第12話:毒を喰らう覚悟
王宮の深部に位置する国王の執務室は、重厚な沈香の香りに包まれていた。
国王ジェイスは、疲れ切った様子で椅子の背もたれに体を預けている。その向かいには、王妃クリスティーヌと、その恋人であり王弟のグレイン公爵が並んで座っていた。
「……よく来たな、二人とも」
ジェイスの視線が、部屋に入ってきたレオナルドとアンジェリカに注がれる。
そこには、かつての「息子の優秀な補佐」と「完璧な婚約者」を見るような期待の色はなく、どこか諦念に近い、静かな光が宿っていた。
「アルベルトの廃嫡は、正式に教会へ届け出た。……近いうちに、レオナルドを王太子として立太子させる。これ以上の混乱は、この国を滅ぼしかねぬからな」
「身に余る光栄です、陛下」
レオナルドは非の打ち所がない礼を執った。
だが、その声には喜びの響きなど欠片もなく、冷徹なまでの冷静さが保たれている。
「だが、レオナルド」
ジェイスが身を乗り出し、低い声で続けた。
「お前が十八の誕生日を迎える時、必ず『番の見極め』を行わねばならぬ。……それは、王家の血に刻まれた義務だ。番を無視して王座に就いた例はない。もし見つからなかったとしても、見つかるまで探し続ける。それが、王国の平穏を保つための呪術的な支柱だからだ」
王家の血筋に現れる「番」は、単なる愛の形ではない。
それは時に、王族の狂気を抑える枷となり、時に国を統治するための強力な魔力の源となる。
アルベルトのように暴走すれば国を乱すが、番なしの王は「欠陥品」として、貴族たちの支持を失うのだ。
「……承知しております。ですが、私は」
レオナルドが言いかけた時、アンジェリカが静かに一歩前へ出た。
「陛下。……もしレオナルド殿下に番が見つかったとしても、私は彼の正妃として、王妃教育で培ったすべてを以て彼を支える覚悟です」
アンジェリカのアメジストの瞳が、ジェイスを真っ直ぐに見据える。
「番が、必ずしも政治に長けているとは限りません。アルベルト殿下の場合のように、国を危うくすることもあります。……私は、レオナルド殿下が番に惑わされぬよう、王国の屋台骨として機能し続けることを、王妃様に誓いました」
その言葉に、クリスティーヌが微かに満足げな笑みを浮かべた。
彼女こそが、その「形」の完成形だ。国王ジェイスの番はフィオナだが、国を治めているのは実質、王妃クリスティーヌと王弟グレイン公爵である。
「……アンジェ。貴方は本当に、私の若い頃によく似ているわ」
クリスティーヌが優雅に立ち上がり、アンジェリカの頬に手を触れた。
「愛と、義務。その両方を手に入れようとするなら、人並みの心は捨てることね。毒を喰らい、毒を飼い慣らす。……貴方たちには、その覚悟があるのかしら?」
「ええ。……もちろんです、母上」
レオナルドがアンジェリカの肩を抱き寄せた。
国王の前で、もはや隠そうともしないその親密さ。
ジェイスは深く溜息をつき、首を振った。
「……好きにするがいい。お前たちが望む地獄なら、誰も止めはしない。……だがな、レオナルド。番というものは、お前が考えているよりも、ずっと恐ろしいものだぞ」
その忠告を、レオナルドは鼻で笑い飛ばした。
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執務室を出て、薄暗い廊下を二人は歩く。
レオナルドの足取りは、どこか急いでいるようだった。
「……アンジェ」
人目のない、彫像の影で彼は立ち止まった。
そのまま、彼女を壁に押し付けるようにして抱きしめる。
「陛下は、分かっていないんだ。……僕たちの絆が、あのような本能だけの『番』に劣るはずがないということを」
レオナルドの声は、怒りに震えていた。
十八歳の誕生パーティー。そこで自分以外の誰かが「運命の相手」として現れる可能性。その不確実性が、彼の理性を蝕んでいる。
「……大丈夫よ、レオ。私を信じて」
アンジェリカは彼の耳元で囁き、冷えた指先で彼の項を撫でた。
「たとえ、他の誰かを『番』だと認識しても。私は、貴方の心も、体も、魂も、誰にも渡さない。……貴方が狂うなら、私がその狂気ごと、閉じ込めてあげるわ」
「アンジェ……」
レオナルドが、飢えた獣のように彼女の唇を奪った。
冷たい石壁の感触と、彼から伝わる熱い執着。
それは美しく清らかな愛などではなく、ドロドロとした独占欲と、王国を奪い取ろうとする野心が混ざり合った、歪な情熱だった。
二人の影は、長く、深く、廊下の床に伸びていく。
その先には、廃嫡されたアルベルトたちが蠢く「罪人の間」があり、さらにその先には、血塗られた立太子の日が待っていた。
二人はまだ気づいていない。
自分たちがどれほど周到に準備を進めても、運命という名の神は、最も残酷なタイミングでカードを切ることを。
「……さあ、行きましょう。次の公務が待っているわ、王太子殿下」
アンジェリカは唇を引き結び、再び完璧な淑女の仮面を被った。
レオナルドもまた、鋭い牙を隠して微笑んだ。
夜の王宮は、新たな獲物を待つ蜘蛛の巣のように、静かに二人を包み込んでいた。




