第41話「再会」
(Side:ルシア・アルトリーベ)
領主館の執務室は、重苦しい空気に支配されていた。
飛び交うのは悲鳴にも似た戦況報告と、焦燥に駆られた幕僚たちの怒号。
私は窓際に立ち尽くし、ただ己の無力さを噛み締めていた。
北ではマルセルが頑張り、南ではクラウディウスが奮戦している。
けれど、戦線は膠着し、じりじりと後退しつつあった。
このままでは、いずれどこかが決壊する。
「…ん?」
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
どんよりとした曇り空の下、東の方角――これまで動きのなかった湿地帯のあたりが、白く霞んでいる。
最初は雨かと思った。だが、違う。
「…霧?」
私の呟きに、近くにいた幕僚の一人が顔を上げた。
「ルシア様、何か?」
「あれを、見てください」
私が指差した先を見て、幕僚が息を呑む。
白い塊は、見る見るうちに膨れ上がっていた。
自然発生した霧には見えない。まるで巨大な生き物が大地を飲み込むかのように、不自然なほどの速度で、そして幾何学的な円を描いて広がっていく。
「なんだ、あれは…!」
「おい!東部監視哨!あの白いものはなんだ!」
執務室が騒然となる。
通信士が必死に呼びかけるが、答えは要領を得ない。
『わ、分かりません!突然発生しました!』
「敵の新兵器か!?」
「毒かもしれないぞ!風向きはどうだ!」
大人たちが狼狽える中、一人の将校が青ざめた顔で叫んだ。
「閣下!そういえば数日前、第七小隊に配属されたロシュフォール家のご子息から意見具申がありました!」
「なんだと?」
父、アルトリーベ侯爵が振り返る。
「『北部、南部とも陽動の可能性あり。湿地帯からの奇襲を警戒されたし』との内容です!当時は戦力不足で偵察を出せませんでしたが…まさか!」
室内が凍りつく。
マルセルの読みは、学生離れしたものがある。彼が警告していたのなら、あそこには間違いなく敵の「本命」が潜んでいたのだ。
「馬鹿な…湿地帯を抜ける部隊など…いや、あの霧が目隠しだとしたら!?」
「くそっ、手遅れか!スタルマーの側面を突かれるぞ!」
パニックが司令部を支配する。
未知の霧と、不吉な警鐘。それが合わさり、最悪の想像を掻き立てている。
だが。
私は、その白さに見覚えがあった。
あれは、ただの霧じゃない。もっと濃密で、瑞々しくて…。
どこか頭を刺激する記憶。
学院が襲撃されたあの日。私の視界を奪い、そして救ってくれた、あの霧。
「…いいえ」
心臓が跳ねる。
あり得ない。彼女たちはまだ王都にいるのではないの!?
でも、この規格外の現象を引き起こせる存在を、私は一人しか知らない。
「エミリア…なの?」
私の呟きは、喧騒の中でも父の耳に届いたらしい。
父が鋭い視線を向けてきた。
「ルシア。今、なんと言った?」
「あ…」
周囲の視線が一斉に私に集まる。
私はゴクリと喉を鳴らし、それでもはっきりと告げた。
「あの霧…心当たりがあります。もしかしたら、王都で一緒に叙勲を受けた学院生、エミリア・ノーヴェの精霊の力かもしれません」
「なんだと?」
幕僚たちが顔を見合わせる。
「馬鹿な!精霊が、これほど広範囲に天候を操作するなど…」
「ロシュフォールの読みでは敵の奇襲だぞ!?それが味方の援軍だと言うのか!?」
否定の声が上がる。当然だ。マルセルの具申と、私の希望的観測。軍事的には前者を取るのが常識だ。
だが、その時だった。
ドクン。
私の胸の奥、いや、精神の深い場所で、熱い脈動が走った。
ずっと沈黙を守っていた私の相棒。
地下のヴェリアルに眠る炎の精霊、イグニス。
彼が、目覚めた。
(…熱い)
イグニスが、猛烈な勢いで何かを訴えかけてくる。
言葉ではない。衝動だ。
『行け』と。『あそこに同胞がいる』と。
まるで、待ち焦がれた友を見つけた子供のように、あるいは獲物を見つけた猛獣のように、魂が震えている。
――間違いない。あそこに、彼女たちがいる。
その時、通信士が叫んだ。
「南部戦線の近衛騎士団より入電!スターク部隊長からです!『湿地帯付近に正体不明の霧が発生しているが、貴軍の作戦か?』とのことです!」
「近衛も感知したか…!」
父が呻く。
これはもう、放置できる事態ではない。マルセルの言う敵の奇襲か、私の言う味方の援軍か。どちらにせよ、あの霧の中心には戦局を左右する何かがある。
私は一歩、父の前へ進み出た。
「お父様!いえ、閣下!」
父が私を見る。その目は厳しい。
「確認に向かわせてください!私が行きます!」
「ならんと言ったはずだ。ロシュフォールの読みが正しければ、そこは危地だぞ!」
「事態は変わりました!」
私は父の言葉を遮った。不敬かもしれない。だが、今は引けない。
体の中のイグニスが、今すぐ飛び出そうと暴れているのだ。
「あれが敵なら、スタルマーは終わりです。ですが、もし私の推測通りなら…あれは援軍です!確認できるのは、彼女を知る私だけです!」
「危険すぎる。不確定な希望に縋るなど…」
「イグニスが!」
私は胸に手を当てて叫んだ。
「私の精霊が、呼んでいるのです!『行け』と!彼がこれほど反応するのは初めてです。あそこには間違いなく、彼と同質の…力を持つ何かがいます!」
父が息を呑む。
周囲の幕僚たちも、私の気迫に圧されていた。
今の私は、ただの娘ではない。精霊の声を聞く、一人のミディとしてここに立っている。
長い沈黙の後、父は深く息を吐き出した。
その顔から、父親としての迷いが消え、指揮官としての決断が浮かぶ。
「…ロシュフォールの懸念と、お前の直感。どちらが出るにせよ、確認は必要か」
「閣下…」
「行け、ルシア。ただし、単独行動は許さん。護衛として第一小隊のヴェルドル三騎をつける。決して無茶はするな」
「はい!ありがとうございます!」
私は最敬礼し、踵を返した。
背後で、「あたら貴重な戦力を…」という懸念の声が聞こえたが、無視した。
今の私には確信がある。
マルセルの読み通り、そこに敵はいたのかもしれない。
だが、それ以上に強烈な「彼女たち」が、そこに来たのだ。
◇
地下格納庫。
私が駆け込むと、紅のヴェリアルは既に起動準備を終えているかのように、微かに律動していた。
整備員たちが驚いて飛び退く中、私はタラップを駆け上がり、コックピットに滑り込む。
「待たせたわね、イグニス!」
シートに座った瞬間、爆発的な熱量が全身を駆け巡った。
いつもなら調整が必要な同調が、今日は一瞬で完了する。
イグニスもまた、はやる気持ちを抑えきれないのだ。
「出るわよ!」
私は自らの足で、ヴェリアルを地上へと駆け上がらせた。
地上に出ると、護衛のヴェルドル三騎が待機していた。
『ルシア様、護衛を務めます!しかし、報告にあった予測危険地帯へ入るのは…』
「大丈夫です。私についてきてください」
私は速度を緩めず、湿地帯の方角へと機体を走らせた。
スタルマーの市街地を抜け、荒野へ。
遠くに見える白い壁のような霧は、さっきよりも薄くなっている気がする。
心臓が高鳴る。
会いたい。
無事を確認したい。
そして、共に戦いたい。
この数日、鳥籠の中で腐りかけていた私の魂が、急速に色を取り戻していくのを感じる。
その時、全軍共通の通信が入った。
『総員に通達!ガルドラム軍に動きあり!』
緊迫した声。やはり、マルセルの言った通り総攻撃か?
私は身構える。
『て、敵軍、全戦線にて後退を開始!繰り返す、敵軍撤退!』
「え?」
撤退?なぜ?
まだ戦力は残っているはずだ。こちらの防衛線も限界に近い。湿地帯からの奇襲が成功すれば、押し切れるはずなのに。
私は思念を強め、さらに加速した。
第一小隊からの制止の声が聞こえたが無視した。
霧が晴れていく。
湿地帯の入り口が見えてくる。
そこで私が目にしたものは――想像を絶する光景だった。
「な…に、これ…」
思わず、ヴェリアルの足を止めた。
後ろに続いた護衛の騎士たちも、絶句している気配がする。
そこには、ガルドラム軍の精鋭、パンターブリッツが転がっていた。
一機や二機ではない。合計四機…。
それも、ただ倒されているのではない。
あるものは地面に突き刺さり、あるものは木々の枝に引っかかり、あるものは互いに折り重なっている。
まるで、巨人が積み木遊びに飽きて、放り投げたかのような惨状。
「ぐちゃぐちゃじゃない…」
装甲はひしゃげ、関節はありえない方向に曲がっている。
剣で斬られた跡はない。ただ、圧倒的な暴力で「ぶん投げられた」としか思えない痕跡。
数トンのシヴァルリィがこれほど派手に散乱するなど、見たことがない。
「いったい、どんな怪物が暴れればこんなことに…」
戦慄が走る。
マルセルの懸念は正しかった。敵の精鋭はここにいたのだ。
だが、その精鋭を、ゴミ屑のように蹴散らした「何か」がいる。
もしこれが制御不能な力だとしたら、ガルドラムより危険かもしれない。
私は剣の柄に手をかけ盾を構えて、慎重に周囲を索敵する。
その時だった。
ひしゃげたパンターブリッツの逆の方角から、のんびりとした一団がやってきた。
小型の輸送車両。エキュイエ。
その周囲を青い機体――近衛騎士団のヴェリアルたちが、まるでパレードの護衛のように囲んで進んでくる。
そして、エキュイエの大きな運転席には、待ち望んでいた二人の姿が見えた。
片方は手を振り、もう片方は…なぜか万歳をしている?
『あ!ルシアせんぱーい!』
能天気な声が、通信から飛び込んできた。
聞き間違えるはずもない。
あの、気の抜けるような、それでいて太陽のように明るい声。
「…リーシャ?」
『お迎えありがとうございますー!道に迷っちゃって大変だったんですよー!』
続いて、別の声。
『ルシア先輩!元気でしたか!?すごい霧だったでしょ?私とプルルでやったの!』
エミリアの声だ。
私は呆然と、その光景を見つめた。
散乱する敵の残骸。
逃げ帰る敵軍。
そして、ピクニックから帰ってきたかのような彼女たち。
力が抜けた。
張り詰めていた緊張も、悲壮な決意も、すべてがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「…ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
勝てない。
マルセルの緻密な読みも、私の悲壮な覚悟も、彼女たちの前では形無しだ。
「…まったく、あなたたちって子は…!」
私は涙が滲むのを拭いもせず、ヴェリアルを走らせた。
怒鳴りつけたいような、抱きしめたいような、ぐちゃぐちゃな感情を抱えて。
エキュイエの運転席で、リーシャが立ち上がり、頭をぶつけている。それにもめげず、頭を抑えながら手を振っていた。
まるで、「ただいま」と言うように。
鳥籠の扉は、とっくに壊されていたのだ。
彼女たちの、デタラメな強さによって。
私は通信をオープンにするとと、精一杯の威厳と、隠しきれない喜びを込めて叫んだ。
「遅いですわよ!あなたたち!」
私のヴェリアルの中で、イグニスが楽しそうに炎を揺らした気がした。




