第17話「政治」
談話室に入ると、そこは既に温かいスープの香りで満たされていた。
中央の大きなテーブルには、簡単なサラダとパン、そして大鍋いっぱいの具だくさんスープが並べられている。
「あらあら、いらっしゃい!さあ、座って座って!」
満面の笑みで手招きをしたのは、今回の使節団正使であるエリーゼ・ホッホベルク子爵だ。
金髪を緩くまとめた彼女は、貴族とは思えないほど気さくな雰囲気で、すでにルシア先輩を捕まえて隣に座らせていた。
「もう、エリーゼ叔母様…近いですわ」
ルシア先輩が困ったように身を引くが、エリーゼ様はお構いなしに頬を寄せている。
「いいじゃないの。久しぶりに会ったんだもの。ああ、怪我をしていても凛々しいルシアちゃんも素敵よ!包帯が痛々しくて、そこがまた儚げで…!小さい頃はあんなに泣き虫だったのに」
「昔の話はやめてください…私は見世物ではありません」
クールなルシア先輩も、この叔母様には形無しだ。ルシア先輩のお母さんの末の妹らしい。顔を赤らめて縮こまっているルシア先輩なんて、初めて見た。
その様子を見て、給仕をしていた従者のクララさんがクスクスと笑った。
「諦めてください、ルシア様。エリーゼ様は可愛い女の子には目がないんですから」
「クララ、貴女からも言ってくださいな」
「無理ですよぉ。あ、リーシャさんとエミリアさんも、こっちに来てください!エリーゼ様が待ちかねてますから」
クララさんに背中を押され、私たちが席に着くと、エリーゼ様の目がキラリと光った。
「リーシャさん!エミリアさん!さあ、たくさん食べてちょうだい。まだまだ育ち盛りなんだから!」
エリーゼ様は、私たちを交互に見つめてうっとりしている。
初日の出発直後からこんな調子だ。どうやら、私たちも「コレクション」の一部として認定されてしまったらしい。
悪い人ではないのだけれど、圧がすごい。
「…閣下。食事の手が止まっています。予定より七分遅れです」
テーブルの端で、副使のハンスさんが不機嫌そうに懐中時計を叩いた。
神経質そうな彼は、眉間の皺を深めながら冷ややかな視線を送ってくる。
「彼らは遊びに行くのではありません。王都での重要な役目が待っているのです。浮かれるのもいい加減にしてください」
ハンスさんの言葉に、場の空気が少し冷える。
重要な役目。
私たちは、ただ今回のことを「報告」する使節として王都へ呼ばれたわけではないことは、薄々感じていた。
「あら、ハンスったら。堅苦しいわよ」
エリーゼ様は悪びれずにパンをちぎった。
「この子たちは命懸けで街を守ったのよ?少しくらい甘やかしてもバチは当たらないわ。ねえ?」
彼女が同意を求めると、セラフィがふんぞり返った。
「うむ!もっと言うがよい!もっと美味いものを寄越すがよい!」
「あらぁ、エメルさんも可愛らしい!はい、チーズをどうぞ」
「気が利くのう!」
完全に餌付けされている。
私たちは苦笑いしながら、スープに口をつけた。
温かい。
こうして皆で食卓を囲んでいると、ここが運搬車の中だということを忘れてしまいそうになる。
「…でも、ハンスさんの言う通りです」
私はスプーンを置いた。
「…正直、怖いです。私たちはただ、生き残るのに必死だっただけなのに。急に『重要な役目』だなんて言われても、実感が湧かなくて…」
自分たちがしたことの大きさと、これから背負わされるものの重さ。それが具体的に何なのかは分からないけれど、ハンスさんの言葉が胸に重くのしかかる。
「それが政治というものよ、リーシャさん」
エリーゼ様の声色が、ふと真面目なものに変わった。先ほどまでの甘い雰囲気は消え、そこには一人の「貴族」の顔があった。
「貴女たちが望むと望まざるとにかかわらず、この国は貴女たちを放っておかない。…いいこと?王都は今、前線とは別の意味で『戦場』なのよ」
「戦場…ですか?」
エミリアが不安そうに聞き返す。
「ええ。現在のリュクスカイン王国は、一枚岩ではありません。貴女たちも知っている通り、今の王宮は不安定な状態にあるわ」
エリーゼ様は、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと語り始めた。
「現在の君主であらせられるオーレリア女王陛下は、まだ十歳。聡明な方だけれど、即位して日が浅く、その権力基盤は盤石とは言えない」
「はい。だからこそ、王太后陛下とマクシミリアン公爵閣下が摂政として支えておられるのですよね」
マルセル先輩が確認するように言う。学院の授業でも習う基礎知識だ。
「その通りよ。エレオノーラ王太后陛下と、その御父上であるマクシミリアン公爵閣下。この『王家・公爵ライン』こそが、ガルドラム王国に対して断固として国を守り抜く姿勢を保っている。そして『抗戦派』の要であるアルトリーベ侯爵、ルシアさんのお父様ね。それと、私の叔母様…ミラボー伯爵夫人。この四人が、今の王国の柱と言っていい」
「なら、国は一つにまとまっているんじゃないんですか?」
私が尋ねると、エリーゼ様は悲しげに首を振った。
「そう単純ではないの。…王都には、彼らを良く思わない勢力がいる。貴族の有力者たちを中心とした『和平派』よ」
「和平…戦争を終わらせるってことですか?それは悪いことじゃ…」
「言葉の聞こえはいいけれどね。彼らの言う和平とは、ガルドラムへの恭順…つまり、国の領土や主権、あるいは女王陛下を人質として差し出してでも、自分たちの領地と財産を守ろうとする『売国』のことよ」
場が凍りついた。
国の上層部が、敵に国を売ろうとしている?命懸けで戦った私たちの後ろで?
「ルシアちゃん。貴女のお父様…アルトリーベ侯爵がなぜ、軍務省の要職にありながら王都に戻らず、自らの領地である北方の最前線に張り付いているか分かる?」
「…父上は、現場指揮を重んじる軍人ですから」
「それもあるわ。でもね、彼のような実力ある『抗戦派』の将軍が王都にいると、和平派の貴族たちにとっては邪魔なのよ。だから、『前線で指揮を執れ』という名目で、体よく中央から遠ざけている側面もあるの」
ルシア先輩が、悔しげに拳を握りしめた。ふと見ると、クラウディウスもどこかバツが悪そうに視線を逸らしている。彼はプライドの高い名門貴族の出だ。もしかしたら、自分の家や知り合いの中に、そういった派閥の人間がいるのかもしれない。
「王都は今、幼い女王陛下を必死で守ろうとする公爵たちと、国を売ってでも保身に走る貴族たちの綱引き状態。そこに貴女たちが現れた。…『学生だけで敵の最新鋭機を撃破した英雄』としてね」
「あ…」
私は息を呑んだ。
マクシミリアン公爵にとって、私たちは喉から手が出るほど欲しい「戦意高揚のカード」だ。
逆に、和平派にとっては、「ガルドラムには勝てない」という自分たちの前提を覆す、目障りな存在になる。
「公爵閣下は貴女たちを希望の星として掲げるでしょうね。けれど、それを消そうとする闇もまた、確実に存在するのよ」
エリーゼさんの瞳には、冷徹な計算と、年長者としての深い慈愛が同居していた。
「怖がらせてごめんなさいね。でも、知っておいてほしかったの。貴女たちが足を踏み入れようとしている場所が、そういう伏魔殿だということを」
「…」
私たちは言葉を失った。
シヴァルリィで戦う方が、よっぽどマシかもしれない。敵がはっきりしている分だけ。
「だからこそ…今のうちに、子供の時間を楽しんでおきなさい。政治の矢面に立つのは、私たち大人の役目。守れるうちは、私が守ってあげますからね」
そう言って微笑む彼女は、やはりルシア先輩の親戚なのだなと思わせる、芯の強さを感じさせた。
「…ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
不安は消えない。けれど、味方がいるという事実は、少しだけ心を軽くしてくれた。
◇
食事を終え、交代の時間まで仮眠を取ろうと個室に戻る途中だった。ふと、窓の外の気配が変わった気がした。荒野の乾いた風の音とは違う、何かもっと湿り気を帯びた、重厚な気配。
私は足を止め、通路の窓に駆け寄った。
「リーシャ、どうしたの?」
エミリアもついてくる。
薄暗い荒野の向こう。地平線の彼方が、ぼんやりと明るくなっている。
朝が来るのではない。
あれは、街の灯りだ。
「…見て、エミリア」
「あれが…」
息を呑む。
灯りだけ見てもミラボーとは比べ物にならない規模なのがわかる。歴史と権威、そして欲望と陰謀が渦巻く場所。
「王都、ヴェラム…」
エミリアが呟く。
隣でセラフィが、珍しく神妙な顔でその光景を見つめていた。
「ほう。人間もなかなかやるではないか。あそこがおぬしらの新しい戦場か」
「戦場…うん、そうなのかも」
不安になった私は、胸元のペンダントを握りしめていた。




