第36話「盤面」
(Side:マルセル・ロシュフォール)
湿った腐葉土の匂いは、気密性の高いコックピットには届かない。
だが、全周囲モニターに映るナーンデルの森は、昼なお暗く、重苦しい空気に満ちていた。外部センサーが示す湿度は飽和に近い。
この遮断された空間の無機質な静寂と、装甲一枚隔てた外にある濃密な死の気配。そのギャップが、俺の神経を逆撫でする。
俺は深く息を吐き出し、震えそうになる指先を太腿に押し付けた。
恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、感情に吞まれれば死ぬ。思考を冷徹な氷のように研ぎ澄ますことだけが、実戦経験の乏しい俺がこの戦場で生き残る唯一の術だった。
(右前方、距離五百。巨木の陰に反応。…敵意、高いよ)
俺が問うまでもなく、肩の上で浮遊していた光の精霊プリズムが、脳内に直接情報を送り込んでくる。
同時にモニター上のノイズが晴れ、太い幹の裏側に潜む敵影が赤く縁取られて浮かび上がった。
プリズムの能力は単なる視覚補正ではない。敵が向ける「敵意」や「殺気」といった波長すら感知し、予測データとして俺に見せている。
これのおかげで、俺のヴェリアルは、ベテラン騎士たちのヴェルドルすら凌駕する索敵能力を得ているのだ。
「…了解した」
俺は通信を開き、周囲の友軍へ警告を発すると同時に、キーボタンを弾いてターゲットを固定する。
ガルドラム軍の量産機、パンターだ。地の利を活かし、こちらの部隊を側面から強襲しようと息を潜めているが、プリズムの目からは逃れられない。
俺はヴェリアルの腕をゆっくりと持ち上げる。
装備しているのは、長距離用クロスボウ。
俺の役割は、この射程とプリズムの索敵能力を活かしたアウトレンジからの支援だ。
(風速、微風。光軸、安定。…いつでもいける!)
プリズムの声と共に、ズームされたモニター上のレティクルが敵機の装甲の継ぎ目、首元の駆動部に吸い付くように固定される。
俺自身の腕ではない。プリズムの計算と、ヴェリアルの性能の高さに頼った射撃だ。
――行け。
明確な「射撃」の思念を送る。
強烈な反動が機体を揺さぶり、太い金属のボルトが射出された。
ボルトは吸い込まれるように木々の間を抜け、パンターの首元に深々と突き刺さり抉った。
敵機がバランスを崩し、巨木の根元に崩れ落ちた。
数トンの質量が地面を叩き、その振動だけが足元から伝わってくる。
「一機、沈黙!」
俺は短く報告し、すぐに次弾の装填動作に入る。
周囲のヴェルドルに乗る騎士たちから、感嘆の声が通信越しに漏れてくるのが聞こえた。
『…この距離から一撃か…』
『良い腕だ!』
賞賛の声など耳に入らない。プリズムが次の警告を発しているからだ。
(左、来るよ。二機。…かなり速い!)
「っ!」
警告は早かった。だが、俺の反応が追いつかない。
分かっていても、機体を動かす反射神経が、歴戦のミディの速度に及ばないのだ。
左手の茂みが激しく揺れ、飛び出してきたのは二機のパンター。
クロスボウの再装填は間に合わない。
俺は反射的に機体を後退させようとしたが、泥濘に足を取られ、動きが鈍る。
敵の先頭の一機が、大剣を振りかぶって突っ込んでくる。
速い。怖い。
プリズムが軌道を予測してくれているのに、身体が恐怖ですくむ。
「くっ!」
俺は左手の小型クロスボウを滅茶苦茶に向け、牽制のボルトを放つ。
だが、焦った射撃は敵の厚い胸部装甲に弾かれるだけで、突進を止めるには至らない。
大剣が振り下ろされる。
やられる――!
強烈な金属音が鼓膜を打ち、火花がモニターの一部を白く染めた。
俺の目の前で、敵の大剣を受け止めている機体があった。
第七小隊の小隊長が乗るヴェルドルだ。
『下がりなさい!』
「小隊長!」
『接近戦は我々の領分だ!君はその目を活かして、我々を援護してくれればいい!』
小隊長機が巧みな盾捌きで敵を押し返し、横から飛び出した別の騎士が槍で敵機を貫く。
手慣れている。無駄がない。
これが、歴戦のミディの動きか。プリズムの予測線などなくても、彼らは経験で敵の動きを読んでいる。
俺は冷や汗を拭いながら、ヴェリアルを後方へと下がらせた。
「すいません…助かりました!」
自分の未熟さを痛感する。
ヴェリアルとプリズムという最高峰の力を借りていても、中身はただの学生だ。騎士たちの連携と経験に守られているに過ぎない。
(マルセル、落ち着いて。心拍数が上がってるよ。周りは見えてるから、大丈夫)
「ああ、分かっている。…俺は俺の仕事をやる」
俺は再びクロスボウを構え、騎士たちと交戦する敵機の隙を狙う。
騎士が敵を抑え、俺がプリズムの指示に従って遠距離から仕留める。
この連携が確立してからは、第七小隊の戦線は安定していた。
だが、戦闘が続くにつれ、俺の中に一つの違和感が芽生え始めていた。
――何かが、おかしい。
俺は通信機の周波数を広域に設定し、戦場全体の報告を拾い上げていた。
ノイズ混じりの悲鳴、怒号、報告。それらが頭の中で地図となって展開される。
『北部C地点、敵襲!パンター四機!』
『南部F地点、ブリッツ確認!近衛騎士団が接触します!』
『北部A地点、敵部隊後退!深追いは危険です!』
報告はひっきりなしに入ってくる。
まるで森全体が敵で埋め尽くされているかのような錯覚を覚えるほどの攻撃頻度。
特に、ナーンデルの北部と南部での交戦が激しい。
しかし、不自然だ。
俺は、さきほど騎士たちが撃破したパンターの残骸を見下ろした。
確かに手練れだった。だが、彼らには「粘り」がなかった。
最初の奇襲が失敗したと見るや、すぐに後続が足を止めた。あるいは、俺の攻撃を受けた機体を見捨てて、連携を取り直そうともしなかった。
まるで、「戦うこと」自体が目的であるかのような。
あるいは、「ここにいること」を主張するためだけの戦いのような。
「…撤退が早すぎる」
独り言が漏れる。
これまでの報告を総合すると、敵は接触しては短時間交戦し、こちらの増援が来るとすぐに森の奥へと消えている。
ゲリラ戦術と言えばそれまでだが…。
本気でこの防衛線を突破し、スタルマーへ侵攻するつもりなら、もっと一点に戦力を集中させて突き破りに来るはずだ。
(マルセル、どうしたの?考え事?)
プリズムが心配そうに明滅する。
「ああ…これだけの規模で攻めてきているのに、主力が見えない気がしてな」
――これは、陽動ではないのか?
背筋に冷たいものが走る。
全面的な攻勢が激化してすでに六日がたっている。もし、この北部と南部での派手な攻撃が、俺たちの目を引きつけるための囮だとしたら?
敵の「本命」はどこだ?
俺はコックピット内の地図モニターを操作し、ナーンデルの森周辺の地形図を呼び出した。
現在、戦闘が報告されているのは、森の北部から南部にかけての広い範囲。
だが、一箇所だけ、不自然に静かな場所がある。
中央だ。
そこは湿地帯が多く、重たいシヴァルリィの運用には適さないとされている「死地」だ。
だからこそ、こちらの監視も薄い。
「…まさか」
ガルドラム軍の新型機、パンターブリッツ。
学院の戦闘を思い出す。目の前から消えたのではないかと思うほどの速度と身軽さ。
もし、あの機体ならば、湿地帯を強引に突破することも可能なのではないか?
中央を抜ければ、スタルマーへの最短ルートが開ける。
もしそうなら、現在の配置は致命的だ。
ジェラール団長の遊軍も、我々学生を含む予備戦力も、すべて北部と南部の激戦区に投入されている。
湿地帯のこちら側はガラ空きだ。
「…確認する必要があるな」
(でも、確証はないよ?ただの勘かもしれない)
「ああ。ただの学生の妄想かもしれない。だが、見過ごすにはあまりにもリスクが高すぎる」
俺は通信のチャンネルを、小隊長へと切り替えた。
「小隊長、マルセルです。報告があります」
『どうした?矢切れか?下がって補給するか?』
小隊長の声には、年少者を庇護する優しさがあった。
だが、俺はそれを振り切って告げた。
「いえ。敵の動きについて、懸念があります」
俺はできるだけ冷静に、論理的に自分の推測を伝えた。
敵の撤退の早さ、攻撃の散漫さ、そして湿地帯付近の不気味な静けさ。
小隊長は黙って聞いていたが、やがて唸るような声を出した。
『…なるほど。確かに筋は通っている。だが、我々は現在、目の前の敵に対応するだけで手一杯だ。湿地帯周辺に偵察を出す余裕などないぞ』
「分かっています。ですが、もし私の懸念が当たっていれば、スタルマーが危険です。ルシアが…領都が危ない」
『…分かった。本部へ具申はしておこう。だが、あまり期待はするなよ。お前も分かっているだろうが、上層部は今、この戦線の維持に必死だ』
「承知しました。…具申、感謝します」
通信を切る。
やはり、すぐには動けないか。
無理もない。目の前で仲間が傷つき、敵が迫っている状況で、「来ないかもしれない敵」のために戦力を割く決断など、容易にはできない。
機体の近くで、土砂を巻き上げる激しい衝撃があった。
敵の新たな増援による遠距離攻撃だ。
「…数が多い」
俺は再びクロスボウを構える。
今は、俺にできることをやるしかない。
プリズムの眼で敵を見つけ、ヴェリアルの性能でボルトを届ける。
そして、生き残って情報を持ち帰る。
俺はモニターを覗き込みながら、自分に言い聞かせた。
焦るな。思考を止めるな。
盤面全体を見ろ。
違和感の正体が掴めるその瞬間まで、俺はこの場所で楔となり続けるしかない。
(来るよ、マルセル!三機!)
「ああ、見えている」
プリズムが示した先、森の奥から、また数機のパンターが姿を現した。
俺は無感情に、しかし必死さを押し殺して、思念を送った。
――射程内。落ちろ。
矢が放たれ、敵機を貫く。
泥沼の消耗戦…そうとしか思えない。湿地帯に目を向けるのだって罠かもしれない。
…敵の狙いはいったいどこなんだ。




