第35話「鳥籠」
(Side:ルシア・アルトリーベ)
領都スタルマーの領主館の執務室にある大きな窓から、東の空を見上げる。
どんよりと曇った空の下、広大なナーンデルの森が黒々とした口を開けていた。
かつては美しい緑を湛え、豊かな恵みをもたらしてくれたあの森は今、死の領域と化している。
森の奥から、時折、鈍い光が瞬くのが見えた。
遅れて、腹に響くような低い振動が伝わってくる。
シヴァルリィ同士の衝突。精霊力がぶつかり合い、装甲が砕ける瞬間の閃光と衝撃だ。
私は窓枠に置いた手を、爪が白くなるほど強く握りしめた。
「…なぜ、私だけがここにいるの…」
口から漏れた言葉は、誰に届くわけでもなく、虚しく執務室の空気に溶けていった。
私の愛機、紅のヴェリアルは、この館の地下深くにある格納庫で眠っている。
出撃の許可が下りないまま、もう数日が過ぎていた。
執務室の扉が開き、伝令の兵士が転がり込むように入ってくる。
私は反射的に振り返った。
「報告!」
兵士は息を切らしながら、部屋の中央にある作戦卓の周りに集まっている幕僚たちに向かって叫んだ。
「ナーンデル北部にてパンターの奇襲を確認!警戒中のヴェルドル三騎が大破、後退します!」
幕僚たちがどよめく。
まただ。
神出鬼没なガルドラム軍のパンターに対し、旧式機であるヴェルドルでは対応が遅れる。性能差は歴然だ。
技量で補おうにも、相手も手練れ揃い。森という地形を利用したゲリラ戦術に、我がアルトリーベ騎士団とベルクト騎士団は翻弄されている。
「ジェラール団長の近衛はどうなっている!?」
「現在、南部にて交戦中!すぐには回れません!」
「くそっ、ベルクト騎士団に連絡!予備戦力の投入を依頼しろ!そこを抜かれたらここまで一直線だぞ!」
怒号が飛び交う中、別の報告が入る。
「第四、第七小隊が敵部隊を撃破!ヴェルドル二騎が大破しましたが、敵パンター五騎、ブリッツ二騎の大破を確認!」
「第四、第七?学生を配備した部隊か…」
「エルデンベルク伯爵とロシュフォール子爵のご子息だったかな。やるではないか」
「公爵閣下も酔狂なことだ。貴重なヴェリアルを子供なぞに…おっと」
その報告を聞いた瞬間、私の胸に安堵と同時に、焼けつくような感情が渦巻いた。
マルセル。クラウディウス。
他家の、いわば「客将」である彼らが、泥にまみれ、命を賭して私の故郷を守っている。
なのに。
この地の領主の娘であり、次期当主であるはずの私は、安全な館からそれを眺めているだけ。
「…惨めだ」
自分が許せなかった。
彼らの活躍を素直に喜べない、私の心の狭さが。
そして何より、何もできない無力感が、私を苛む。
その時、重厚な足音と共に、一人の男が入室してきた。
場の空気が一瞬で張り詰める。
父、アルトリーベ侯爵。
連日の指揮で疲労の色は濃いが、その背筋は剣のように真っ直ぐで、瞳には衰えない威厳が宿っていた。
「戦況は」
短く問う父に、幕僚長が現状を説明する。
父は黙ってそれを聞き、的確な指示を飛ばしていく。
その横顔を見ているうちに、私の中で抑え込んでいた感情が限界を超えた。
「お父様!」
私は父の前に進み出た。
周囲の視線が集まるが、構っていられない。
「私を出撃させてください!北部の戦線が苦しいのなら、私が参ります!私のヴェリアルならば、パンター相手でも遅れはとりません!なぜ、私だけをこの館に留め置くのですか!」
父はゆっくりと私の方を向いた。
その瞳は、凍てつくように冷徹だった。
「ならん」
「なぜですか!私はもう子供ではありませんわ!王都でヴェリアルを拝領し、実戦も経験しました!なのに、なぜ!」
「お前はまだ学生だ」
「マルセルも!クラウディウスも学生ですわ!彼らは今この瞬間も戦っていますのに!他家の彼らに血を流させて、当主の娘である私が安全な場所に隠れているなど…これでは騎士団の士気に関わります!」
私の叫びは、悲痛な響きを帯びていたと思う。
ミディとしての矜持が、貴族としての責務が、私を突き動かしていた。
父は一つため息をつくと、作戦卓の地図を指し示した。
「ルシア。よく見ろ」
父の指が、ナーンデルの森からスタルマーへと続く複数のルートをなぞる。
「敵は神出鬼没だ。どこから主力が現れるか、完全には把握できていない。今はジェラール殿の近衛騎士団が遊軍となり適宜支えてくれているが、戦線は薄氷の上にある」
父の視線が、私を射抜く。
「もし、前線が崩壊したらどうなる?」
「そ、それは…」
「敵の機動部隊がこのスタルマーに雪崩れ込む。その時、誰が最後の砦となって民を逃がす?誰が敵を食い止める?」
「…っ」
「お前のヴェリアルは、我が軍に残された最後の切り札だ。そして何より、お前自身が『アルトリーベの未来』なのだ」
父の声が、少しだけ和らいだように聞こえた。
「私がここで倒れた時、誰がこの地を治める?お前だ、ルシア。功名心や一時の感情で、その命を軽々しく前線に晒すことは許さん。これは父親としてではない。侯爵としてでもない。騎士団長としての命令だ」
反論できなかった。
父の言っていることは、戦略的に正しい。予備戦力の温存。指揮系統の維持。後継者の安全確保。
どれも正論だ。
けれど、私の心は納得していなかった。
理屈じゃない。
今、傷ついている仲間がいるのに。悲鳴を上げている故郷があるのに。
それを「見ているだけ」という行為が、どれほど魂を削るか。
「…失礼いたします」
私は唇を噛み締め、逃げるように執務室を出た。
これ以上そこにいたら、泣き出してしまいそうだったからだ。
やり場のない怒りと熱を抱えたまま、私は館の前庭へと出た。
冷たい風に当たれば、少しは頭が冷えるかと思った。
しかし、そこに広がっていた光景は、私をさらに追い詰めるものだった。
「急げ!担架をこっちへ!」
「衛生兵!出血が酷い、早く!」
前線から後送されてきた負傷兵や、装甲がひしゃげ、黒煙を上げるヴェルドルが運び込まれていた。
焼け焦げた金属の臭い。血と泥の臭い。うめき声。
ここもまた、戦場の一部だった。
呆然と立ち尽くす私の前を、一台の担架が通り過ぎようとした。
その上に横たわっていたのは、顔見知りの古参騎士だった。
幼い頃、私に剣の握り方を教えてくれた、優しいおじ様。
その腹部には赤い包帯が巻かれ、顔面は土気色だった。
「…あ…」
私の声に気づいたのか、彼は虚ろな目を開けた。
「おお…ルシア様…」
私は慌てて駆け寄り、膝をついた。
「しっかりして!今、治癒術師を呼ばせますから!」
彼は血と油にまみれた震える手を伸ばし、私の手を握った。
その手は驚くほど冷たかった。
「ご無事で…よかった…」
彼は、苦痛に歪む顔で、それでも微かに微笑んだ。
「ルシア様が…この館にいてくださるだけで…我々は…安心して戦えます…どうか…ご無事で…」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が凍りついた。
彼は本心からそう言っているのだ。
私を守るために戦い、傷つき、それでも私が無事であることを喜んでいる。
なんて…残酷な言葉なのだろう。
それは、「お前は守られていろ」という宣告と同じだ。
私には戦う力があるのに。ヴェリアルという剣を持っているのに。
彼らは私を「精霊騎士」としてではなく、「守るべきお姫様」として見ている。
「…っ」
私は何も言えず、ただ彼の手を握り返すことしかできなかった。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。ここで泣いたら、本当にただの無力な子供になってしまう。
彼が運ばれていった後、私は自分の手を見つめた。
彼の手から移った血と泥が、私の白い肌を汚していた。
この汚れは、私が安全な場所にいる代償として、誰かが流した血だ。
「私は…こんなことのために、ヴェリアルを受け取ったわけじゃない…!」
握りしめた拳が震えた。
◇
その日の深夜。
館が静まり返った頃、私は一人、地下格納庫へと足を運んだ。
整備員たちも大半が前線基地へ出払っており、広い空間には冷たい静寂が満ちていた。
その中央に、私の愛機が佇んでいる。
深い紅色に染められたヴェリアル。
王都で、技術院によって調整され、完璧な状態に仕上がっている。
本来なら、今頃は戦場を駆け、敵をなぎ倒しているはずの機体。
私はコツコツと靴音を響かせ、機体の足元まで歩み寄った。
冷たい装甲に手を触れ、額を押し当てる。
「…ごめんなさい」
謝罪の言葉が、自然と口をついて出た。
「あなたを、こんな鳥籠に閉じ込めてしまって」
機体からは何の反応もない。
ただ、金属の冷たさが伝わってくるだけだ。
けれど、私には分かっていた。この機体もまた、戦場を求めて震えていることを。
私の思念が繋がっていなくても、ヴェリアルから伝わってくる「熱」のようなものを感じる。
それは、私の願望が投影されているだけかもしれない。
それでも。
「リーシャ…エミリア…」
彼女たちは今頃、どこにいるのだろう。
素晴らしい力を持ちながらも、どこかふわふわしているリーシャ。
天真爛漫に見えて、誰よりも芯の強いエミリア。
二人が到着した時、私はまだ、この鳥籠の中で震えているのだろうか。
「いいえ…」
私は顔を上げ、腰に帯びていたレイピアを抜いた。
誰もいない格納庫の中で、切っ先を闇に向ける。
鋭い音を立てて、空気を突く。
父の命令には逆らえない。今はまだ。
だが、その時は必ず来る。
父が言った「最後の砦」としての役割か、あるいはそれ以上の危機か。
その瞬間に、錆びついているわけにはいかない。
私は目を閉じ、イメージする。
コックピットの中の自分。傍らには炎の精霊イグニス。
…彼はヴェリアルに閉じこもったままだ。いつものことではあるが、今は彼が私を非難しているためにでてこないのではないかと考えてしまう…。
雑念を払って、思念を研ぎ澄ませる。
『突き』。
一点に集中させた殺意にも似た鋭利な意思を、機体へと流し込む。
紅の巨人が、私の意思と完全に同調し、閃光のごとく敵を貫く。
私は何度も、何度もレイピアを振るった。
汗が頬を伝い、息が上がる。
けれど、止めない。
この焦燥感を、無力感を、すべて闘志に変えて、私は剣を振り続けた。
「私は戦う…」
闇の中で、自分自身に誓う。
「誰がなんと言おうと、このアルトリーベは私が守る。その時が来たら、誰の命令も聞かない。私は私の意志で、この翼を広げる」
紅のヴェリアルが、静かに私を見下ろしていた。
その沈黙は、今の私には「待っている」という無言の肯定のように感じられた。




