第47話「舞踏」
(Side:グリュメル中将(ガルドラム王国 南部方面軍司令官))
ヴォルフラムのコックピットの中で、私は深く息を吐き出した。
戦いが始まってから、もう丸一日が過ぎようとしている。
全周囲モニターに映し出される戦場の光景は、開戦時の整然としたそれとは程遠い。
踏み荒らされた大地は泥濘と化し、無数の装甲片が墓標のように散乱している。
我が軍の「波」は、確かに押し込んでいる。
だが、決定的な崩壊には至っていない。
薄氷の上を歩くような、ギリギリの均衡。
「…なかなかやるではないか」
私は、独りごちた。
本来なら、最初の数時間で飲み込んで終わる。
物量、性能、士気。どれをとっても我々が圧倒的だ。
それなのに、敵はまだそこにいる。
泥にまみれ、傷だらけになりながらも、楔のように食らいつき、我が軍の足を止めている。
外連味のない、良い用兵だ。
派手な一発逆転を狙うわけでもなく、個人の武勇に頼りすぎるわけでもない。
ただひたすらに、穴が開けば塞ぎ、崩れそうになれば支える。
地味だが、最も崩しにくい戦い方を知っている。
「混成の騎士団にしては意思が統一されている。これは指揮官の手腕だな。国境騎士団のジルナス男爵とやらではないな」
あの生真面目な門番に、これほどの柔軟な指揮は執れまい。
ならば、誰だ?
報告にあったミラボー騎士団の団長…ガリアードだったか。
彼か。
私はモニターの奥、敵陣の中心で奮戦する指揮官機――傷だらけのヴェリアルを見つめた。
あの機体が、この戦線の心臓だ。
あれを潰せば、この抵抗は終わる。
ヴォルフラムを出せば、今すぐにでも終わらせられるだろう。
だが。
「…ふん」
私は鼻を鳴らし、モニター上のデータを見る。
敵の疲労と損耗は限界に近い。
ミディたちの精神力も体力も摩耗しているはずだ。
あと一押しすれば崩れる。
だが、崩してしまっては意味がない。
彼らには、まだここで踊ってもらわねばならないのだ。
この国境というステージで、世界の終わりのような顔をして。
「…そろそろか」
私は通信回線を開いた。
マイクに向かって、あえて気怠げな声を乗せる。
「全軍に通達。ゆるゆると後退せよ」
前線の部隊から、戸惑いの気配が伝わってくるのがわかる。
『押せば勝てるのに』という殺気立った思考が、通信機越しに滲み出ている。
愚か者め。
「急ぐ必要はない。逆撃に警戒しつつ、波が引くように下がれ。あくまで『攻めあぐねた』ふりをしろ」
戦線を広げすぎるな。
敵を逃がすな。
生かさず殺さず、この場所に縛り付けろ。
我が軍が、重々しい足取りで後退を始めるのを見届ける。
敵は追ってこない。いや、追ってこれないはずだ。
今はそれでいい。
「…あまり簡単につぶれてもらっては困るのだよ」
私は持参したポットの紅茶を口に含んだ。
苦い味が、徹夜明けの脳に染みる。
さあ、休憩時間だ。
束の間の安息に感謝するがいい。
それが、次なる絶望へのスパイスになるのだから。
◇
(Side:ロルフ・ガリアード(ミラボー騎士団長))
肺が焼けるように熱い。
頭蓋骨の中で、脳みそが脈打つ音が聞こえる。
丸一日。
休憩なし、補給なし、交代なしの連続戦闘。
精神で機体を動かし続ける負担は、とっくに限界を超えている。
ヴェリアルのコクピットは、汗と熱気で蒸し風呂のようだ。
モニターの警告表示が、あちこちで赤く明滅している。
装甲の損耗率、関節駆動部の過負荷、精霊力伝達回路の焼き付き。
機体も、私も、ボロボロだ。
それでも、倒れるわけにはいかない。
目の前には、依然として黒い金属の壁が立ちはだかっている。
少しでも気を抜けば、あの質量に飲み込まれ、ミラボーごとすり潰される。
耐えろ。
耐えろ。
耐えろ。
呪文のように繰り返しながら、霞む視界でモニターで戦況を確認していた、その時だった。
「…あ?」
圧力が、消えた。
今まで全身にのしかかっていた鉛のような重圧が、ふっと軽くなる。
錯覚か?いや、違う。
モニターの中の敵影が、遠ざかっていく。
「…後退している、のか?」
ガルドラム軍が、ゆっくりと、しかし整然と後ろへ下がっていく。
なぜだ。
戦況はどう見ても奴らの優勢だ。
こちらの戦線はズタズタで、あと数回波状攻撃を受ければ決壊する。
なのに、なぜ引く?
「罠か…?」
誘い込まれているのか?
疲弊した我々を平原の中央におびき出し、包囲殲滅するつもりか?
『…違うな』
脳裏に、重々しい声が響く。
私の相棒、地の精霊『マグニス』だ。
彼もまた、この過酷な防衛戦で力を使い果たし、声には疲労の色が濃い。
『優勢だからであろう。余裕のある獣は、獲物を前にしても無理をする必要がない』
「…そうか…確かにそうだな」
私は乾いた笑いを漏らした。
悔しいが、マグニスの言う通りだ。
奴らにとって、我々はもはや「脅威」ですらない。
いつでも殺せる獲物。
だからこそ、リスクを冒してまで攻め急ぐ必要がないのだ。
整備をし、補給をし、万全の状態で再び踏み潰せばいいと考えているのだろう。
ふざけるな。
だが、その舐めた判断が、我々に命拾いさせたのも事実だ。
「全軍に通達!」
私は掠れた声でマイクに叫んだ。
「敵はゆっくり退こうとしている。追撃は絶対にするな!引きずり出されるな!踏みとどまれ!」
血気にはやったミディが飛び出さないよう、釘を刺す。
今、陣形を崩せば終わる。
「敵が退くのに合わせて、こちらも一時退くぞ!後方の補給部隊まで後退し、再編を行え!」
『良い判断だ、ロルフ。全体の損害も大きい。今のうちに態勢を立て直さねば、次の波で確実に砕かれる』
マグニスの言葉に頷きながら、私は機体をバックさせる。
キーを叩く指が震えているのがわかる。
緊張の糸が切れそうだ。
両軍の間に、ぽっかりと空白地帯ができた。
約一キロメートル。
戦場に、不気味な静寂が戻ってくる。
遠くで風が吹く音さえ聞こえるようだ。
私は補給部隊の陣まで後退し、部下たちに損害確認と補給を指示した。
整備士たちが駆け寄り、傷ついたシヴァルリィたちに群がる。
その光景を眺めながら、私は携行食のチューブを口に含んだ。
味なんてしない。ただのカロリーの塊だ。
「…マグニス。敵の狙いはなんだと思う?」
私は問いかけた。
この「休憩」の意味。
単なる余裕?兵站の都合?
『…消耗戦で長引かせ、こちらの戦力を確実に、すべて潰すつもりだろう。我らがいなくなれば、ミラボーは裸同然だ。時間をかければかけるほど、奴らの勝利は盤石になる』
「ああ、そうだな」
理屈は通る。
だが、何かが引っかかる。
「敵が時間をかけてくれるのは、こちらとしても願ったりかなったりだ。ミラボーから王都に救援要請はいっているだろうから、日数をかければかけるほど戦略的には有利になる」
そうだ。
時間は我々の味方のはずだ。
王都からの援軍が到着するまで。
耐えれば、勝てる。
「七日…いや、八日もたせればなんとかなるか…」
私は指折り数える。
長い。絶望的に長い時間だ。
だが、不可能ではない。この膠着状態が続くなら。
『待て、ロルフ』
マグニスの声が、低く鋭くなった。
『…敵もそれはわかっているのではないか?』
心臓を冷たい手で掴まれたような感覚。
私は動きを止めた。
「…」
そうだ。
相手は、あのガルドラムだ。
軍事国家の優秀な司令官が、そんな初歩的な計算を見落とすはずがない。
時間をかければ、リュクスカインの増援が来る。
そんなことは、子供でもわかる理屈だ。
ならば、なぜ?
なぜ奴らは急がない?
なぜ、我々と睨み合ったまま、無為に時間を浪費する?
まるで、増援など来ないことを知っているかのように。
あるいは、増援が来る前に「終わる」と確信しているかのように。
「…ここの戦線以外に、なにかあるのか?」
私の口から、無意識に言葉が漏れた。
背筋が凍る。
視線を南へ向ける。
そこには、我々が守るべきミラボーの空が広がっているはずだ。
今はまだ、青く澄んでいる。
だが、その青さが、急に不吉な色に見えてきた。
我々は、何か致命的な見落としをしているのではないか?
この目の前の大軍は、ただの「壁」に過ぎないのではないか?
だとしたら、本命はどこだ?
どこから来る?
答えは見つからない。
ただ、戦場の風だけが、空虚な音を立てて吹き抜けていった。
◇
(Side:パイトネス少佐(ガルドラム王国軍))
海風が心地よい。
私は甲板に立ち、水平線を眺めていた。
視界いっぱいに広がるのは、穏やかな蒼。
戦場の泥臭さも、金属が擦れる不快な音もない。
ただ、波の音だけが優しく響いている。
「壮観だな」
私は振り返り、自らが率いる「力」を見上げた。
洋上を進む、巨大な三隻の軍船。
商船に見せかけたその船体は、不自然なほど喫水線が深い。
無理もない。その腹の中には、極上の怪物が眠っているのだから。
パンターブリッツが八騎。
そして、白銀のヴォルフラムが一騎。
合計九騎。
数は少ない。
だが、この戦力だけで小国の一つくらいは更地にできるだろう。
オルベン氏が用意した「裏口」とやらは、実に快適だ。
私は懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
予定通りだ。
国境では、グリュメル閣下が、うまく飼い慣らしてくれているのだろう。
獲物は檻の中で、正面の敵に怯え、震えている。
背後の鍵が開いていることにも気づかずに。
「…頃合いだ。行くぞ」
私は短く告げた。
船がゆっくりと旋回し、断崖絶壁の合間にある、地図にはない入り江へと舳先を向けた。
さあ、パーティーの時間だ。
招待状は持っていないが、歓迎してくれるだろうか。
これから奏でる悲鳴の合唱で。




