第2話 ルートゼロ
地下はいつも夜だ。
エレベータが止まると、乾いた油と金属の匂いが一気に近づく。天井は低いが、壁の光帯が遠くを見せる。人は多い。目が速い。ここでは用のない滞在が嫌われる。
「右、保守回廊。物流ゲートDに出るよ」
ルミが回線の向こうで図面を重ねる。「簡略レーンがボトルネック。通せるなら七分で抜ける」
瑞希は頷き、小春の歩幅に合わせた。鷹取 仁は斜め後ろ、視線だけで死角を測る。
回廊の窓から“裏側”がのぞく。折りたたみ椅子、印刷された導線、吊り下がる注意書き。
その一枚に目が止まった。
運営事前審査済/再検無し
「無し、漢字だな」鷹取。
「掲示の癖」ルミ。「内側の手」
瑞希は小春に短く告げる。「定義を使う。あなたの番だ」
ゲート前は三本のレーン。
左:一般。中央:簡略。右:特別警護。
中央の頭上で、古い時計が鳴った。
簡略レーン突破まで 7分
「作戦」
ルミ:「笑って雑談。時間を稼ぐ。私が監視にノイズを混ぜて、検査端末を一瞬落とす」
鷹取が喉の奥で笑う。「人が悪い」
「都市が悪いんだよ」
瑞希は小春の仮通行証を確認。端のホチキスが湿っている。手を添えて整えた。
簡略レーン突破まで 5分30秒
列が詰まる。係員の目が瑞希と鷹取で止まる。「同伴は?」
瑞希:「運営支援。動線のトラブルで、簡略の再確認を」
係員は端末を開く。
ルミ:「今」
ゲート上のカメラがわずかに焦点を失い、係員の端末が一瞬だけ固まる。
周囲のざわめきが端末の時間を上書きする。
簡略レーン突破まで 4分10秒
小春が一歩前に出た。
声が震えかけて、それでも出た。
「再検無しの定義は、事前承認済の標準規格品・封緘未破損・時間帯適合、です。巻物型の二本は規格外で、事前ファイル未登録。——再検に回します」
係員が反射的に言い返す。「上が通せと——」
「上長承認が台帳に無い荷は簡略適用外です」
小春、言い切った。
瑞希は横目で見て、心の中で頷く。他人の言葉ではない。自分の判断で押した声だ。
簡略レーン突破まで 3分
鷹取が肩で示す。長尺ケースが二本、列に紛れている。
ラベルの印字は荒い。角が妙に硬い。
瑞希は近づき、箱の匂いを嗅いだ。甘い油が薄く上がる。ブタンではない。
「匂い系」
鷹取が低く応じる。「通したい奴がいる」
簡略レーン突破まで 2分
係員の上へ、上司が降りてくる。腕章と口角。
「スポンサーが急いでいる。再検無しで——」
小春が掲示のプレートを指でなぞる。「無しの定義はここに。例外は上長承認。記録を残してください。私の名前で結構です」
瑞希はその一言で、彼女が成長したことを理解した。責任の置き場を、自分に引き取った。
簡略レーン突破まで 1分
ルミ:「監視復帰まで残り一分。争いを増やさないで」
瑞希は係員に短く頭を下げる。「事務室で照合します。一般レーンに回して。こっちは流す」
押し問答の熱が、決裁語の冷たさに負ける。現場は規定に弱い。
簡略レーン突破まで 30秒
長尺ケースが一般に移され、列がわずかに流れ出す。
鷹取が耳元で囁く。「一本、裏導線に逃げた」
瑞希は頷き、視線だけで合図。追うのは後。今は通す。
簡略レーン 突破
ゲートを抜ける。七分ちょうど。
背後で係員のため息が弾け、上司の声が遠ざかる。
ルミ:「よし。簡略の穴、一度分は塞いだ」
保守通路に入ると、音が落ちた。壁の金属板が指の脂で柔らかく光る。
「兄のとこへ」瑞希。
小春は頷く。喉元が細く波打つ。
「暗転テストの手順、今なら書き換えが効くはず」ルミ。
ドアは二重施錠。小春のカードが一度弾かれ、二度目で通る。
狭い制御室。ラックが並び、電源監視のパネルが光る。机の上に紙コップと工具。
兄が振り向いた。痩せた指。板挟みの目。
「小春? どうして——」
「危ないから。今日が」
小春は言い切り、瑞希の方を見た。
瑞希は名乗らない。運営支援の顔で、パネルに目を走らせる。
「暗転は十五分枠。実動は七分?」
兄は頷く。「スポンサーの都合で、短い暗転がいいそうだ」
鷹取が鼻で笑う。「映像の段取りは安全より上」
瑞希はスケジュールのバーに指を置いた。暗転前後、監視カメラは低感度に落ち、非常灯だけが生きる。匂いの刃を通すなら、そこで。
「五分、前倒しできる?」
兄はためらう。「怒られる」
「怒らせろ」鷹取。「上に怒られるより、下で死ぬ方が悪い」
兄は逡巡の末、キーを叩く。バーがわずかに左へ滑った。
ルミ:「同期取れた。工事通路、今なら開く」
制御室を出る前、瑞希は机上の紙コップに視線を落とした。
古新聞がコースター代わりに敷かれている。アルファベットの落書き。
Rの脚だけ、内側に返っている。
胸が、ひと呼吸遅れてきしむ。
——市場の路地。
祐子は指の腹をインクで黒くして、「Rはね、帰り道を作る字なんだよ」と笑った。
「脚をちょっと内側に返すと、帰って来たみたいになるでしょ」
気まぐれの天使は、指先で帰路を作る。
瑞希は視線を上げた。今作る帰路は、人の流れだ。
「行く。中心へ」
保守回廊の奥、工事用通路の緑灯が点滅する。
七分の次の七分が、腹の底で静かに始まっていた。