第37話「純真」
(Side:クラウディウス・エルデンベルク)
ナーンデルの森、南部戦線。
湿った風が、巨木の間を縫うように吹き抜ける。
コックピットの中は、外気とは裏腹に、張り詰めた冷気に満たされていた。
それは空調によるものではない。私の傍らに漂う、美しくも冷たい存在が発するものだ。
氷の精霊、フロスティア。
ダイヤモンドダストのように輝く粒子を纏った彼女が、私の肩越しにモニターを見つめている。
『…来る、クラウディウス。多数の熱源』
鈴を転がすような、しかし感情の希薄な声が響く。
「ああ、分かっている」
私は自身の心臓が早鐘を打つのを感じていた。
これが戦場。父上が「野蛮」と切り捨て、忌避し続けた場所。
だが、私にはここが、王城の舞踏会よりも遥かに神聖な場所に思えた。
『クラウディウス様、下がりすぎです!隊列から離れないでください!』
『右翼、敵影あり!我々が守ります、ご安心を!』
通信機から響くのは、第四小隊の騎士たちの声だ。
彼らはベテランだ。そして、その多くは平民上がりや下級貴族の出身である。
彼らは私を「エルデンベルク伯爵家の御曹司」として扱い、腫れ物に触るように守ろうとしてくれている。
「…違う」
私は唇を噛み締めた。
彼らに悪気はない。それが軍としての規律であり、彼らなりの忠義なのだろう。
だが、その過保護な壁は、私の誇りを傷つける刃だ。
――高貴なる者の義務。
力ある者は、力なき者を守らねばならない。
高い地位にある者は、その身を挺して民の盾とならねばならない。
それが貴族の血を引く者の務めだ。それが、私が信じる正義だ。
なのに、今の私はどうだ?
守られるべき民たちに囲まれ、彼らを盾にして安全圏にいる。
これでは、口先だけで平和を説き、安全な場所で利権を貪る父上と同じではないか!
『敵、来ます!パンター三騎!散開して迎撃ッ!』
前方の茂みが割れ、敵の先鋒が躍り出た。
瞬時に反応した第四小隊のヴェルドルが、私の前に壁を作るように展開する。
『クラウディウス様はそのまま待機を!ここは我々が――』
「退け」
私は無意識に呟き、フットペダルを限界まで踏み込み、意思をヴェリアルに叩き込んだ。
背中にかかる強烈なG。
私の機体は、味方のヴェルドルを強引に追い抜き、敵の真っ只中へと躍り出た。
『なっ!?クラウディウス様!?』
「君たちが戦場に散る必要はない。それは、力ある我々の役目だ」
通信の向こうで騎士たちが息を呑むのが分かった。
私は背部マウントから、身の丈ほどある大剣を抜き放つ。
重い。だが、この重みこそが責任の重さだ。
目の前に、敵のパンターが迫る。
大斧を振りかぶり、私の頭上へと殺到する一撃。
怖い。身体が竦みそうになる。私は初陣の、ただの学生なのだから。
だが、それ以上の熱が、腹の底から湧き上がる。
――あの方が見ている。
脳裏に浮かぶのは、清廉なるオーレリア女王陛下の御姿。
あの方の御心に報いるために。あの方の憂いを断ち切るために。
私は、剣となる。
「フロスティア」
『ええ。…世界を止めてあげる』
フロスティアが輝きを増し、絶対零度の冷気がコックピットを満たす。
私の思考から、恐怖や迷いといった雑音が凍りついて剥がれ落ちていく。
視界が急速にクリアになり、周囲の時間が泥のように重く、遅くなる。
聞こえるのは、自分の心臓が刻む、冷徹なリズムだけ。
――静寂。
敵の斧が振り下ろされる。
スローモーションのように迫る刃。
私は回避しない。
ヴェリアルの左肩、最も装甲の厚い部分を突き出し、強引に距離を縮め受け止める。
凄まじい衝撃がコクピットを揺さぶり、警告灯が赤く明滅する。
だが、耐えた。
私のヴェリアルは、フロスティアの力で装甲表面に氷の被膜を展開している。衝撃は拡散され、致命傷には至らない。
「…そこだ」
敵の動きが止まった一瞬。
私は大剣を横薙ぎに振るった。
技術などない。ただ、ヴェリアルの性能を剣に乗せ、力任せに叩きつける。
重い手応えと共に、敵機の胴体がひしゃげ、千切れ飛んだ。
断面から火花の噴き出し、森の闇を照らす。
汚い。
だが、これで一匹、あの方の敵が消えた。
「一匹」
私は次なる敵へと向き直る。
二機目の敵が、剣を突き出してくる。速い。ベテランの動きだ。
まともにやり合えば、経験不足の私は翻弄されるだろう。
だから、受ける。
私はあえて機体を晒し、急所を外した箇所で敵の剣を受けた。
装甲が削れ、金属が悲鳴を上げる。
だが、肉を切らせて骨を断つ。
敵の剣が食い込んだその距離は、私の大剣の間合いだ。
「貴様らが!この国にいること自体が!」
絶叫と共に、大剣を上段から叩きつける。
敵機が盾を掲げるが、ヴェリアルの力と大剣の質量は、盾ごと敵の腕を粉砕した。
そのまま踏み込み、無防備になった頭部を兜割りにする。
塊が潰れる不快な感触が掌に伝わる。敵機が沈黙する。
「二匹」
荒い息を吐きながら、私は周囲を見渡す。
味方の騎士たちが、呆然とこちらを見ているのが分かった。
彼らは動けないのではない。私が前に出過ぎて、射線に入れないのだ。
それでいい。
君たちはそこで見ていればいい。血と泥にまみれるのは、私一人で十分だ。
それが、上に立つ者の務めだ。
その時、森の奥から新たな殺気が膨れ上がった。
今までの有象無象とは違う、鋭く、重いプレッシャー。
「…来たか」
木々をなぎ倒し、現れたのは存在感のある影。
パンターブリッツ。
その黒い体には、返り血のように赤い塗装が施されている。
敵機は両手に双剣を持ち、獣のような唸りを上げて突っ込んできた。
速い。
フロスティアによる知覚加速をもってしても、その動きは疾風のようだ。
しかし、この速さを私は知っている。学院での屈辱が蘇る。
『速い…けど、直線的よ』
フロスティアが囁く。
そうだ。私には引けない理由がある。
ここを通せば、後ろにいる騎士たちが死ぬ。
そして何より、この程度で後れを取るようでは、父上に――あの男に、言葉で負けることになる。
『力など野蛮だ』
父の声が聞こえた気がした。
「黙れッ!」
私は叫びと共に、防御を捨てて踏み込んだ。
敵の双剣が迫る。
私はヴェリアルとフロスティアの力を、前面の装甲に集中させる。
防御ではない。突撃だ。
身体ごとぶつかるようなタックル。
双剣が装甲を切り裂く不快な音と、両機が激突する重い衝撃が全身を襲う。
コックピットの中で、私は血の味を感じた。舌を噛んだか。
だが、私のヴェリアルの質量が勝った。
ブリッツが、衝撃で体勢を崩し、たたらを踏む。
その一瞬の隙。
私の視界には、敵機のコックピットしか映っていなかった。
「女王陛下の御為にッ!」
渾身の力で、大剣を突き出す。
切るのではない。巨大な鉄の杭を打ち込むような刺突。
大剣の切っ先が、ブリッツの胸部装甲を貫き、背中へと突き抜けた。
敵機が痙攣し、激しく火花を散らす。
私はさらに前進の思念を込め、敵機を串刺しにしたまま巨木へと叩きつけた。
勝負あった。
誰の目にも明らかだった。
敵の光は消えている。
だが、私の中で燻る熱は、収まるどころか冷徹な狂気へと変貌していた。
まだだ。
まだ動いている気がする。
こいつらは、また立ち上がって、あの方の国を汚すかもしれない。
父上の嘲笑が、耳元で呪いのように囁く。
「消えろ…消えろッ!」
私は大剣を引き抜き、倒れ込んだ敵機に向かって振り下ろした。
装甲がへこみ、破片が飛び散る。
手には、硬いものを砕く感触が伝わってくる。それが妙に心地いい。
何度も。
何度も。
「私の視界から!あの方の国から!消え失せろ!」
敵機は既に動かない。頭部は潰れ、胸部は抉れ、ただのスクラップになっている。
それでも私は止まれない。
これは戦いではない。証明だ。
私が、父上とは違うという証明。私が、民を守る貴族であるという証明。
周囲の騎士たちが、恐怖に青ざめて見ているのが分かる。
「味方」であるはずの彼らが、私を「化け物」を見るような目で見ている。
構わない。理解されなくていい。
孤高であることこそが、王者の剣たる証なのだから。
『エルデンベルクの坊ちゃん、そこまでにしておきな』
不意に、冷静な声が通信機から響いた。
同時に、青い機体が私のヴェリアルの腕を掴み、制止した。
近衛騎士団長、ジェラール・バグラム。
『敵はもういない。鬱憤晴らしは別なとこでしな』
「…っ!」
その静かな威圧感に、私はハッと我に返った。
フロスティアが与えてくれていた氷のような冷静さが霧散し、狭まっていた視界が開ける。
目の前には、原形をとどめないほど破壊された敵機の残骸。
そして、後ろを振り返れば、守ったはずの第四小隊の騎士たちが、一歩引いた場所でこちらを見ていた。
感謝よりも、畏怖の色を浮かべて。
全身の力が抜け、私はシートに沈み込んだ。
激しい息切れ。心臓が破裂しそうだ。
手が震えて止まらない。
「はぁ…はぁ…」
私は勝ったのだ。
守ったのだ。
誰の助けも借りず、己の力だけで。彼らに指一本触れさせずに。
ふと、頬を温かいものが伝った。
涙?
悲しいわけではない。怖いわけでもない。
ただ、胸の内に渦巻いていたどす黒い感情が、出口を見つけて溢れ出したようだった。
「…私は、戦える」
震える声で、誰に聞かせるでもなく呟く。
「父上とは違う…私は、力で…守ってみせる…」
ジェラール団長の青い機体が、何も言わずに私の横に立った。
その沈黙が、今の私には唯一の救いだった。
ただ、圧倒的な疲労感と、空虚な達成感だけが、コックピットの中を満たしていた。




