第44話「前夜」
(Side:エリーゼ・ホッホベルク子爵)
ミラボーの市街地、その路地裏にへばりつくような場末の酒場。
紫煙と安酒の匂いが充満する店内の隅で、私はフードを目深にかぶり、グラスを傾けていた。
ここは私が密談でよく使う店だ。
誰にも正体を知られず、こっそりと情報を集めるためのお忍びスポット。
…の、つもりなんだけどね。
「…おい、あれホッホベルクの子爵様だよな?」
「シッ!見るな。後ろを見ろよ。あの侍女が目を光らせてるぞ」
「ヒィッ…目が合っただけで石になりそうだ。見なかったことにしよう、うん」
聞こえてるよ、君たち。
周囲の客たちは、ヒソヒソと噂しながらも、必死で私に気づかないふりをしている。
原因は私の背後に直立不動で控えている侍女、クララだ。彼女が氷点下の微笑を浮かべて周囲を牽制しているせいで、私の「お忍び」は公然の秘密となっていた。
あーあ、やりづらいったらありゃしない。ま、変なのが寄ってこないだけマシか。
カラン、とドアベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
日焼けした肌に、悪趣味なほど派手な金のネックレス。バルドール市のドミニクだ。
店の外には、彼の護衛たちがそれとなく周囲を警戒しているのが気配でわかる。やれやれ、大げさなこった。
ドミニクは私の向かいに座ると、ニヤリと笑った。
「…待ったか?」
「いや、今来たとこ」
「アルトリーベ方面で勝ったそうじゃねぇか」
「さすがに耳が早いね」
「そりゃあな。情報は商売の命だ。そうじゃなきゃやってられねぇよ」
ドミニクは店員にエールを注文しながら言った。
あの海鳴りの村で脅し…交渉した時の強気な態度はどこへやら。今はすっかり対等なビジネスパートナー気取りだ。まあ、現金な男の方が扱いやすくていいけどね。
「確かにね。それで今日は?」
「いや、まぁ、他の商売のついでではあるんだが…先日送った報告書読んだか?」
「ええ。エシュリスの経済力には驚いたよ。まさかここまでとはね」
彼から提供されたオルベン商会の内部資料。
目を通した時はめまいがしたわ。想像を絶する規模の資金と物資が、湯水のようにガルドラムへ流れている。
「まぁな、うち(バルドール)より、ちっとばかし大きいくらいだが…予想以上にガルドラムに金と人を突っ込んでやがった。こりゃあ、アルトリーベだけじゃ終わらねぇぞ?」
「…次が?」
私が眉をひそめると、ドミニクは声を潜めた。
「ああ。あるな。間違いなくある。ガルドラム南部方面軍の司令官、グリュメル中将はかなりの野心家だ。そして、戦上手でもある。そしてこの金の流れだ。ただじゃ終わるわけがねぇ」
「そうか…」
やっぱり、そう思うよね。
今のところ敵の動きは完全に止まっている。不気味なほどに。
この静けさが、逆に嵐の前触れみたいで嫌な感じがするんだ。
「そして、こいつはサービスなんだが…」
ドミニクが四つ折りにした紙片を、テーブルの上を滑らせて私の前に置いた。
なんだろう、まだ隠し玉があるの?
私はそれを開き、中身を一読する。
――は?
思考が一瞬停止した。
嘘でしょ?
「…なんだって!?」
「驚くよな」
「アストラムが、ガルドラムとノルドグラードの停戦調停…」
口に出しても、まだ信じられない。
ガルドラムとノルドグラード連合。泥沼の戦争を続けている両国の仲介に、あのアストラム聖教国が動いている?
「まだ動き始めたばかりのようだが、確かな筋からの情報だ」
「しかしあの国は…」
私は首を横に振った。
「アストラムは、ガルドラムのエメルの扱い方を認めていない。というより、精霊信仰の総本山としちゃ認められるわけがない。是正勧告を何度も出しているくらいだ」
ガルドラムにおいて、精霊はパートナーじゃない。
ただシヴァルリィを動かすための『道具』であり、消耗品だ。精霊の自由意志など認めず、強制的に従わせる彼らのやり方は、アストラムの教義とは水と油。
「もしかするとノルドグラード連合からの依頼なのかも…あの国もいろいろ面倒な国だからね」
「そうかもな。どっちにしろ、ガルドラムとノルドグラードの戦争が停戦ともなれば、ガルドラムの余った戦力はどこへ向くと思う?」
「…南、リュクスカインか」
背筋が寒くなった。
今は北と東に戦力を割いているから、南への攻勢が緩んでいるだけ。もし北が片付いたら?
「影響は間違いなく出てくる。想定だけはしておいた方がいいだろうな」
ドミニクはエールを一気に飲み干し、席を立った。
まったく、とんでもない「ついで」を持ってきてくれたものだ。
「…感謝する」
「いいってことよ。それじゃあな」
「あ、関税の話はいいのかい?」
「まだ、なにも終わっちゃいねぇよ。…全部終わってから、たっぷり請求させてもらうさ」
ドミニクは片手を上げて店を出て行った。
残された私は、手元の紙片を見つめる。
世界が、きな臭い方向へ動き出している。
でも、まだ猶予はあるはずだ。停戦なんてすぐにまとまる話じゃない。
そう自分に言い聞かせ、私は残った酒を煽った。
ああ、まずい。
◇
(Side:リーシャ・ヴァレンティア)
学院長、ミラボー伯爵夫人、そして騎士団のガリアード団長への帰還報告。
長かった挨拶回りがようやく終わった。
解放された!自由だ!
「終わったー!帰るよセラフィ!」
「ぬわっ!?待つのだ!」
私はセラフィが頭にしがみつくのも構わず、全力で走り出した。
風を切ってミラボーの街を駆け抜ける。
石畳の感触、市場の喧騒、全部が懐かしい。
でも、一番恋しいのはやっぱりあそこ!
目指すは我が家、ヴァレンティア工房!
「母さんただいまー!」
勢いよく工房の扉を開けると、いつもの匂いが出迎えてくれた。
ああ、これだ。落ち着くぅ。
「おかえり」
奥から母さんの声がする。
私は声のする方へ、早足で向かった。この声の響き方はダイニングだね。お茶でも飲んでるのかな?
…って、あれ?
今、小声でだけど、もう一人の声が聞こえたような…。
あ!そっか!
私はダイニングのドアを開け放った。
「ただいま!母さん!セリアさん!」
そこには、いつものエプロン姿の母さんと、きちっとした侍女服に身を包んだ女性――セリアさんが並んで微笑んでいた。
「おかえりなさい、リーシャ」
「おかえりなさいませ、リーシャ様」
セリアさんだ!
私は興奮しながら席に着くと、王都で別れてからの出来事を二人に話し始めた。
アルトリーベでの戦い、湿地帯での鬼ごっこ、そして勝利の凱旋!
母さんは楽しそうに、うんうんって私の冒険譚に耳を傾けてくれる。
セリアさんも、魔法みたいな手際でお茶とお菓子を出しながら、興味深そうに相槌を打ってくれた。
「セリアさんも座ってくださいよ!一緒にお話ししましょう!」
「いえ、私は侍女ですので」
「いいじゃないですか!ここは王都のお屋敷じゃないんですから!家族会議みたいなものです!」
私が何度も勧めて、母さんも「そうして頂戴、私の娘は頑固だから」なんて笑うと、セリアさんは困ったように、でも嬉しそうに椅子に腰を下ろした。
「…では、お言葉に甘えて」
三人で囲むティータイム。
穏やかな時間が流れる。戦場の泥臭さとか、命のやり取りなんて、遠い世界の出来事みたいだ。
「リーシャ様、セラフィ様。改めまして」
話が一区切りついたところで、セリアさんが背筋を伸ばした。
「この度、ベアトリス様のご厚意により、こちらで生活させていただくことになりました。至らぬ身ですが、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げるセリアさん。
私はぱっと笑顔になった。
「うん!よろしくね!セリアさん!私の方こそ、いろいろ教えてください!掃除とか料理とか、あと…あ、礼儀作法はほどほどで!」
「おう!小娘!これじゃこれ!おぬしもわしに『様』をつけんか!セラフィ様と!」
「えー、今さらやだよ」
「なんじゃと!?だいたいおぬしは、わしに対する敬意がたらんのじゃ!もっと敬わんか!」
「御免被る」
「…なんじゃ、その言葉は…。最近、賢しくなってきたのう」
「大人になってきたって言って!」
自分で言っておきながら笑ってしまった。
その私の笑顔を、セリアさんはどこか眩しそうに、そして好ましく見つめて微笑んだ。
工房に、新しい家族が増えた。
母さんがいて、セリアさんがいて、セラフィがいて。
この温かい日常が、ずっと続けばいいのに。
私は心からそう思った。
◇
(Side:ピアナ・オルレイス(アストラム聖教国シスター))
聖都アストラム、大聖堂。
荘厳な回廊を、私は早足で歩いていた。
「呼び出されるようなこと、なんかしたかなぁ…」
私は脳内にある膨大な記憶の引き出しをひっくり返す。
厨房からのつまみ食い?お祈りの最中の居眠り?いや、どれも証拠は残してないはず。完全犯罪だったはずよ。
私の名前はピアナ・オルレイス。
薄桃色の髪に、アメジスト色の瞳。
シスター服ってば、ただでさえ体のラインが出やすいのに、私のこの…なんというか、発育の良すぎる身体を包むと、いろいろと強調されちゃうのよね。
行く先々で男たちの視線がベタベタと張り付くのが、本当に鬱陶しい。
まあ、力ずくでこようとする不届き者は、全員私が返り討ちにしてあげたけど。
私の特技は、相手の力を利用してふんわりと空を舞っていただく体術。
腕を掴んできた男が、次の瞬間には天井を見上げてる時のあのキョトンとした顔、結構好きなのよね。
そんな私が呼び出されたのは、教団で最も恐れられている場所。
異端審問局長、カシウス様の執務室だ。
重厚な扉を開け、中に入る。
カシウス様は、書類から顔も上げずに開口一番こう言った。
「アリス・ロッシェを知っているな」
「あ、はい」
私は即答した。
私の脳内データベースが、瞬時にその名前を検索し、関連情報を引き出す。
アリス・ロッシェ。かつて「聖女」と呼ばれ、最重要聖遺物を持ち出して行方をくらませた伝説のミディ。エメルは風のヴィルト。
私には、特技がある。
一度見聞きしたことは決して忘れない「完全記憶」と、断片的な情報から真実を導き出す「推論」の力だ。
つまり、人探しやモノ探しにおいて、私の右に出る者はいないってこと。
「アリスがリュクスカインに潜伏している可能性がある。反応があった方角的に、王都ヴェラムか、東のミラボーだ」
カシウス様が鋭い視線を私に向けた。
「探し出して報告するのだ。ただし、内密にだ。誰にも知られてはならん。いいな」
「教皇猊下にもですか?」
「当たり前だ。…これは異端審問局独自の極秘任務である。すぐに出立したまえ」
「捕まえなくてもよろしいのですか?」
「それは他の者に任せる。君は『目』となればいい。探し出すだけでいいのだ」
「わかりました」
私は恭しく一礼し、執務室を退出した。
回廊に出た瞬間、私の口元が自然と緩む。
やった!お説教じゃなかった!
しかも、外に出られる!任務という名の旅行よ!
「アリス・ロッシェかぁ…。一度会ってみたかったんだよなぁ。すっごい美人だって聞くし。楽しみ!」
私は弾む足取りで回廊を駆けていく。
伝説の聖女に会えるかもしれない。しかも極秘任務だなんて、ワクワクするに決まってるじゃない!




