエメラルドの瞳には、まだあの少女への盲目的な熱が残っている。だが、アンジェリカの姿を認めた瞬間、そこにかつての「恐怖」が混ざり込んだ。


「……見事な見極めでございましたわ、王太子殿下」


 アンジェリカは、完璧な、あまりに完璧すぎる微笑みを浮かべた。


「これほど清らかなお方を引き当てられるとは。神の御加護は、常に王太子殿下と共にありますのね」

「あ、違うんだ、アンジェリカ、僕は……!」


 レオナルドが言い訳をしようと、少女の手を離しかける。だが、彼の本能がそれを許さない。指先は無意識に、少女の腕を強く掴み直していた。


 アンジェリカはその矛盾を、冷ややかに見つめた。


「お気になさらないで。……儀式を続けましょう。皆、貴方の『愛の誓い』を待っておりますわ」


 アンジェリカは、床に落ちたままだった「王太子の剣」を自ら拾い上げた。そして、それを恭しくレオナルドへと差し出す。


「……さあ、殿下。剣を。貴方は今日、この国の王太子になられたのですから」


 レオナルドは、震える手で剣を受け取った。

 その顔には、狂喜など微塵もなかった。あるのは、自分が最も恐れていた「本能」に屈したという、耐え難いほどの自己嫌悪。そして、それを許容して微笑むアンジェリカへの、底知れない恐怖だった。


 ---


 深夜。

「番」として認定された少女——カレンという名の伯爵令嬢は、慣習に従い、即座に「番の間」へと移された。

 レオナルドは、本来であれば彼女に付き添い、その愛を語り合うべき立場にある。


 だが、彼は今、アンジェリカの「間」の前に立ち尽くしていた。


「……開けてくれ、アンジェ」


 扉の向こうからは、何の返答もない。

 レオナルドは、頭を扉に押し付けた。


「アンジェ、嘘なんだ。あんなのは……。僕の体勝手に動いただけで、僕の心は……」

「……心など、どこにあっても構いませんわ」


 冷たい声が、扉を透かして響いた。

 扉が開き、アンジェリカが姿を現す。彼女は既にガウンに着替えていたが、その瞳は昼間よりも鋭く研ぎ澄まされていた。


「殿下。貴方の『番』は、寂しがっておいでですよ。早く行って差し上げたら?」

「嫌だ! 僕はあそこへは行かない! あの娘の顔を見るたびに、僕は自分の中の化け物を自覚するんだ……!」


 レオナルドはアンジェリカの肩を掴み、狂ったように叫んだ。


「僕は君を愛している! それだけは真実だ! 番なんて、ただの呪いだ……!」

「ええ、呪いですわね」


 アンジェリカは、レオナルドの頬を優しく撫でた。

 その手触りは温かかったが、レオナルドは氷に触れたような錯覚を覚えた。


「だからこそ、その呪いを飼い慣らしましょう。……あなたは、あの娘を愛していると『演じる』のです。国民の前で、陛下たちの前で。……そして、あの娘をあの『間』から一歩も出さず、世間から隔離しなさい」

「アンジェ……?」

「政治は私が行います。貴方の隣に立つのも、私です。……あの娘は、ただの『王家の神事の道具』として、あそこで一生を終えればいい」


 アンジェリカの微笑みが、月の光を浴びて不気味に輝く。

 レオナルドは悟った。

 アンジェリカは、自分を許したのではない。

 自分と、自分の「番」ごと、この王宮という名の巨大な檻の中に閉じ込め、統治しようとしているのだ。


「……僕は、一生君に贖い続けなければならないんだね」

「ええ。……それが、私への愛の証明でしょう?」


 アンジェリカは、レオナルドの首筋に手を回し、その唇を塞いだ。

 それは昨夜までの情熱的な口づけとは違う。

 敗者に枷をはめるような、残酷で、甘美な征服の儀式だった。


 その頃、「罪人の間」のアルベルトは、自分たちの境遇がレオナルドにも訪れたことを聞き、狂ったように笑い転げていた。


「ハハハ! 同じだ、同じなんだよレオナルド! お前も……お前も、あの地獄を味わえ!」


 だが、アルベルトはまだ知らなかった。

 アンジェリカという女が、地獄そのものを管理する側の存在に変わったことを。


 嵐は止まない。

 ただ、その形を変えて、より深く、より静かに王国を侵食し始めていた。

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