第7話「ザワザワ」
おっちゃんが私の元へとやってきた。
「リーシャ」
「おっちゃん…?」
ロルフのおっちゃんの様子がおかしい。いつもなら「よくやった」と頭を撫でてくれるはずなのに、その目は私を見ていなかった。もっと遠く、ここではないどこかを見ているような目だ。
「すまん。急用ができた」
「え…?」
「詳しくは言えん。だが…俺は騎士団本部に戻らなきゃならん」
低い声。私の背筋に、さらに冷たいものが走る。
おっちゃんが、グレゴール教官の方を見た。
「動くなよ。学生を守れ。何があっても」
教官が無言で頷いた。
おっちゃんが私に視線を戻す。
「リーシャ。軽はずみな行動はするなよ。いいな」
「おっちゃん、何があったの?」
「…今は言えん」
そう言い残し、おっちゃんは私に背を向けた。
その背中が、ひどく遠く感じた。
「待って、おっちゃん!」
呼び止める私の声も届かず、おっちゃんは伝令と共に馬に乗り、砂塵を巻き上げて去っていった。
馬の蹄の音が、遠ざかっていく。
その音が完全に消えるまで、私は立ち尽くしていた。
◇
「…何があったの?」
エミリアが不安そうに私の袖を掴む。
周りの生徒たちもざわめき始めていた。
クラウディウスも、さっきまでの敵意を忘れたように、険しい表情で北の方を見ている。
ルシア先輩が毅然とした態度で生徒たちを落ち着かせようとしているが、その表情も硬い。
「訓練は一時中断。各自、学院内に戻れ」
グレゴール教官の声が響いた。
「ヴァレンティア、ノーヴェ。お前たちも戻れ」
「はい…」
私とエミリアは練兵場を後にした。
私の耳には、もう機体の音は聞こえなかった。
代わりに聞こえてきたのは、生徒たちの不安そうな囁き声。
そして、遠くで響く馬車の車輪の音。
平和な日常が音を立てて崩れていく音だった。
◇
放課後。
私とエミリアは、街へ出た。
街の様子は一変していた。
いつもなら夕食の買い出しで賑わう市場が、今日は殺気立っている。
人々は足早に行き交い、商人たちは店じまいを急いでいる。
「見て、あれ…」
エミリアが指差した先には、大量の物資を積んだ荷馬車が、列をなして東門へと向かっていく光景があった。
荷台には、食料や武器、そして大きな木箱がたくさん積まれている。あのマークはフラクタル鉱だ。
「東門って…国境の方角だよね?」
「うん」
私の喉が渇く。
国境。そこは四年前、父さんが死んだ場所だ。
「まさか…また戦争?」
誰かの呟きが聞こえた。
その言葉が、呪いのように私の心にへばりつく。
「おい、小娘」
セラフィが低い声で囁いた。彼女の表情からは、いつものおちゃらけた雰囲気が消えていた。
「空気が変わったぞ。ピリピリして、肌が痛い」
「うん…私も、怖い」
エミリアが私の手を握った。
その手も震えている。
「リーシャ…私、帰るね。家族に会いたい」
「うん。気をつけてね」
エミリアと別れて、私は家路を急いだ。
いつもの道が今日はやけに長く感じる。
人々の表情が暗い。
不安と恐怖が街全体を覆っている。
◇
家に着くと、母さんが玄関で待っていた。
「おかえりなさい、リーシャ」
いつもと同じ、穏やかな声。
でも、その目は違った。
鋭く、強い光を宿している。
「ただいま。母さん、街が…」
「ええ、知っているわ」
母さんは私を抱きしめた。その腕は、しっかりと力強い。
「国境で、ガルドラムとの戦闘が始まったそうよ」
世界がぐらりと揺れた気がした。
「戦闘…って、休戦協定はどうなったの?」
「破られたのよ」
母さんの声は、静かだが怒りを孕んでいた。
「あの国はそういう国。四年前もそうだった。約束など、紙切れにも劣る」
母さんが、私の肩を掴んだ。
「リーシャ、よく聞いて」
その目が、真っ直ぐ私を見つめている。
「これから、色々なことが起きるわ。怖いこと、辛いこと、たくさん」
「…うん」
「でも、あなたは強い子よ。私とギリクの娘だもの」
母さんが、微笑んだ。
悲しそうな微笑みじゃない。
誇らしげな、強い微笑みだった。
震えていない。
「母さん…は…怖くないの?」
「怖いわよ」
母さんが、私の頭を撫でた。
「でも、怖がっているだけじゃ何も変わらない。私たちにできることをするだけよ」
その言葉が胸に響いた。
母さんは強い。
本当に強い。
◇
その夜、私は自室の窓から、暗い東の空を見上げていた。
星は綺麗なのに、風がひどく冷たい。
「小娘」
セラフィが、私の肩に乗った。
彼女もまた、東の空を睨んでいる。
「風が騒いでおる。…嫌な匂いじゃ」
「…戦争、始まるのかな」
「もう始まっておる」
セラフィの声が、いつになく真剣だった。
「じゃが、顔を上げよ!おぬしは今日、あの銀髪男に勝った。その力は本物じゃ!」
「うん…」
「戦いが来れば、わしとおぬしの出番じゃ。おぬしは戦うために、わしと契約したのじゃろう?」
「うん」
「ならば恐れるな。今、なにができるか考えるのじゃ」
「うん、そうだね」
強がりでも、その言葉が嬉しかった。
私はペンダントを強く握りしめる。
(父さん。私、怖くないよ!…うそ、本当は怖い)
でも、逃げない。
聞こえるはずだ。生き残るための「音」が。
私は机に向かい、今日の模擬戦の反省点をノートに書き殴った。
ペンを走らせる音だけが、静かすぎる夜に響いていた。
遠くで、低く重い音がした気がした。
それは天候のせいなのか、それとも多数のシヴァルリィが進軍する足音なのか。
私にはまだ、聞き分けることができなかった。




