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第10話:深淵の入り口

 アルベルトとプリシラが「罪人の間」へ連行されてから、王宮には奇妙な静寂が訪れていた。

 それは平和の到来ではなく、巨大な歯車が入れ替わる際の、重苦しい摩擦音のような静けさだった。


 アンジェリカは、いつものように自らの執務室でペンを走らせていた。

 王太子が廃嫡されたことで、これまで彼が滞らせていた決裁書類が濁流のように押し寄せている。それを一つずつ、冷徹な正確さで捌いていく彼女の横顔には、疲れの色すら見えなかった。


「アンジェリカ様、少しお休みになっては。もう深夜ですわ」


 ソフィアが心配そうに温かいハーブティーを置いた。

 アンジェリカは視線を書類から外さず、小さく首を振った。


「いいのよ。今、私が手を止めれば、国の機能が止まってしまう。アルベルト殿下があれほどまでに実務を放置していたツケは、誰かが払わなければならないわ」

「……ですが、あの方はもう、この国の主ではありません。次期王太子には、レオナルド殿下が……」


「ええ。だからこそよ」


 アンジェリカはそこでようやくペンを置き、湯気の向こう側を見つめた。


「レオナルド殿下が王太子として立つ時、余計な混乱を残しておくわけにはいかないの。……彼は、私を救うために手を汚してくれたのだから。私は、彼の歩く道を整えるだけよ」


 アメジストの瞳に宿るのは、婚約者を失った悲しみではない。愛する男と共に、この国を掌握しようとする、静かな覇気だった。


 ---


 その頃、王宮の地下深く、日の差さない石造りの一角——「罪人の間」では、絶望が反響していた。

 かつて贅を尽くした「王族の間」とは似ても似つかない、冷たく湿った三つの部屋。窓には頑強な格子がはめられ、外の庭園を見ることも叶わない。


「……こんなの、嘘ですぅ。何で、私がこんな目に……!」


 プリシラは、手入れのされていない寝台の上で、ピンクブロンドの髪を振り乱して泣き喚いていた。

 その体には、アンジェリカから奪おうとした宝石も、国庫を汚して手に入れたドレスもない。与えられたのは、粗末な灰色の囚人服だけだった。


「黙れ……うるさいぞ、プリシラ」


 部屋の隅で膝を抱えていたアルベルトが、掠れた声で毒づいた。

 彼の顔は無精髭に覆われ、かつての王太子としての輝きは見る影もない。


「私が……私が、お前の願いをすべて叶えてやろうなんて思ってしまったせいで、こんなことになったんだ。お前が、あの宝石を、あのドレスを欲しがらなければ……!」

「ひどい……! アル様が、私を幸せにするって言ったんじゃないですかぁ! あなたが無能だから、レオナルド様に負けたんでしょう?」


「何だと……!?」


 愛し合っていたはずの「番」は、今や互いを呪い合うだけの存在へと成り下がっていた。

 この国の「番」という制度は、互いを狂おしいほどに求め合わせる。だが、その結びつきは、理性を失った獣のものと同じだ。一度追い詰められれば、その鋭い牙は、最も近くにいる相手へと向けられる。


「……アンジェリカ。そうだ、アンジェリカなら……!あいつは私の婚約者だったんだ。私のことを愛していたはずだ。あいつが、父上を説得すれば……!」


 アルベルトは震える手で壁を掻いた。

 しかし、その壁の向こうに、彼の声が届くことは二度とない。


 ---


 一方、アンジェリカは執務を終え、人目を避けてレオナルドの私室を訪れていた。

 王族の広間から枝分かれした廊下は暗く、彼女の足音だけが静かに響く。


 扉を開けると、レオナルドは大きな机に向かい、古びた地図を広げていた。


「アンジェ。……待っていたよ」


 レオナルドは立ち上がり、吸い寄せられるように彼女を抱き寄せた。

 彼の髪からは、わずかにインクと古い紙の匂いがする。


「アルベルト殿下と、プリシラの様子を聞いたわ」

「……ああ。互いを罵り合っているらしいね。番の認定を受けた直後の高揚感が消え、現実の苦しみが襲ってきた時、あのような関係に何が残るのか。……滑稽な見世物だよ」


 レオナルドはアンジェリカの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「……アンジェ。君は、僕を見捨てたりしないよね?」


 その声は、昼間の冷徹な王子とは別人のように、脆く、震えていた。

 レオナルドもまた、血の呪縛を恐れているのだ。いつか、自分にも「番」が現れ、この愛を壊してしまうのではないかという恐怖に。


 アンジェリカは、彼の背中にそっと手を回し、優しく撫でた。


「ええ。何があっても。……もし、レオに番が現れたとしても、私は貴方を離さない。貴方が私を必要とする限り、私は正妃であり、共謀者よ」


 二人の影が、薄暗い部屋の壁に大きく映し出される。

 一人は玉座を狙い、一人はその影で牙を研ぐ。

 アルベルトという「共通の敵」を排除したことで、二人の絆はより深く、より歪な形へと完成されつつあった。


「……あともう少しだ。僕が十八歳になれば、正式に立太子できる。そうすれば、誰にも邪魔をさせない」


 レオナルドが、アンジェリカの唇を塞ぐ。

 それは救いを求めるような、そして同時に、相手を支配しようとする激しい口づけだった。


 窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい雨が降り始めていた。

 王国の歴史が、一人の愚か者の失脚とともに、静かに、そして激しく転換しようとしていた。

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