第51話「壁」
(Side:ルシア・アルトリーベ)
呼吸ができない。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、喉が痙攣して空気を吸い込めない。
街道の上、私とクラウディウスは背中合わせになり、八騎の黒い悪夢に包囲されていた。
敵は、攻めてこない。
いや、正確には「決定打」を打ってこない。
右から一撃。防げば左から一撃。
盾で弾けば、足元を狙われる。
飛び退けば、着地点に刃が置かれている。
休む暇がない。
思考を巡らせる隙間すらない。
ただ、反射と本能だけで防御を続ける。
これは、狩りだ。
獲物が疲れ果て、自ら倒れるのを待つ、残酷で効率的な狩り。
『くっ…息をつく暇も与えてくれないの!?』
私の悲鳴のような通信に、背後のクラウディウスが苦悶の声で答える。
『私の氷壁も、もう持たん…!フロスティアの力が…底をつく…!』
彼のヴェリアルが展開していた冷気の障壁が、ガラスのように砕け散る音が聞こえた。
限界だ。
精霊力も、私たちの精神力も。
その一瞬の隙――いや、限界による反応の遅れを、奴らは見逃さなかった。
黒い機体が一斉に動く。
まるで一つの意思で統率されたかのような、完璧な同時攻撃。
強烈な衝撃。
私の左腕、大盾を構えていた腕が、強引に弾き飛ばされる。
防御が崩された正面から、無慈悲な蹴りが機体の腹部に突き刺さる。
「あぐっ…!?」
視界が明滅する。
モニター越しに、クラウディウスの機体が大剣ごと弾き飛ばされ、地面に叩きつけられるのが見えた。
私の機体も、膝から崩れ落ちる。
立ち上がろうと力を込めるが、黒い影がのしかかり、私の機体を押さえつける。
動けない。
殺されはしない。ただ、完全に無力化された。
終わった。
私たちの敗北だ。
薄れる意識の中で、視界の端に何かが動くのが見えた。
瓦礫の陰。
風を纏った機体。
(リーシャ…ダメ、逃げて…!)
叫ぼうとしたが、声にならなかった。
◇
(Side:リーシャ・ヴァレンティア)
「…動く!動け!私!」
セラフィの声に、弾かれたようにペダルを踏み込んだ。
恐怖で凍りついていた身体が、熱い怒りで焼き尽くされる。
目の前で、ルシア先輩が、クラウディウスが、黒い塊に飲み込まれていく。
みんな、やられた。
レオンさんも、マルセル先輩も、エミリアも。
みんな、みんな!
「あぁぁぁぁぁッ!!」
喉が裂けそうなほどの絶叫が迸る。
思考なんてない。作戦なんてない。
ただ、あの真ん中に立っている奴を、あの白銀の機体を倒さなきゃいけない。
それだけが、今の私を動かす全てだった。
「よくも…よくもみんなをォォッ!!」
キーボタンを叩く指が残像になる。
セラフィ!全部頂戴!あんたの風を、全部!
「小娘!落ち着け!落ち着かんか!」
「イヤ!」
「…仕方ない。付き合うとするか」
ヴェリアルが咆哮を上げる。
風の精霊力が爆発的に膨れ上がり、私の機体を加速させる。
速い。
今までのどの瞬間よりも速い。
景色が線になって後ろへ流れていく。
敵の黒い機体たちが反応する素振りを見せるが、追いつけない。
私の速さは、奴らの認識を超えている!
いける。このまま、あの銀色の奴の懐に飛び込んで、コクピットを突き刺す!
白銀の機体は、棒立ちだった。
反応できていないんだ。私の速さにビビって動けないんだ!
「もらったァァァッ!!」
私は双剣を振り上げ、トップスピードのまま突っ込む。
あと十メートル、五メートル、ゼロ!
斬れる。
確信した瞬間。
銀色の機体が、「半歩」だけ踏み込んだ。
え?
避けるんじゃないの?
前に?
その僅かな動作だけで、私の剣の間合いが狂う。
切っ先が、敵の装甲を空しく掠める。
そして、私の勢いを利用するかのように、銀色の腕が振り抜かれた。
衝撃が遅れてやってくる。
世界が反転した。
私のヴェリアルの両腕が、宙を舞っているのがスローモーションで見える。
続いて、腹部に強烈な衝撃。
蹴り飛ばされたのだと気づいた時には、私は地面に叩きつけられていた。
土埃が舞い上がる。
モニターの半分がノイズで埋め尽くされる。
警報音がうるさい。
「あ…あ…」
何が起きたの?
私は、誰よりも速かったはず。
なのに、なんで倒れてるの?
たった半歩。たったそれだけの動きで、私の全てが否定された。
『速いな』
外部スピーカーから、男の声が降ってくる。
見上げると、白銀の悪魔が、太陽を背にして立っていた。
『だが、それだけだ。速さとは、ただ走ることではない。タイミングだ』
冷たい言葉が、胸に突き刺さる。
完敗。
手も足も出ないだなんて…。
◇
(Side:パイトネス少佐(ガルドラム王国 南部方面軍))
足元で無様に転がっている機体を見下ろす。
両腕をもぎ取り、主要な駆動系は破壊した。もう動けまい。
速かったが、歪な機体。
面白いおもちゃだが、戦場では隙だらけだ。
直線的な動きなど、軌道を読むのは赤子の手をひねるより容易い。
「オルベン氏への土産に、中身ごと回収するか」
私はヴォルフラムを操作し、倒れた敵機の胸部を踏みつけた。
金属が軋む音が心地よい。
このままコクピットハッチをこじ開け、中のミディを引きずり出す。
どんな顔で泣いているか見ものだ。
手がハッチに触れた、その時だった。
『パイトネス少佐。聞こえるか』
緊急回線。
グリュメル中将からの通信が入る。
「…聞こえています、閣下。現在、ミラボーの防衛戦力を完全制圧しました。これより街へ入ります」
『剣を収めろ、少佐。…停戦だ』
私は耳を疑った。
「…は?何を言っているのですか?敵の喉元に牙を突き立てているのですよ?あと一歩でミラボーは落ちます」
『アストラムが動いた』
中将の声は、苦々しくも冷静だった。
『奴らは、我が国の戦闘行為そのものを停めた。ノルドグラードとリュクスカイン、両方との「即時停戦」だ。これ以上戦闘を続ければ、我が国は協定違反となり、アストラム教そのものを敵に回すことになる』
「なんですって!?そんなバカな!そんなことが…」
『…少佐。気持ちはわかるが、これは事実だ。私自身が、断腸の思いであることを理解してほしいものだな』
舌打ちが漏れる。
あのアストラムの狸どもめ。最初からこのタイミングを狙っていたのか。
それとも…いや、こうなった経緯と理由がわからない。
そして、中将こそが、私よりも悔しいのだろう。その気持ちが痛いほどわかった。
「…わかりました。ですが、このパイロットは捕虜として連れ帰ります。オルベン氏への…」
『ならん。即時停戦だ。捕虜の連行も協定違反になる。手ぶらで戻れ』
「…」
私はキーボタンを叩きつけたい衝動を抑え込んだ。
軍人として、上官の命令は絶対だ。
政治が「止まれ」と言えば、たとえ喉に剣を突きさす寸前でも止めねばならない。
それが、我々の仕事であり責務だ。
「…了解しました。全軍、撤退します」
私は通信を切り、大きく息を吐いた。
興が削がれた。
踏みつけていた敵機から、足をどける。
外部スピーカーのスイッチを再び入れる。
足元の残骸の中で震えているであろう、学生たちに向けて。
『運が良かったな、学生諸君』
私は冷たく言い放つ。
『政治に感謝するんだな。…だが覚えておけ。次に私の前に立つ時は、その『おもちゃ』ではなく、軍人としての覚悟を持ってくることだ』
私は部下たちに合図を送った。
パンターブリッツたちが、整然と隊列を組み直す。
夕暮れが迫る空の下、我々は来た時と同じように、風のように去っていく。
振り返る必要はない。
そこにあるのは、破壊されたゴミと、敗北の味を知った子供たちだけだ。




