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第14話:静謐なる毒杯

 立太子式、そしてレオナルドの十八歳の誕生日を明日に控え、王宮は嵐の前の凪のような静寂に包まれていた。

 アンジェリカは、自らの「間」のテラスから、夕闇に染まる王都を眺めていた。アメジストの瞳には、一切の動揺がない。


「アンジェリカ様、明日の式典で着用されるドレスの最終確認を」


 ソフィアの声に、アンジェリカはゆっくりと振り返った。

 用意されたのは、深い紫のシルクに、夜空の星を模したダイヤモンドが散りばめられたドレス。正妃となる者が纏う、矜持と威厳を形にした一着だ。


「……綺麗ね。まるで、すべてが終わった後の静かな夜のよう」


 アンジェリカが指先で布地を撫でる。

 このドレスを着て、彼女はレオナルドの隣に立つ。たとえ明日、彼が何百人もの令嬢の中から「番」を見出す儀式に臨もうとも、彼女の決意は揺るがない。


 その時、ノックの後、静かに扉が開いた。

 入ってきたのは、王妃クリスティーヌだった。彼女は侍女たちを下がらせると、アンジェリカの向かいにある椅子に優雅に腰を下ろした。


「いよいよ明日ね、アンジェ」

「はい、王妃様。準備はすべて整っております」

「……あの子、レオナルドはどうしているかしら? 先ほど見かけたけれど、まるでこれから処刑台に登るような顔をしていたわ」


 クリスティーヌは楽しげに、けれど瞳の奥には悲しげな憂いを湛えて笑った。

 アンジェリカは、静かに茶を淹れ直した。


「レオナルド殿下は、運命という不確かなものを嫌っておいでです。あの方にとって、明日の儀式はただの『不条理な確認作業』に過ぎません」

「不条理、ね。……そう。私もそう思っていたわ。陛下がフィオナを見つけた時、私は自分の価値が、ただの『血の繋がり』という本能に負けたのだと感じた」


 クリスティーヌは窓の外を見つめ、遠い過去を追憶するように言葉を繋いだ。


「でもね、アンジェ。番というものは、愛とは違う。それは強烈な『執着』であり、逆らえない『衝動』よ。……理性でそれを抑え込もうとすればするほど、その反動は大きく、深く、魂を壊していく」

「……私は、壊れませんわ」


 アンジェリカの断固とした言葉に、クリスティーヌは視線を戻した。


「もしレオナルドが、明日、誰かを『番』だと認識した瞬間。あなたの目の前で、あの子がその娘を熱烈に求め始めたとしても……あなたは今と同じ顔でいられるのかしら?」

「ええ。その時は、その娘を『番の間』へ押し込み、一生そこから出さないように手配するだけです。王家が守ってきた伝統通りに。……そしてレオナルド殿下の隣には、変わらず私が居続けます」


 アンジェリカの微笑みは、もはや淑女の範疇を超えていた。

 それは、自らの愛を貫くために、王国という巨大なシステムを飼い慣らそうとする者の笑みだ。


「……頼もしいわね。本当に、私によく似ている」


 クリスティーヌは立ち上がり、アンジェリカの肩を優しく叩いた。


「毒を飲み、毒と生きる。……明日、何が起きたとしても、あなたは私の『義娘』よ。そのことだけは忘れないで」


 クリスティーヌが去った後、アンジェリカは再び夜の闇を見つめた。

 彼女の言葉は、単なる励ましではない。それは、これから始まる惨劇、あるいは喜劇への「招待状」のようにも聞こえた。


 ---


 深夜。アンジェリカは眠りにつくことができず、寝衣の上にガウンを羽織り、隠し通路を通ってレオナルドの寝所へと向かった。

 見張りの兵たちは、既にレオナルドの手の者に代わっている。


 扉を開けると、暗闇の中にレオナルドが座っていた。

 彼は剣を磨く布を手に、ただ無心に銀の刀身を往復させていた。


「……レオ」

「アンジェか。……こんな時間に、どうしたんだい」


 レオナルドが顔を上げた。そのエメラルドの瞳は、月の光を反射して不気味なほどに冴え渡っている。


「不安なのね、レオ」

「……馬鹿げているだろう。たかが血の反応に、これほど怯えるなんて。……もし明日、僕が誰かに手を伸ばそうとしたら、アンジェ。……君が僕を刺してくれ」


 レオナルドは磨き上げた剣を机に置き、アンジェリカを引き寄せた。

 彼の体は、熱を孕んだように熱い。


「刺したりしませんわ。……ただ、貴方の目を塞いで、私の声だけを聴くように囁き続けるわ。……貴方は、私だけの王。そうでしょ?」

「ああ。……僕の魂は、君のものだ。それだけは、神にだって渡さない」


 レオナルドはアンジェリカの首筋に深く歯を立てた。

 痛みが走る。けれど、それは二人の誓いを刻み込むための、何より確かな儀式のように感じられた。


 明日、世界が変わる。

 アルベルトが失墜し、プリシラが地獄へ堕ちたように、次は自分たちが試される番だ。

 二人は互いの体温を確かめ合いながら、決して明けることのない夜を願った。


 だが、夜明けの鐘は非情に鳴り響く。

 王国の歴史上、最も「完璧な王太子」と「完璧な王太子妃」による、血塗られた立太子の幕が、今、開こうとしていた。

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