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第1話 冷光

不景気は匂いを変える。

古い排気と塩素の混じった、この街の空気は、ここ数年でいっそう鉄の味を濃くした。飢えた視線、抜け落ちた歯、強欲な政治家の笑い皺。地上は殻、若者は地下都市ルートゼロへ沈む。殻は軽く、芯は重い。そんな逆転が常識になっていた。


瑞希は走っていた。

高架下の斜路。雨に洗われた路面が鈍く光る。先行の民間武装オペが一人、角で倒れている。通信は生きている。耳の中に低い声。


「正面が詰んだ。西の抜け道、塞いだ方が早い」


鷹取 仁の声だ。

弾む息の向こうで、いつも通りの乾いた調子だった。


「了解。三十秒で入る」


路地を切る。瑞希は動脈の位置や重心を計算するより先に、目の前の男の手首を撃った。金属音。落ちた短銃を足で払う。背後からもう一人──肩で壁に叩きつけ、頸動脈の圧迫で三秒眠らせる。声は上げない。暴力は最小で、多分もっとも冷たいやり方で。


「確保。二名。もう一人は?」


「屋上。俺が落とす」


乾いた音。上から転げる影。

足元に転がった皮手袋の男が喘いだ。鷹取が影から出てくる。古いコート、擦れたブーツ。目だけが若い。


「ひゅ〜っ。いつにもまして、ハードだな」


「検挙件数、今月まだ足りない」


瑞希は淡々と答えた。

数字は盾。情け無用というレッテルも、盾。自分で選んだ武装だ。そうしないと、二年前から続いている渇きに負けてしまう。


耳の中で、別の声が割り込む。軽いが、刺すような早口。


「瑞希、ルミ。今の確保、裏で拾った断片から続報。——灯心が近いよ」


コードネームが、空気の温度を下げた。

灯心。誰とも組まない。一匹狼の設計者。テロの声明はいつも洗練され、何より静かだ。だからこそ恐れられる。


鷹取が鼻で笑う。


「例の奴か。話には聞いてるが、姿を見たやつはほとんどいない」


「見えているものだけが真実じゃないって、ね」


ルミの声が少しだけ遠のく。監視網の切り替えだ。

瑞希は落ちていた布袋を拾い、ざっと中身を改めた。粗悪な部品、古いタイマー、そして——小箱。掌で転がすと、軽い音。開ける。


ライターだった。古い真鍮。蓋の内側に刻印。

HAPPY BIRTHDAYの文字が、薄く擦れている。胸が、一呼吸遅れてきしんだ。


——雨上がりの市場。

段ボールを二つ重ね、祐子はそこをベンチに決めた。「ここが一番、風の音がいい」

紙コップの珈琲を片手に、彼女は古新聞の余白にアルファベットを落書きする。Rの脚だけ、やたらに時間をかける。

「ほら、ここ。ちょっと内側に返すと、可愛い」

気まぐれで組んだベンチは傾いて、祐子は笑った。ふわりと立って、風の向きに合わせて段ボールをずらす。即興の天使。

——音が戻る。


「瑞希?」


鷹取が気付く。答えようとしたとき、路地の口で、小さな悲鳴がした。


振り向くと、女が一人、壁に手をついてこちらを見ていた。

濡れた髪、眉の形、眼差しの速度。顔立ちそのものが似ているわけじゃない。なのに、空気が一致していた。瑞希の喉が勝手に言葉をこぼす。


「……祐子」


「祐子?」


鷹取が眉を上げる。女は一歩よろめき、瑞希の胸に寄りかかった。雨の匂い。骨の薄さ。瑞希は腕で受け止めたが、手が震えた。


「小春っていいます。すみません、急に……人に追われて……」


息が詰まる。

瑞希は彼女を壁際に座らせ、周囲を確認した。尾行の残り香はない。ルミの声が、事情を見透かしたみたいに軽く告げる。


「瑞希の——死んだ彼女。祐子に、雰囲気が似てる」


言葉が、雨粒よりも鋭く刺さる。

鷹取は視線だけで瑞希の顔を計ると、短く吐き出した。


「嫌な予感がするな。すべてが二年前に向けられている」


二年前。

誕生日。ライター。血の匂い。

瑞希は箱の蓋を閉じ、ポケットに押し込んだ。


——薄い作業場。

彫金の店の奥、祐子は見よう見まねで刃を握っていた。

「左に、ちょっと傾ける。ね、こう」

刃先が真鍮を撫で、Rの脚が微かに内側へ返る。「うん、これ。可愛い」

店主は渋い顔で肩をすくめ、「器用だね」とだけ言った。

祐子は火を怖がらなかった。アルコールランプの青を、じっと見つめて言う。

「火は怖くない。灯せる人が持てば」

——刃の光が、雨の反射にほどけて消える。


「小春さん、ここは危ない。移動する」


「……あの、地下に用があって。《ルートゼロ》の中心区画にいる兄を——戻るよう説得しに行くところでした」


地下。中心。

瑞希と鷹取は視線を交わした。ルミがすぐに挟み込む。


「タイミング悪いね。今週末、地下で大規模イベントだよ。都市機能の要人が揃う。よりによってそこに、これが来た」


数秒の沈黙のあと、端末に一枚の画像が落ちた。

声明文。フォントは素朴で、文体は簡潔。だが、意図は明白だ。


 人が集まる日、

 心臓は底にあり、灯は中心に落ちる。

 避難の余裕はない。——灯心


「挑戦状、だな」


鷹取が低く言う。

瑞希はスワイプして文末を拡大した。句読点の打ち方、漢字の選び、行間。静物画のような冷たさ。それなのに、隠せない熱。


「ルミ。出処は?」


「明示的には匿名掲示板経由。でも流入経路が変。内部からのリークと外部の拡散が同時に走ってる。政治家の広報の文体も混じってる。誰かが“舞台”を作ってる感じ」


瑞希は小春に目を戻した。

濡れたカーディガン。握りしめた、紙切れ。そこには、イベント運営会社の仮通行証がホチキス留めされていた。


「あなた、その仕事で中心区画に入れる?」


「搬入ルートのロジスティクスです。荷改めの簡略化レーンがあって……私、認証の手伝いを……」


鷹取が舌打ちした。


「穴だ。そこで仕掛ける気だ」


ルミの声が、急に真面目になる。


「瑞希。あなたが動くなら、今回は“件数”じゃなく現場で決めて。避難は——間に合わない」


瑞希は短く頷いた。

二年前の夜が、足元の水たまりからこちらを見上げる。

灯心。灯の芯。火の中心。火は、触れ方で灯にも武器にもなる。そんな噂を、一度だけ聞いた気がした。


「鷹取、装備を替える。小春さんは保護対象。ルートゼロへ入る」


鷹取は肩をすくめ、笑っていない目で笑った。


「了解。……お嬢さん、気付いてないみたいだが、あんた、かなり厄介な連中に目をつけられてる」


小春は固く首を振った。


「兄を連れ戻すだけです。本当に、それだけ」


それだけ。

瑞希はポケットの中の小箱を握った。指の腹に、削れた刻印のざらつきが触れる。

HAPPY BIRTHDAY。

——雨宿りの高架下。

祐子はポケットから、この真鍮を取り出して、瑞希の手に押しつけた。

「指、冷たい。ほら、借りて」

蓋は開けない。ただ角を撫でて、瑞希の手を包む。「火はあとでいい。今は、あったかいって決めればいい」

彼女はそう言って、濡れた髪をゴムでまとめた。結ぶ位置はいつも気まぐれだった。

——雨が強くなる。遠くで信号が滲む。瑞希の胸の奥に、小さな熱が灯る。


「行こう」


三人は高架下を抜け、地下へと続くエレベータへ向かった。

地上は夕暮れ、地下はいつも夜。

扉が閉まるわずかな隙間に、瑞希はもう一度だけ空を見た。薄い雲の向こうで、街の灯りがぼやける。灯は、触れ方で変わる。

そして瑞希は、冷たい指先で火を選ぶ方の自分を、そっと胸の底に押し込んだ。


扉が滑り、降下が始まる。

《ルートゼロ》までの距離は、数字でしか表示されない。

数字は盾だ。だが、盾は時に視界を狭める。

音もなく、彼らは腹の底へ運ばれていった。次に開く扉の向こうに、挑発的な静けさと、二年前の亡霊——気まぐれな天使の笑い声が、まだ微かに残っていることを、瑞希はもう知っていた。

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