第13話:澱みのなかの綻び
立太子を目前に控えたレオナルドの公務は、苛烈を極めていた。
アルベルトが「番」との遊興に耽り、放置し続けてきた外交上の不備、そして国境付近の魔物被害。それらすべてを、レオナルドは驚異的な速度で処理していく。
アンジェリカもまた、その影で筆を走らせていた。
彼女が代筆する書簡は、王家の尊厳を保ちつつ、相手の懐に滑り込むような巧みな修辞に満ちている。
「アンジェリカ様、また『罪人の間』の警備から報告が届いております」
ソフィアが困惑した表情で、一通の報告書を差し出した。
アンジェリカは視線を書類から上げることなく、冷淡に応じる。
「……また、あの二人が争っているのかしら」
「はい。プリシラ様が、アルベルト殿下の唯一残された私物——フィオナ様から送られた指輪を、看守に賄賂として渡そうとしたそうで……。それに気づいた殿下が、彼女の首を絞めかけたと」
アンジェリカのペン先が、わずかに止まった。
アメジストの瞳に、蔑みとも憐れみともつかぬ色が浮かぶ。
「……醜いわね。番とは、互いを求め合う存在ではなかったのかしら」
「極限状態では、愛よりも自己保存が勝るのでしょう。殿下は『お前を番だと認めたせいで、私はすべてを失った』と毎日叫んでいらっしゃるようです」
アンジェリカはふっと短く息をつき、再びペンを動かした。
アルベルトは、自分を「選ばれた者」だと信じていた。だが、その選別が「呪い」であったことに、地獄に落ちてからようやく気づいたのだ。
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その夜、アンジェリカは王宮の庭園を見下ろす回廊を歩いていた。
立太子式の準備で慌ただしい王宮の中で、ここだけが静寂に包まれている。
「アンジェ」
闇から現れたレオナルドの姿に、彼女は驚きを見せなかった。
レオナルドはそのまま彼女を背後から抱きすくめ、その肩に深く顔を埋めた。
「……レオ。お疲れのようね」
「兄上の不始末を片付けるたびに、その無能さに吐き気がする。……そして、そんな男の婚約者として、君を繋ぎ止めていたこの国にもね」
レオナルドの手が、アンジェリカの腰を強く引き寄せる。
その指先がわずかに震えているのを、アンジェリカは感じ取った。
「立太子式まで、あと三日。……怖いの? レオ」
「……ああ、怖いよ。君以外の誰かを『番』だと脳が誤認する。そんな生物学的な事故が、僕たちの絆を汚すかもしれないことが」
レオナルドの声は掠れていた。
彼は、王族の血筋に刻まれた「番」というシステムを、純粋な悪意として捉えている。それは個人の意思を無視し、強制的に他者への執着を植え付ける、遺伝子の暴挙だ。
「……ねえ、レオ。思い出して」
アンジェリカは彼の腕の中で向き直り、そのプラチナグレーの髪を優しく撫でた。
「五歳の時、バラ園で迷子になって泣いていた貴方に、私が何て言ったか」
レオナルドは、エメラルドの瞳を揺らした。
『大丈夫。私があなたを見つけてあげる。どこにいても、何度でも』
幼いアンジェリカがかけた言葉。
それは、婚約者になるずっと前の、純粋な約束だった。
「番の認定なんて、ただの『反応』に過ぎないわ。でも、私たちが積み上げてきたものは、この国の歴史よりも重い。……もし、他の誰かを番だと言い出したとしても、私はそれを認めない。貴方の隣は、私の場所よ」
アンジェリカの微笑みは、冷徹なまでに確信に満ちていた。
その気高さが、レオナルドの心に巣食う不安を、熱い情動へと塗り替えていく。
「……そうだね。僕も、そんな不確かな『運命』に君を譲るつもりはない」
レオナルドは彼女の顎を指ですくい上げ、激しく唇を重ねた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、二人の熱だけがそこに存在していた。
だが、二人の背後。
王宮の影に隠れた「王妃の間」の窓から、クリスティーヌがその様子をじっと見つめていた。
彼女の瞳には、かつての自分を見るような懐かしさと、それ以上に深い、予言者めいた悲哀が宿っていた。
「……毒を喰らう覚悟、か。……いいわ。最後まで、見届けさせてもらうわよ。あなたたちが、その愛でどこまで運命を欺けるのかを」
王妃は小さく呟き、手にした銀の杯を傾けた。
一方、その頃。
「罪人の間」のアルベルトは、暗闇の中で、不気味な笑みを浮かべていた。
彼の瞳は既に理性を失い、あらぬ方向を見つめている。
「……レオナルド。お前も味わうがいい。番という、逃げられない檻の苦しみを……」
王国の歴史が、新たな王の誕生を祝う準備を進める中、地下から響く呪詛は、静かに、確実に、その足元を蝕み始めていた。




