第21話「仮面」
(Side:エリーゼ・ホッホベルク子爵)
石造りの重厚な建物が並ぶ王都ヴェラムの中心街。
その石畳の上を、私の乗った馬車が車輪の音を響かせながら進んでいく。
私は窓の外を流れる景色を眺めながら、小さく息を吐いた。
外交官という仕事柄、笑顔を貼り付けることには慣れているつもりだ。けれど、今日ばかりは頬の筋肉が強張って動かなくなるのを感じていた。
王城での叙勲式から数日がたった。
学生たちが新しい翼「ヴェリアル」の調整に汗を流している間、私は私の戦場で戦っていた。
すなわち、ミラボーへの支援要請と、根回しという名の泥仕合だ。
(…叔母様。貴女が守っている最前線に比べれば、こちらの敵は血を流さない分、タチが悪いですわ)
私は心の中で、遠い街にいる敬愛する叔母、カタリナ・ミラボー伯爵夫人に語りかけた。
◇
最初に訪れたのは、エルデンベルク伯爵邸だった。
豪奢な調度品で飾られた応接室。そこで私を迎えたのは、クラウディウス君の父、ヴァレリウス・エルデンベルク伯爵だった。
「ほほう。ミラボーへの追加支援、ですか」
エルデンベルク伯爵は、極上の茶葉で入れた紅茶を優雅に啜りながら、私が出した要望書を指先で弾いた。
読む気さえないという意思表示だ。
「ホッホベルク子爵。貴女もご存知でしょう?我が国とガルドラム王国との間には、水面下で和平交渉が進んでいるのです。これ以上の軍事力増強は、相手を刺激するだけだ」
「伯爵。相手はすでに国境を破り、ミラボーを襲撃したのです。これは侵略ですわ」
私が努めて冷静に返すと、彼は鼻で笑った。
「あれは一部の過激派の暴走でしょう。ジグムント王も遺憾の意を示しておられるとか。ここで我々が大人になり、多少の譲歩を見せれば、戦争は回避できるのです」
「多少の譲歩、ですか。それは例えば、ミラボーの『精霊の泉』を差し出すといったような?」
私の言葉に、伯爵の目がすっと細められた。
蛇のような冷たい目。
「…平和には痛みが伴うものです。それに、あの地は平和な時ならいざ知らず、維持費ばかりかさむ。国益を考えれば損切りもまた政治判断でしょう」
背筋に冷たいものが走る。
この男は本気だ。
自分の地位と財産を守るためなら、国土の一部を切り売りすることに何の躊躇いもない。
和平派などという綺麗な言葉で飾っているが、その本質はやはり…ただの「売国」だ。
「…それに」
伯爵は不愉快そうに顔を歪めた。
「あの『平民の娘』を英雄のように祭り上げおって。我が息子クラウディウスが後塵を拝するなど、あってはならんことだ。…支援が欲しければ、まずはあの小娘をどこぞへ追いやってからにすることですな」
私は手に力を込めた。
怒りで震えそうになるのを、外交官としてのプライドで必死に抑え込む。
そして、あの日、謁見の間で彼が息子に向けた苦々しい顔を思い出しながら、手で口元を隠して冷ややかに告げた。
「伯爵。先日、クラウディウス様が女王陛下に誓われた言葉を、もうお忘れですか?」
「何?」
「『この勲章に誓いましょう。我が剣は、ただ一人、女王陛下のために。いかなる敵が立ちはだかろうとも、この身を賭して貴女様をお守りいたします』」
私の言葉に、伯爵の眉間がピクリと跳ねた。
あの日、貴族席で彼が浮かべていた表情と同じだ。自分の所有物だと思っていた息子が、手の届かない場所へ飛び立ってしまったことへの焦燥と苛立ち。
「あの方は既に、誰かと比べるような次元にはいらっしゃらないようですわ。その剣は、家のためでも、ましてや父親のためでもなく、ただ一人の主君のためにあるのですから」
言葉を失い、顔を赤黒くさせる伯爵に対し、私は完璧なカーテシーをして微笑んだ。
「…貴重なご意見、感謝いたしますわ」
私は踵を返し、その場を辞した。
背後で陶器が割れる音が響いたが、振り返る必要はなかった。
◇
次に訪れたのは、軍務省の兵站局長室。
書類の山に埋もれるようにして座っていたのは、マルセル君の父、アンリ・ロシュフォール子爵だった。
「…で?ミラボーへの補給物資を倍増しろと?」
アンリ子爵は、眉間に深い皺を刻みながら、神経質そうにペンを回していた。
その仕草は、息子のマルセル君と瓜二つだ。
「はい。現在送られている物資では、シヴァルリィの稼働率を維持できません。特にフラクタル鉱の補修材と、食料が必要です」
「簡単に言ってくれる。予算委員会がどれだけ渋い顔をしているか知っているのか?和平派の連中が『無駄な出費だ』と騒ぎ立てて、一ルクス単位で削ろうとしてくるんだぞ」
ロシュフォール子爵は毒づきながら、手元の計算機を猛烈な勢いで叩いた。
「だが…前線の騎士を飢えさせるわけにはいかん。正規ルートだと横槍が入る。第四補給路を『演習用』の名目で使う。帳簿の方は私がなんとかごまかす」
「よろしいのですか?」
「勘違いするな。私は効率を重んじているだけだ。前線が崩壊すれば、再構築にかかるコストは今の比ではないからな」
彼はぶっきらぼうに言いながら、書類にサインをして私に投げ渡した。
抗戦派の彼らは、口は悪いが実務能力は確かだ。そして何より、国の未来を見ている。
「それと…」
部屋を出ようとした私を、ロシュフォール子爵が呼び止めた。
振り返ると、彼はペンを止め、少しだけバツが悪そうに視線を逸らしていた。
「あいつは…マルセルは、役に立っているのかね?」
「ええ、とても。彼がいなければ、私たちはここまで辿り着けませんでしたわ」
「…そうか。あいつは頭でっかちで、現場の何たるかを知らん。迷惑をかけていると思ったが…フン、少しはマシになったようだな」
その口元が、わずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。
言葉とは裏腹な、父親としての不器用な愛情。
エルデンベルク伯爵の歪んだ執着とは対照的だ。
「彼もまた、立派な『英雄』の一人ですわ」
私が微笑むと、彼は「ふん、買いかぶりすぎだ」と言って、再び書類の山へと顔を埋めた。
◇
夜。
宿舎として借りている屋敷の一室で、私はペンを走らせていた。
宛先は、ミラボー伯爵夫人。
『親愛なる叔母様へ。
王都の夜は、相変わらず煌びやかで、そして澱んでおります。
本日も数名の有力貴族と面会してまいりました。
結論から申し上げますと、状況は芳しくありません。
和平派と称する派閥――特にエルデンベルク伯爵を中心とする勢力は、もはや「敵」と認識すべきです。彼らはガルドラムとの密約を期待し、ミラボーを交渉材料として切り捨てる腹積もりです。
彼らにとって、平民出身のリーシャさんやエミリアさんが活躍することは、自分たちの権威を揺るがす脅威でしかありません。今後、様々な妨害工作が予想されます。
しかし、絶望ばかりではありません。
ロシュフォール子爵をはじめ、現場を知る実務派の方々は、水面下で私たちを支えてくれています。彼らと連携し、独自の補給線を確保しました。
そして何より、希望はここにあります。
リーシャさんたち五名は、今日行われた模擬戦でも素晴らしい成果を見せました。
彼らは、大人が勝手に引いた「派閥」や「身分」の境界線を、軽々と飛び越えていきます。
平民も、貴族も関係なく、互いの背中を預け合うその姿こそが、この腐敗した国を変える唯一の光かもしれません。
私たちは、王都という名の魔窟で、もうしばらく戦います。
叔母様も、どうかご自愛ください。
エリーゼより、愛と敬意を込めて』
私は封蝋を垂らし、家紋のスタンプを押した。
窓の外を見上げる。
王都の空には星が見えにくい。地上の灯りが強すぎるせいだ。
けれど、私の心の中には、五つの小さな、しかし力強い星の輝きが焼き付いていた。
(負けないよ!古狸どもめ!)
私は誰にともなく呟き、ワイングラスを傾けた。
戦いは、まだ始まったばかりだ。




