第26話「休日」
翌朝。
窓から差し込む陽光が、私の瞼を強引にこじ開けた。
「リーシャ!早く起きなさい!エミリアちゃんと遊びにいくんでしょ!」
階下から響く母さんの声。
私は布団の中で芋虫のように丸まりながら、夢と現の狭間を彷徨っていた。
昨夜は遅くまで、母さんから昔の話を聞いていたからだ。王城でのこと、父さんのこと、そして私のこと。
けれど、今日はそんな重い話を一旦忘れて楽しむ日だと決めている。
「…あ!…ふぁーい!」
私は跳ね起きた。
枕元を見ると、専用のクッションで寝ていたセラフィも、不機嫌そうに身じろぎをしている。
「んん…なんじゃ、騒々しいぞ、小娘。あと半日は寝かせろ…」
「ダメだよセラフィ。今日は大市の日だよ!美味しいもの食べに行くんでしょ?」
「む…蜂蜜入りの焼き菓子か!?仕方ないのう」
現金な相棒を肩に乗せ、私は大急ぎで着替えを済ませて一階へと駆け下りた。
朝食を喉に流し込み、髪を整えていると、玄関のベルが鳴った。
「おはようございまーす!リーシャ、迎えに来たよ!」
元気な声と共に現れたのはエミリアだ。
今日の彼女は、いつもの制服ではなく、淡いピンク色のワンピースに白いボレロを羽織っている。可愛らしい私服姿に、肩の上に乗った水の精霊プルルが、アクセサリーのようにキラキラと輝いていた。
「ごめんごめんエミリア!もうちょっと待って!!」
私は洗面所から顔を出し、慌てて準備の続きに取り掛かる。
「大丈夫だよ、私もちょっと早かったし」
エミリアはニコニコしながら、玄関先に出てきた母さんと話し始めた。
「おはようございます、ベアトリスさん。今日もお綺麗ですね」
「あらあら、エミリアちゃんこそ。そのワンピース、とっても似合ってるわよ。…今日は娘をよろしくね」
「はい!任せてください!」
二人の会話を背中で聞きながら、私はブーツの紐を結んだ。
プルルが私の肩の上のセラフィに向かって、プルプルと身体を震わせている。
(セラフィちゃん、おはよー!今日はいっぱい美味しいもの食べようね!)
(うむ。プルルよ、おぬしの感知能力で、一番甘い匂いのする屋台を探すのじゃ。わしは風に乗ってくる匂いを分析する)
(りょーかい!)
精霊たちもやる気満々のようだ。
ようやく支度が整った私は、二階から取ってきた財布をポシェットに詰め込み、玄関へと走った。
「お待たせ!行こう行こう!あ、母さん!夕飯には帰ってくるから!」
「はいはい。気をつけて行ってらっしゃい」
母さんはエプロンで手を拭きながら、私たちを見送ってくれた。
その眼差しは、昨日までの「優しいお母さん」に戻っていたけれど、どこか奥底に、戦場に送り出すような凛とした光が宿っているのを私は感じていた。
…うん、気にしすぎ。
私たちは工房を出て、大通りへと歩き出した。
「それにしても、リーシャのお母さんって若いよねぇ」
隣を歩くエミリアが、不意にそんなことを言った。
「えー、そうかなぁ?エミリアのお母さんは素敵だけど」
「うちは普通の主婦って感じだもん。ベアトリスさんって、なんかこう…背筋がピンとしてて、ただ立ってるだけで絵になるっていうか」
「まさか。父さんの手伝いで煤まみれになってた整備士だよ?」
私は笑って誤魔化したけれど、心臓が少しだけ早鐘を打った。
エミリアの観察眼は侮れない。母さんが「元ミディ」だなんて知ったら、彼女は腰を抜かすかもしれない。
◇
ミラボーの大市。
それは月に一度、街の中央広場から大通りにかけて開催される一大イベントだ。
色とりどりのテントが軒を連ね、近郊の農村からは新鮮な野菜や果物が、職人街からは日用品や装飾品が持ち込まれる。
以前に比べれば、確かに人出は少ない。戦時下という状況が、人々の財布の紐を固くしているのは事実だ。
けれど、活気は失われていなかった。
リュクスカイン王国の中でも大都市の部類に入り、東西に繋がる交易路の要衝でもあるミラボーには、今日も多くの人々が行き交っている。
「すごい人!ねえリーシャ、あそこのお店見て!」
「わ、ちょっと待ってエミリア!」
私たちは人の波をかき分けるようにして進んだ。
あちこちから、客引きの声や肉を焼く香ばしい匂い、甘い砂糖菓子の香りが漂ってくる。
「小娘!右じゃ!右から極上の蜜の香りがする!」
「リーシャちゃん!左の露店に可愛いリボンがあるよ!」
肩の上のエメルも大騒ぎだ。
私たちは目移りしながら、露店を冷やかして歩いた。
「うーん、この髪飾り可愛いけど…銀貨三枚かぁ」
エミリアが青い硝子玉のついた髪飾りを手に取り、悩み顔を見せる。
「ちょっと高いね。あっちの店なら似たようなのが二枚で売ってたよ?」
「ほんと?さすがリーシャ、目ざとい!」
「整備士は部品の値段にはうるさいの!」
少ない小遣いをどう使うか、それは十四歳の私たちにとって、戦術シミュレーションよりも重大な問題だ。思考錯誤しながら、あっちへ行ったりこっちへ戻ったり。
そんな他愛のない時間が、今は何よりも楽しい。
一通りメインストリートを見終わった私たちは、少し休憩しようと路地へ入った。
喧騒が少し遠のき、日陰の涼しい風が通り抜ける。
「あ、見てリーシャ。あれ、あの人」
エミリアが前方を指差した。
その先には、両手に抱えきれないほどの大きな麻袋を持った女性の姿があった。
あの特徴的なまとめ髪と侍女服、生真面目そうな横顔は見間違えようがない。
「あ、ほんとだ!クララさーん!」
私が手を振って駆け寄ると、女性――エリーゼ様の侍女であるクララさんが、驚いたように振り返った。
「あら、二人とも!昨日ぶり!」
「こんにちは、クララさん。すごい荷物ですね」
近くで見ると、その袋の巨大さに圧倒される。なにが入っているかわからないけど、パンパンに詰まってる。
「クララさんも大市巡りですか?」
「いえいえ、買い出しですよ。エリーゼ様がまた遠出することになって、入用のものがあったので」
クララさんは事も無げに言って、重そうな袋を持ち直した。
「またですか!?大変だぁ。ハンスさんも一緒なんですか?」
「いえ、今回はエリーゼ様と私だけですね。詳しくは聞いてないですけどね」
「えっ!?」
エミリアが目を丸くした。
「他の随員なしなんですか!?護衛とか…」
今は戦時中だ。しかも、エリーゼ様は重要人物。女性二人だけで王都を離れるなんて、無謀にも程がある。
「二人だけの方が楽な場合が多いんですよ?大人数だと目立ちますし、動きも遅くなりますから」
クララさんは困ったように笑った。
「そうなんですか?でも、女性二人だけだと大変なんじゃ…野盗とかも出るって聞きますし」
私が心配そうに言うと、クララさんはふふっと余裕の笑みを浮かべた。
「あー、私、こう見えて強いんですよ?なんなら荒事の方が得意だったりします」
「え!すごい!」
エミリアが目を輝かせる。
確かに、クララさんはただの侍女じゃない雰囲気がある。エキュイエでの旅の間も、彼女が取り乱したところを見たことがない。
その時だった。
三人の脇を、つむじ風のような勢いで走り抜けていく男がいた。
薄汚れた服を着た小男だ。私の肩にぶつかりそうになりながら、路地の奥へと駆けていく。
「な、なんだろ?」
驚いて見送っていると、大通りの方から悲鳴のような怒鳴り声が聞こえてきた。
「泥棒だー!そいつを捕まえてくれー!」
泥棒。
その単語を聞いた瞬間、クララさんの瞳から「侍女の温和さ」が消えた。
「…この袋、見ててもらっていいですか?」
「あ、はい」
私が袋を受け取る間もなかった。
クララさんは手荷物をその場にドサリと置くと、スカートの裾を両手で掴み、ものすごい勢いで走り出した。
「はっや!?」
私の動体視力でも追うのがやっとだ。
丈の長い侍女服、しかも革靴。走りにくいはずなのに、そのフォームは無駄がなく、美しいとさえ思えるほど洗練されている。
あっという間に泥棒の背後に迫るクララさん。
泥棒が焦って路地の障害物を飛び越えようとした瞬間、彼女は宙を舞った。
「ふっ!」
短い呼気と共に繰り出されたのは、鮮やかな跳び蹴りだった。
スカートの中が見えないよう、しっかりと裾を押さえながらの完璧なドロップキック。
ドガッ!という重い音が響く。
「ぐべっ!?」
泥棒は為す術もなく吹き飛び、路地のゴミ捨て場に突っ込んだ。幸い、誰にもぶつからなかったようだが、その威力は間違いなく骨の数本を持っていっただろう。
「て、てめぇ!」
すると、路地の陰から別の男が飛び出してきた。
仲間がいたのだ。
男は大柄で、腕にはナイフを隠し持っているのが見える。
「やろー!余計なことしやがって!」
男は逆上し、クララさんに殴りかかった。
危ない!
クララさんは動じなかった。
振り下ろされた拳を、紙一重で見切る。最小限の動きで懐に潜り込むと、流れるような動作で男の足を払った。
視界が上下した男が地面に叩きつけられるより早く、クララさんの革靴が男のこめかみを鋭く捉える。
パァン!
乾いた音がして、男は白目を剥いて沈黙した。
一瞬の出来事だった。
最初に蹴り飛ばされた男もすでに気絶している。
クララさんは服の埃を払うと、男の手から盗まれた革袋を回収し、二人の泥棒の襟首を掴んだ。
大の男二人を、まるでゴミ袋でも運ぶかのように軽々と引きずって、物を盗まれた店主が追いついてきた場所まで戻ってくる。
「はい、盗まれたものはこれで間違いないですか?」
涼しい顔で革袋を差し出すクララさん。
「あ…ああ、あ、ありがとう…」
追いついてきた店主は、腰を抜かさんばかりに驚いていた。
それはそうだ。か弱いと思っていた女性が、あっという間に荒くれ者二人をのしてしまったのだから。
「この二人は衛兵に突き出しておいてくださいね。じきに目を覚ますでしょうから」
シン、と静まり返っていた路地に、やがてパラパラと拍手が起こり、それはすぐに大喝采へと変わった。
「すごいぞ姉ちゃん!」
「強いな!」
しかし、クララさんはそんな賞賛には特に反応せず、ただ業務を遂行しただけといった様子で、私とエミリアの元に戻ってきた。
「袋、見ててもらってありがとうございます」
にっこりと微笑むその顔は、いつもの優しいクララさんだ。
さっきまでの修羅のような気配は微塵もない。
「え、いや…はい」
私は引きつった笑顔で頷くしかなかった。
エミリアも口をぽかんと開けたままだ。
「…クララさん、すごすぎ」
「それでは、お二人とも、またお会いしましょうね」
クララさんは優雅に一礼すると、あの巨大な麻袋を片手で軽々と持ち上げ、雑踏の中へと消えていった。
その後ろ姿は、ただの侍女にはとても見えない。
「…ねえ、リーシャ」
エミリアが震える声で言った。
「…なに?」
「あの荷物、私が持ってみたけど、中に金属の塊でも入ってるのかってくらい重かったよ?それを片手って…」
「…うん。すごすぎない?」
「うん…クララさんは絶対に怒らせないようにしよう」
「賛成」
私たちは顔を見合わせ、深く頷き合った。
「フン、あの身のこなし。ただの侍女ではないな。おそらく暗部の手の者じゃろう」
セラフィが小声でつぶやいている。
暗部?よく分からないけど、とにかく「ヤバい」ということだけは分かった。
呆気にとられはしたが、泥棒騒ぎも解決し、お腹も空いてきた。
私たちは気を取り直して買い物を続行することにした。
お昼ご飯は、露店で買った「串焼き肉のパン挟み」だ。
香ばしいタレの匂いが食欲をそそる。
「んー!美味しい!」
エミリアが大きな口で頬張る。
私も一口かじりついた。ジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。
「小娘!わしにも寄越せ!その端っこのカリカリしたところじゃ!」
精霊たちに急かされながら、私たちは大市の熱気の中で笑い合った。
戦争のこと、王家のこと、難しいことは全部後回し。
今はただ、この平和で楽しい時間を、お腹いっぱい味わいたかった。




