第38話「泥濘」
(Side:リヴェノ大佐(ガルドラム王国軍 中央湿地帯侵攻部隊指揮官))
湿った腐葉土の臭いが、密閉されたコックピットのフィルターを通り抜けて鼻腔にまとわりつく。
視界の全てを覆うのは、鬱蒼と茂る原生林の緑と、底なし沼のような黒い泥。
リュクスカイン王国、アルトリーベ侯爵領、ナーンデルの森、中央湿地帯。
人が踏み入ることを拒絶し、数多の冒険者を飲み込んできたこの魔境を、私が率いる精鋭部隊は、音もなく進軍していた。
私のパンターブリッツの洗練された積層装甲は、枝葉を掻き分け、泥を跳ね上げながら突き進む。
足場は最悪だ。一歩踏み出すたびに膝まで泥に没し、機体の重量がさらに沈下を招く。
だが、この機体の出力ならば問題はない。
(進め。泥を切り裂き、前へ)
私が脳内で強く念じると、我が手足のように反応し、ぬかるみを踏破していく。
私は思念で機体の「前進」と「バランス維持」を命じ続けながら、両手の指を高速で走らせ、接地圧の分散制御、泥の粘度計算、そして精霊力伝達回路の同調率調整を行う。
この神業的な並列処理こそが、泥沼での高速機動を可能にするのだ。
「…また始まったか」
外部集音センサーが、遠くから響く微かな振動を拾った。
左右、遥か彼方にある旧街道の方角だ。
断続的な破砕音と、大気が震えるような精霊光の輝きが、木々の隙間から僅かに漏れてくる。
プラキスとネカルダの部隊が、派手に暴れ始めたようだ。
あの猪武者どもめ。自分たちが主役だと信じ込んで、嬉々として突撃している姿が目に浮かぶ。
奴らは知る由もないだろう。自分たちが、我々を通すための「派手な囮」に過ぎないことを。
だが、それでいい。
奴らが騒げば騒ぐほど、アルトリーベの守備隊は両翼に引きつけられる。
現に、先行偵察の情報によれば、敵の戦力の大半が南北の防衛に回ったとのことだ。中には、学生風情の未熟なミディまで動員されているらしい。
「馬鹿な連中だ。陽動に釣られて主力を前に出しおって」
私は口元を歪め、嘲笑を漏らした。
リュクスカインの貴族どもは、正面からの正々堂々とした戦いがお好きなようだ。騎士道精神?名誉?笑わせる。
勝てば官軍、負ければ賊軍。それが戦争の真理だ。
まさか、天然の要害であるこの湿地帯を、パンターブリッツのみで構成された部隊が抜けてくるとは夢にも思っていないのだろう。
がら空きの腹。
そこを食い破るのが、我々「本命」の役目だ。
この作戦が成功すれば、アルトリーベの領都スタルマーは一夜にして陥落する。
そして私は、この作戦の英雄として、中央のエリートどもを見返すことができる。長年、泥水をすすってきた私の軍歴に、ようやく光が当たるのだ。
(もう少しだ。このエリアを抜ければ、アルトリーベ本城までは平坦な道が続く)
勝利は確約されている。
功績に飢えていた私の心に、暗い歓喜の炎が灯る。
我々がこの湿地を抜けた時が、アルトリーベの最期だ。
その時だった。
「…ん?」
全周囲モニターの端が、白く滲んだ。
私はキーを操作し、視界クリアの補正をおこなった。
だが、白濁は消えない。
それどころか、まるで白ペンキを垂らしたように急速に広がり、視界全体を侵食し始めた。
「霧…?」
ただの霧ではない。
乳白色の、ねっとりとした濃密な霧が、生き物のように木々の間から湧き出し、またたく間に世界を白く塗り潰していく。
「隊長!視界不良です!隣の機体が見えません!」
「おい、サーモセンサーが効かないぞ!どうなってる!」
部下たちからの通信が飛び交う。その声には、隠しきれない動揺が混じっていた。
精鋭である彼らが、たかが霧ごときで取り乱すなどありえない。
「狼狽えるな!湿地帯だ、霧くらい出る!」
私はマイクに向かって叱咤しながら、感知している周囲のデータを確認した。
…おかしい。
今の気温と湿度、風向からして、これほどの濃霧が発生する条件ではない。
それに、この霧の濃度は異常だ。
(なんだ、この霧は?)
私はセンサーの感度を最大まで上げるよう、キーボードを叩いた。
だが、モニターに映るのは、ノイズ混じりの白い闇だけ。
精霊波の探知レーダーも乱れている。まるで、この空間そのものが我々を拒絶し、閉じ込めようとしているかのようだ。
「…不気味な」
背筋に、冷たいものが走った。
さっきまでの勝利の確信が、急速に冷えていくのを感じた。
コックピット内の気温は変わっていないはずなのに、肌に張り付くような寒気を感じる。
静かだ。
あれほど聞こえていた遠くの戦闘音すら、この霧に吸い込まれて消えてしまったようだ。
聞こえるのは、自分の機体の共鳴音と、湿った土を踏みしめる音だけ。
世界から切り離されたような、絶対的な孤独感。
いや。
違う。
孤独ではない。
何かが、いる。
モニターには何も映っていない。
精霊反応もない。
だが、戦場を生き抜いてきた私の直感が、激しい警鐘を鳴らしている。
この白い闇の向こうで、何かが我々を見ている。
(…馬鹿な。敵の主力は両翼にいるはずだ。ここにいるのは、せいぜい迷い込んだ野生動物か、はぐれ部隊程度…)
そう自分に言い聞かせようとした。
だが、まとわりつくような湿気が、恐怖となってじわじわと心を侵食していく。
我々は、狩りに来たつもりだった。
無防備な獲物の喉笛を、闇に紛れて喰いちぎりに来たはずだった。
なのに、なぜだ。
なぜ、自分が「狩られる側」になったような寒気がするのだ。
私はキーの上に置いた指を震わせながら、モニターに映る見えない白闇の奥を睨みつけた。
白い霧の奥から、何かがこちらを獰猛な笑みで伺ってるような気がした。




