エピローグ 永遠の調べ
年月は流れ、レオナルドとサビーノは共にピエタで教師となった。1710年代、ヴィヴァルディの指導の下、彼らはピエタの音楽プログラムの中心人物へと成長した。レオナルドは「マエストロ・ディ・ヴィオリーノ」、サビーノは「マエストロ・ディ・ヴィオラ」という肩書きを得て、次世代の少年たちに音楽と友情の素晴らしさを教えた。
当時のピエタの教師たちの装いは、一般の少年たちよりも少し格式の高いものが許されていた。レオナルドとサビーノは、優雅な「ジュストコール」と呼ばれる長めの上着を好んで着用した。これは当時フランスから伝わった、膝丈の上着で、豊かな刺繍が施されたものだった。レオナルドは青を基調に、サビーノは緑を基調にした色合いを選び、互いの個性を尊重しながらも、しばしば似たデザインの服を身に着けることで、二人の絆を静かに主張した。
彼らの髪型も年と共に少し変化し、「パリュック・ナチュレル」と呼ばれる、自然な髪を生かしたシンプルなスタイルを好むようになった。ポケットには常に互いの楽器の弦を入れ、それは二人の間だけの秘密の証となった。二人の部屋は隣り合っており、夜には壁を隔てて互いの存在を感じることができた。
1710年春、ヴィヴァルディは二人に新たな挑戦を与えた。「四季」の完全版の初演に向けて、レオナルドをソロヴァイオリニストに、サビーノをビオラ・ダモーレ(愛のヴィオラ)の奏者に指名したのだ。この大規模な協奏曲は、ヴィヴァルディの代表作となる運命にあった。
「この曲は私の心の中で長い間熟成されてきた」
ヴィヴァルディは二人に説明した。彼の赤い髪は少し白いものが混じるようになっていたが、その目は以前と変わらず情熱に満ちていた。
「そして、それを完成させるのに最も相応しい演奏者が見つかった。君たちだ」
レオナルドとサビーノは名誉に感激し、全力でこの新しいプロジェクトに取り組んだ。ヴィヴァルディの「四季」は、彼らの人生と不思議な共鳴を持っていた。春の出会い、夏の共鳴、秋の試練、そして冬の再会—それは彼らの物語そのものだった。
「四季」の初演は1711年の復活祭に行われ、ヴェネツィアの音楽界における一大イベントとなった。レオナルドのソロヴァイオリンの演奏は特に賞賛され、サビーノのビオラ・ダモーレの響きは聴衆の心を打った。二人の音楽的対話は、曲の意図を完璧に表現し、自然の移り変わりと人間の感情の関係を鮮やかに描き出した。
この成功により、レオナルドとサビーノの名声はイタリア中に広まり、彼らは時折ヴェネツィアを離れて演奏旅行に出かけるようになった。ローマ、フィレンツェ、ナポリ—イタリア各地の宮廷や教会で彼らの演奏は称賛を受けた。
それでも彼らは常にピエタに戻り、若い音楽家たちを育てることを使命と考えていた。二人の指導は技術だけでなく、音楽への愛と献身、そして友情の価値についても教えるものだった。
「マエストロ・レオナルドとマエストロ・サビーノは、ただの教師ではない」
ある生徒は後に回想録に書いている。
「彼らは私たちに音楽の魂を教えてくれた。二人が一緒に演奏する時、それは単なる音ではなく、二つの魂の神聖な対話だった」
---
1720年代、二人は30代半ばになり、ピエタの伝説的な存在として確固たる地位を築いていた。彼らの生活には安定と調和があり、音楽とその教育に捧げられていた。
この頃、レオナルドは小さな作曲活動も始めていた。彼が作る曲は、サビーノのヴィオラのために特別に書かれたものが多く、二人の深い理解と感情が込められていた。
「あなたの曲はいつも私の心に直接語りかけてくる」
サビーノはある日、レオナルドの新作を演奏した後に言った。
「それは私のためだけに書かれたもののようだ」
「そうだよ」
レオナルドは微笑んだ。彼の金褐色の髪は少し色褪せ始めていたが、青い瞳は変わらず明るく輝いていた。
「君の魂に向けて書いている。だから、君にしか本当の意味は理解できないんだ」
彼らの関係は、長年の間に一層深まり、成熟していた。初めて出会った少年時代の熱烈な感情は、静かで深い愛情へと変化していた。それは言葉を必要としない理解、存在そのものへの感謝、そして無条件の支えあいだった。
彼らは共に孤児院の小さな中庭に香りのよいハーブの庭を作り、余暇にはそこで静かに過ごすことを好んだ。レオナルドはローズマリーを、サビーノはセージを特に大切に育て、それらのハーブの香りは二人の部屋に常に漂っていた。
「香りは音楽と同じだね」
サビーノは庭の小さなベンチに座りながら言った。
「目に見えないけれど、心に深く染み込む」
レオナルドは頷き、彼の肩に手を置いた。その手には年月の痕跡が刻まれていたが、その触れ方は若い頃と変わらず優しかった。
「僕たちの音楽も、そうあってほしい」
彼は静かに言った。
「聴く人の心に残り続けるような」
---
1740年代、レオナルドとサビーノはピエタの伝説的な存在となっていた。彼らの指導を受けた少年たちは、ヨーロッパ中で名声を博すようになり、その伝統は世代を超えて受け継がれていった。
ヴィヴァルディが1741年に亡くなった後も、彼の音楽は二人の演奏によって生き続けた。特に「四季」は、彼らのレパートリーの中心的な作品となり、二人の解釈は他の誰にも真似できない深さと感情を持っていた。レオナルドのヴァイオリンの輝かしい音色と、サビーノのヴィオラの豊かな響きは、完璧な調和を生み出し続けた。
年を重ねるにつれ、二人の外見は変化したが、その絆は決して薄れることはなかった。レオナルドの金褐色の髪は徐々に銀色に変わり、サビーノの黒髪にも白い糸が混じるようになった。顔には優しい皺が刻まれ、特にレオナルドの目尻には笑顔の証である細かな線が目立つようになった。彼らの指先は少し硬くなり、若い頃のような俊敏さは失われたものの、その演奏には若い時には持ち得なかった深い知恵と情感が宿るようになった。
1747年、二人に思いがけない訪問者があった。それはヨハン・セバスティアン・バッハの息子の一人で、ヨーロッパ中を旅する若き音楽家だった。彼はレオナルドとサビーノの評判を聞き、彼らの演奏を聴きたいと願ってピエタを訪れたのだ。
「お二人の音楽について、多くの話を聞いてきました」
彼は敬意を込めて言った。
「特に『四季』の解釈は、作曲者自身が指揮した時以上だと言われています」
レオナルドとサビーノは謙虚に頭を下げ、若き音楽家のために特別な演奏会を開いた。他の教師や上級生も参加し、ピエタの礼拝堂で小さな室内楽団を形成した。
彼らが演奏したのは、もちろん「四季」だった。四十年以上前に初めて触れたこの曲は、今や彼らの魂の一部となっていた。レオナルドは今でもソロパートを担当したが、時折サビーノに譲ることもあった。二人の間には完璧な信頼関係があり、それは長年の共演から生まれた特別なものだった。
演奏後、バッハの息子は深い感銘を受けた様子で二人に近づいた。
「素晴らしい演奏でした」
彼は感動で声を震わせながら言った。
「二人の音楽が一つになるとき、そこには言葉では表現できない何かが生まれます」
レオナルドとサビーノは微笑みながら見つめ合った。彼らもまた、自分たちの音楽に特別な何かがあることを知っていた。それは四十年以上にわたる友情と愛から生まれた、魂の調和だった。
「それこそ私たちが常に目指してきたものです」
サビーノは静かに答えた。彼の緑の瞳は年を経てもなお美しく、そこには深い知恵と満足感が宿っていた。
「二つの魂が一つの歌を歌うこと」
---
1750年代、ヴェネツィア共和国はその長い歴史の終焉に近づいていた。街には以前のような華やかさはなく、カーニバルも少しずつ色あせていった。しかし、ピエタの音楽の伝統は二人の献身によって守られていた。彼らは「Il Maestro d'Oro e Il Maestro di Smeraldo(黄金の師とエメラルドの師)」と呼ばれ、ピエタの歴史に名を刻んでいた。
レオナルドとサビーノは60代に入っていたが、まだ現役の教師として活動していた。彼らの教え方は、年と共により洗練され、忍耐強くなっていた。身体的な衰えは避けられなかったが、彼らの精神と音楽への情熱は少しも衰えていなかった。
二人が年老いても、その絆は決して薄れることはなかった。むしろ、年月を共に過ごすことで、互いへの理解と愛情はさらに深まっていた。彼らの近くにいた少年たちは、二人が肩を寄せ合って楽譜を読んだり、静かに語り合ったりする様子を目撃することがあったが、それは「兄弟のような友情」として理解されていた。
1755年、レオナルドは肺の病に苦しむようになった。寒い冬の湿気は彼の体調を悪化させ、時には演奏や教えることさえ困難になった。サビーノは献身的に彼を看病し、可能な限りの仕事を代わりに引き受けた。
「無理しないで」
サビーノはある日、咳に苦しむレオナルドに言った。彼の目には深い心配が浮かんでいた。
「私が十分に仕事をこなせるから」
「でも、音楽は僕の命だよ」
レオナルドは弱々しく微笑んだ。
「それに、君と一緒に演奏することは、最高の薬なんだ」
そんな彼らを見て、ピエタの新しい楽長は二人のために特別な配慮をした。若い生徒たちが二人の部屋を訪れて個人レッスンを受けることを許可し、レオナルドが移動する必要がないよう手配した。また、彼らの部屋の間の壁に小さな扉を設けることも認められ、二人はより容易に行き来できるようになった。
1756年の春、レオナルドの健康状態が一時的に回復し、二人は久しぶりに合同演奏会を開くことができた。彼らが選んだのは、もちろん「四季」の「春」だった。それは彼らの最初の出会いの季節を祝う曲でもあった。
演奏前、レオナルドは若い生徒たちに語りかけた。
「音楽には、言葉にはできない力がある」
彼の声は弱々しかったが、その言葉には深い確信があった。
「それは魂と魂を結び付け、永遠の絆を生み出す。私とサビーノの音楽がそうであるように」
聖母マリアへのお告げの祝日に行われたその演奏は、多くの人々の心に残るものとなった。レオナルドのヴァイオリンは以前ほど力強くはなかったが、その音色には生涯をかけて培った深い感情と知恵が込められていた。サビーノのヴィオラは彼を優しく支え、時に主旋律を担い、時に調和を生み出した。それは彼らの関係の象徴的な表現だった。
演奏後、多くの聴衆たちが涙を拭いていた。彼らは単に優れた演奏を聴いただけではなく、半世紀にわたる友情と愛の証を目撃したのだ。
---
その年の秋、レオナルドの体調は再び悪化した。医師たちは彼に完全な休息を勧めたが、彼は最後まで教えることを止めなかった。サビーノは彼の側から離れず、できる限りの時間を共に過ごした。
12月のある静かな朝、二人は小さなテラスに座り、冬の太陽を浴びていた。レオナルドの顔は痩せ、青白くなっていたが、その青い瞳はまだ希望に満ちていた。サビーノは彼の肩に毛布をかけ、傍らに寄り添って座った。
「覚えているかい?」
レオナルドは静かに言った。
「最初に出会った日のこと」
「もちろん」
サビーノは微笑んだ。
「礼拝堂で一人練習していた私に、あなたが話しかけてきた。あの日から私の人生は変わった」
「僕もだよ」
レオナルドはサビーノの手を取った。
「君は僕に音楽の真の意味を教えてくれた。そして愛の意味も」
サビーノは涙を堪えながら頷いた。
「私たちの人生は、美しい調和の音楽のようだったね」
「そうだね」
レオナルドは空を見上げた。
「そして、その音楽はこれからも続いていく。僕たちの生徒たちを通じて、僕たちの音楽は生き続ける」
サビーノは深く感動し、レオナルドの手をさらに強く握った。
「愛している、レオナルド」
彼は囁いた。
「生まれ変わっても、また一緒に音楽を奏でよう」
「約束する」
レオナルドは微笑み、サビーノの頬に優しくキスをした。
「永遠に」
---
レオナルドは1757年の冬至の日に、サビーノの腕の中で安らかに息を引き取った。最後まで彼は音楽について語り、サビーノの手を握り続けていた。彼の最後の言葉は「聴こえるか? 天使の音楽が」だった。
葬儀はピエタの礼拝堂で厳かに執り行われた。多くの教え子たちや、ヴェネツィア中の音楽愛好家たちが参列し、彼の生涯と音楽に敬意を表した。サビーノは黒い喪服に身を包み、葬儀の間ずっと毅然として立っていたが、彼の緑の瞳には癒されることのない喪失感が浮かんでいた。
葬儀の終わりに、サビーノは一人で演奏した。彼が選んだのは、レオナルドが最後に作曲した小品「永遠の調べ」だった。それはヴィオラのための短い曲で、レオナルドがサビーノへの最後の贈り物として書いたものだった。
サビーノのヴィオラから紡ぎ出される音色は、悲しみと共に深い愛と感謝を表現していた。それは五十年以上の友情と愛の物語を語るようだった。演奏が終わると、礼拝堂には長い沈黙が訪れ、多くの参列者たちは涙を流していた。
レオナルドの死後、サビーノはピエタで教え続けたが、以前のような喜びや情熱は見られなくなった。彼は自分の仕事を忠実にこなし、生徒たちに最高の教育を与えたが、彼の緑の瞳から輝きが消え、その微笑みには常に哀しみの影がつきまとっていた。
彼は毎日、レオナルドの墓を訪れ、その墓石に新鮮な花を供え、時にはヴィオラを弾いた。そして夜には、レオナルドと過ごした思い出を日記に書き留めた。
「今日も彼の存在を感じる」
彼はある日の日記にこう記した。
「僕が演奏するとき、彼のヴァイオリンが応えてくるような気がする。私たちの魂の対話は、死によっても断ち切られていない」
サビーノは1762年の春、レオナルドの死後5年で彼の後を追った。最後まで彼は教え続け、レオナルドとの思い出と彼からの教えを次世代に伝えた。彼もまた、ピエタの礼拝堂で葬られ、レオナルドの隣に永遠の眠りについた。二つの墓石には同じ言葉が刻まれていた。
「Amicitia Musicae, Amicitia Aeterna(音楽の友情は永遠の友情)」
---
彼らの友情は、ヴェネツィアの永遠の調べとなり、ピエタの歴史の一部となった。二人が育てた音楽の伝統は、ナポレオンのヴェネツィア征服後もしばらく続いたが、1807年、ピエタは正式に閉鎖された。しかし、二人の教えを受けた音楽家たちは、ヨーロッパ各地で活躍し、その精神を受け継いでいった。
今でも、静かな夜にピエタの古い建物(現在は市営ホテルとなっている)を訪れると、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏が聞こえてくると言われている。特に満月の夜、運河に映る月明かりが銀の道を描くとき、かすかな音楽が風に乗って響いてくるという。それは永遠の友情の調べ、レオナルドとサビーノの魂が今もなお奏でる音楽なのだろう。
ピエタから巣立った少年たちの子孫たちの間では、二人の物語は代々語り継がれている。毎年冬至の夜、彼らはヴェネツィアの星空の下でキャンドルを灯し、レオナルドとサビーノを偲ぶ小さな儀式を行う。そして、ヴィヴァルディの「冬」の第二楽章、穏やかなラルゴの旋律が静かに演奏される。
彼らの物語は、音楽と詩と芸術が溢れる環境で育まれた純粋な友情の証として、ヴェネツィアの星空の下で今も語り継がれている。それは時を超え、人々の心に希望と美しさをもたらす永遠の調べなのだ。
実際のところ、1700年代のピエタの文書には、「特別な友情を持った二人の音楽教師」についての記述があるという。彼らの名前は歴史の中に埋もれてしまったが、その絆は何らかの形で記録に残されていたのかもしれない。
また、サン・マルコ美術館には、作者不明の小さな絵画が保管されている。それは二人の若い男性が楽器を持って向かい合う姿を描いたもので、背景には「Amicitia Musicae, Amicitia Aeterna(音楽の友情は永遠の友情)」というラテン語の文字が記されている。この絵の男性たちが誰であるかは定かではないが、その表情に宿る親密さと友情は、見る者の心を打たずにはいられない。
ヴェネツィアの古い街並みを歩くとき、風の中に微かに聞こえる音楽に耳を傾けてみてほしい。もしかしたら、それはレオナルドとサビーノの永遠の調べかもしれない。
(了)