最終話
「兼親くんありがとうね。俺誘ってもらっちゃって」
「いいですよ〜。おじさんとは俺も釣りしてみたかったので」
土曜日の早朝、私は兼親と伯父と共に早瀬川に訪れた。私は兼親から釣竿を借り、鮎の仕掛けをしていた。引き舟を伯父に任せ、しばらく兼親と伯父は雑談をしていた。
「兼親くんは仕事の調子はどうなんだ?」
「今施工しているのは市内の方のやつですね。施主、うちの親の知り合いらしいですよ。昔会った事あったみたいで、俺がでかくなったの驚いてました」
「一度見たら早々忘れないもんなあ。なんでときわ忘れてたのかが理解できん」
「本当そうですよ。ときわ本当に覚えてなかったのかよ」
「うん!!!」
「元気がいい返事だあ」
何度聞かれようともうんと声高に答えるつもりだ。本当に頭馬鹿なんだろうな。と自分でも思うのだった。
「おじさんって市内で仕事してるんですっけ」
「そうそう、婆さんと住むってなってから知り合いで人手欲しいつうんで、林業やってるよ。大体山の中入ってる」
「へえ〜、やっぱ夏はお互い暑いですけど、林業も中々体力使いませんか」
「前職とは大分違うけれど割と持ってるな」
「私は無職」
「早よ働け」
「イヤダー! 私は病人だー!」
釣竿をたまに引きながら話をいつ切り出そうかと考える。馬鹿話をしていた所で事態が変わる訳が無い。兼親を見ると、頷いてから、俺飲み物飲んできます。と告げ目線を寄越していた。それに話すのならば今だと伯父を見る。
……話したくない。非常に話したくない。しかし兼親の合図は今だと言っていた。話すしかないのか、と深く息を吸い込んだ。
「あ、あのさあおじちゃん」
声が裏返る。緊張している。ごくりと唾を飲み込み喉を湿らせると、なんだ〜と呑気な声が返ってきた。聞くべき、なのだろうか。本当に。という考えが頭をよぎったが、私が聞かなければ母が聞く事になるだろう。あの人はそうする。それは絶対に駄目だと理解している。体を壊すか、最悪未遂を起こす可能性だってある。私だったらそうすると思う。親子なのだから、分かるのだ。
「か、柑南の事なんだけれど」
「ん」
「柑南……多分おじちゃんの子供、なんだって」
「へえ?」
怖い。顔を見るのが怖い。水面を見つめたまま話を続ける。煌めく水面の視界の端に魚影が見えた。
「母さんが、DNA検査して、母さんの兄弟が父親の可能性が高いって、書いてあった。昔、あの、うちの実家来た時、姉ちゃんと二人きりになった時、あったでしょ。それで、その、その時、なんかやった?」
「どうだったかな」
「ど、どうだったかなじゃなくて」
「知った所でお前どうすんだ」
「……それは」
思わず口籠る。確かに確かめる必要なんて無い。結局気持ちの問題だ。伯父を恐る恐る見ると、真顔でこちらをじっと見つめていた。
「柑南が俺の子供だったとして、問題があるのか」
「す、少なくとも母さんにはあるでしょ。自分の孫なんだから」
「だとしても知った所で既に産まれているのならどうしようもないだろう」
「な、なんでそんな突き放す様な言い方な訳。おじちゃんだけの問題じゃ無いんだよ」
「お前おばちゃんに言うつもりなのか」
「言わないよ!」
「じゃあどうでもいいだろ」
そんな訳があってたまるか。食い下がる様に言葉を続ける。
「姉ちゃん死んだ時泣いてた癖になんでそんな他人事みたいなんだよ」
「俺の子供とは思っていなかったし」
「だからって、何なのその言い方」
「はあ〜、面倒くせえ」
「はあ!?」
伯父の物言いに腹が立った。自分の子供かもしれない柑南を面倒臭いだなんて、と。
「柑南が俺の子供だったとして、柑南に明かす訳でも無いんだろう? ちあきの死んだ理由も知らないんだし、問題押し付けるな」
「だっ、だってあんたの問題でもあるでしょ! 姉ちゃん分かってたんじゃないの、おじちゃんが父親だって。責任はあるでしょ!」
「あいつが弱かったから勝手に死んだだけだろう?」
そのひと言で、ああ、この人とは絶望的に分かり合えないと腹の底が冷え切るのが分かった。釣竿を投げ捨てて、伯父に近寄り襟首を掴んだ。
「何なんだよその言い方……! あんた本当に、サイッテーだな」
「どうとでも言えよ」
「じゃあおばちゃんに言う! もうぐちゃぐちゃになっちゃえばいい! あんたなんか、どうでもいい。全部失えばいい」
「…………」
伯父の冷め切った目が私に降り注ぐ。ぐん、と襟首を掴まればしゃ! と水の中に頭を押さえつけられる。がぼがぼと口から息が漏れ出す。川に顔を押し付けられたと一瞬で理解しもがくが力で勝てる訳が無い。水を吸い込んでしまい意識が遠くなりかける。ふとあいつを思い出した。死んでしまったあいつを。
……別に死んでしまってもいいんだ。私はこの地を終の寝台にしたかったのだ。それに行く先はどうせ地獄だ。あいつだって地獄に居るさ。抗うのを辞めて脱力すると共に、一気に水面から引っ張りあげられる。
「何してんだ馬鹿!」
「おえっ、がふが、げほ」
耳に入ってきた怒声に意識が覚醒する。口からばしゃばしゃと水が流れ出すと肺に一気に空気が入ってくる。えづきながら何とか呼吸を整えようとすると、空高くに影が見えそちらを向いた。川の水なのか涙なのか、水が混ざりあったぼやけ気味の視界に入ったのは、伯父が空高く飛んでいる。
派手な水音を立て伯父は川に沈んだ。一寸間が空いて伯父が咳き込みながら起き上がった。辺りに私と伯父が咳き込む音だけが響き渡る。
「なっ、な。げほ、何したん」
「お前を助けたんだろうが!」
「ええ、じゅ、獣人ってあんな人吹っ飛ばせんの……」
四、五メートルは宙を飛んでいた。息を整えながら溢せば呆れた様な口調の兼親が私の頭を小突く。
「お前意識無くなったのかと思ったけど、元気そうだな」
「あ、ああ? なんで」
「脱力してたから逝ったのかと思ったんだよ馬鹿野郎」
「あー、死んでもいいかと思って」
別に伯父に殺されたら殺されたで、伯父の所業が明るみに出るだけだ。私如き死んだ所で悲しむ人間は少ないのだから。
ばしり、と頭をひっ叩かれて兼親を見上げようとすると、兼親は川から体を起こし咳き込む伯父の方へと向かって行った。
「おじさん。さっきの全部スマホで撮ったから」
「…………」
「今後なんかやったらこれ警察に見せるから、よろしく」
「はは……姉が尻軽だと妹も頭空っぽなんだな。こんな事ただの幼馴染如きに相談していたって事は」
「何? もう一回ぶん投げられたいの? おじさん」
がるる、とどこから出ているのかと思う獣染みた唸り声で伯父を威嚇する兼親に伯父はゆっくりと川から体を起こし、河原へと向かって行った。兼親は伯父に続き伯父の腕をがし、と掴み引き止める。
「逃げるつもりなのかよ。ちいねえの事まだ聞きたい事がある」
「そ、そうだそうだ」
「さっきの反応で俺が関係を持ったのくらい分かるだろう」
「それでもだよ」
それだけで母が納得する筈も無い。聞きたいかと言われると聞きたくはないが、母が事細かに聞く前に私から聞き出すべきだ。兼親が捕まえているの元に足をもつれさせながら向かい、伯父の腕を掴んで無理矢理河原に座らせた。
濡れ鼠の私と伯父はウェーダーを脱いでそこらに放る。夏の日の日差しならばそう時間もかからず乾くだろう。川のさあざあ流れる音と蝉の鳴き声が辺りを包んでいる。聞きたい事を頭の中でなんとか纏めて伯父に問う。
「ま、まずさ、おじちゃん。関係持ったのって私んち来た時だよね。翔ちゃん達と来た時」
「ああ」
「最初五人で街案内で巡ってたけど、姉ちゃんとおじちゃんが私達と逸れたのって意図的にだったの」
「……偶然だ。ちあきと迷って、ホテル街に迷い込んだんだよ。そこで誘われて最初は断っていた」
「断ってたのになんで柑南が居るんだよ」
「ただの遊びのつもりだったんだよ。こっちは」
恐らく姉も遊びのつもりだったのだろう。遊びで姪と関係を持った事に気が遠くなる。弟に対し関係を持ったのも遊び。姉の所業を思うと無理矢理もあっただろうが、応じた伯父が憎くてたまらない。柑南を妊娠しなければ姉はこの遠野へと送られ、失踪扱いになる事もなかったのだから。死ぬ事も、なかったのだから。
柑南の存在が全てを狂わせてしまった。あの子に罪は無くとも、どうしようもない無力感に襲われた。
「おじさんは、ちいねえの事どう思ってたんだ」
「ただの姪だ」
「姪に女を見出す辺りその言い訳は通らねえぞ」
姉のしでかしが家族を崩壊へと導こうとしていた。姉も伯父も許す事は出来そうになかった。弟の存在だって許せない。諸悪の根源は姉だとしても、関係を許した二人に憎悪が渦巻いた。
「おじちゃん、私、やっぱりおじちゃんの事許せそうにもない。姉ちゃんから誘惑してきたと言え、応じたのは間違いだった」
「……俺もそう思うさ」
「おじちゃんが姉ちゃんと関係持たなきゃ、姉ちゃん死んでなかったんだよ……。なんでそんな事したんだよ。あんたいい大人だろ」
「双方合意の上だ」
「そんな言い訳通る訳ねえだろ! あんたなんか、居なきゃよかった」
ぐ、と目頭が熱くなった。片手で目元を抑える。
「姉ちゃんだって悪いのは分かるよ。でも、言い訳しないでよっ……」
伯父は無言を貫いている。殴ってしまいたい程の怒りが湧いていた。けれど殴れば伯父と同類になってしまう。そんなのは嫌だった。どれだけ悍ましい事をしたとしても、伯父は謝る事は無いと分かっている。そう言う人間だ。
「もう、訳わかんないよ……」
項垂れながら呟く。伯父は立ち上がって荷物類を持つと私に背を向けた。
「ときわ、お前はもう実家帰れ。うち帰って準備出来たら駅まで送る」
「は、はあ〜? 何、今更おばちゃんに言われるの怖くなったの」
「お前、伯父とは言えこんな奴と後一日顔合わせたいのか」
「……嫌ですけど……」
「だったら準備しろ。俺は先に帰ってる」
伯父はそれだけ言って本当に帰って行った。私は濡れ鼠のまま河原に座り込み膝を抱えていた。釣竿だったり引き舟だったりを回収してきた兼親が隣にどかりと座った。
「おじさん、馬鹿みたいだよな」
「そうだよ」
「……お前さあ。簡単に死んでもいいとか思うなよ」
「別にいいだろ。私の勝手だよ」
「そうだなお前の勝手だな。でもさあ!」
「何よ」
「……でもさあ……、お前居なくなったらつまんねーから、死ぬなよ……こう思うのも俺の勝手」
兼親の言葉を理解すると共に、私は膝に顔を埋めた。居なくなったらつまんねーから。なんて、くだらない理由だ。けれど、自分が一番求めていた言葉かもしれないと目頭が熱くなった。
「……その言葉。姉ちゃんにも言ってやりたかった。姉ちゃん居なくなってからつまんなくなっちゃったよ。って」
「うん」
「柑南残して死んだ理由とか、なんで伯父貴ととか言いたいこととか色々あるけど、姉ちゃん、馬鹿みてえな理由で死ぬのまで選ぶ事無かったよな。友達、あいつにだって死んでほしく無かったんだよ。つまんなくなるだろって、言いたかったんだ」
「……うん」
涙と鼻水が顎に伝ってきた。ぼろぼろと私は泣いていた。
「伯父貴みてえな奴が笑おうがどうでもいいよ。でも、本当は知ってんだよ。母さんとか父さんとか康之とか。柑南とか。兼親も、死んだらきっと傷になって、悲しむんだろうなって。最初っからあいつの事で分かってたんだよ。傷跡の血拭っても拭っても、拭えないくらい血溢れて、傷だって一生塞がらないんだって」
「分かってんなら……」
「で、でもざあっ。死んだらまた会えないかどか思っちゃうんだよ。姉ぢゃんにもあいつにもっ。泣いて会えるなら、世界の端っこにだって迎えに行くっげどさあ。でも端っこなんてこの世界には何処にも無くで、ただ消えるだけで……。全部消えちゃゔだけでっ、……お願いだから、涙だけでもいいから、姉ちゃんに届いてよ……」
ぶつくさ言いながら泣き喚いていると兼親は無言で私の頭に麦わら帽子を被せた。えぐえぐと泣きながら夏空の下で何をしているのだろうかと一瞬正気に戻ったが、涙は中々止まってはくれなかった。
「姉ちゃんに会いたかっだ。死ぬなんて形で会いたくなかっだ。ずっと、ずっど色が抜けた様な世界だった。もう一生会えないんて思いたぐながった。いつか、きっとまた会いに来てくれるって、思っていたかったのに、なんで。なんでだよおおお……」
兼親は黙って私の吐露を聞いていた。隣でずっと無言のままでも、今は吐き出してしまいたかった。
「私のせいで柑南はお母ざんを亡くしてさあ。どんな顔で今後接していけば良いんだよ。わかんねえよもう」
「お前に罪は無いとは言い切れない。だからこそ、ちいねえの事、許す必要はねえよ」
「でも、でもっ、やっぱり私のせいだ。私なんか存在するべきじゃなかったんだよ」
「だから、そこに行き着くなよ。ときわ、柑南にとってはお前はもう家族だろ。それこそ、お前が死んだら、今度は柑南が自分のせいかもしれないって思うだろ」
「……そうだけどさあっ」
「先の事なんて今は分からねえよ。でも、ちゃんと向き合うしかない。逃げるべきじゃない。それが残酷でも、お前はそう言う馬鹿正直な生き方しか出来ねえんだろ」
「正直者が馬鹿を見るって典型だろ」
「正直者で良いだろ。伯父と関係持って妊娠して、なんも言わずに失踪する様な姉貴よりかよ」
兼親が河原の石を川に放り投げる。じゃぽ、と水面が跳ねた。
じゃぽ、じゃぽん。と兼親の投げた石が生む水飛沫を涙まみれの目で眺める。暑い空気は川が近いからなのか多少涼しく感じられた。
帰らなきゃいけないんだな。私は。ここから。
この地が終の寝台。死地になってくれる事をずっと願っていた。姉が死んでからも、そう願っていた。ここで死にたかった。しかし生きなければいけないのだ。柑南が待っている。今はそれだけが、姉の遺した柑南だけが生きる理由になり始めていた。
兼親だって、私に生きてほしいと願っている。けれど、私はそれを叶えられると未だ断言する事は出来なかった。少しだけ、胸が軽くはなったが、兼親は所詮友人でしかないのだ。そうしてあいつも友人でしかなかった。
服があらかた乾き始めた頃合いで涙も止まりつつあった。長い事泣いていた。太陽が天辺に向かいつつある。川でばしゃばしゃと顔を洗って兼親に帰ろうと告げる。荷物を車に乗せてから兼親は何も言わずに車に乗り込み、私も助手席に乗り込んだ。
「伯父貴に会いたくない……」
「おじさんは兎も角、その顔おばさんとおばあちゃん見たら心配するだろうけど、俺と喧嘩したとでも言っておけ」
「うん……」
目は腫れているし声は鼻声だ。川で鼻をかんだが結局ぐずぐずのままだった。川から家まで大して時間もかからずに辿り着く。
「兼親、駅まで送ってってもらってもいい? 流石に伯父貴と二人きりはまだ怖い」
「いいよ。縁側で待ってるから、挨拶とか準備済ませたら来い」
「ありがとう」
兼親に一旦別れを告げてから、玄関の前で入るべきかしばらく躊躇した。つっ立ってても事態が変わる訳でも無し。からからと玄関を開けると伯母が顔を出した。
「ときちゃんどしたの!」
「……兼親と喧嘩した」
「そっかあ……お父さんもびしょ濡れで来たけど、他にも何かあったでしょ」
「んー、うん。あったけど、言えない」
「言いたくなったら言いなね」
これから帰るんでしょう? と伯父から聞いたらしい。深入りして来ない伯母に心の中で謝る。伯母を不幸にしてまで、私は事実を言う事は出来なかった。結局伯父に聞いたのだって自己満足でしかないのだ。伯母に不幸にはなって欲しくはない。ただ、伯父だけはどうしても今後も許す事は出来ない。
シャワー浴びてきなさい。との言葉に風呂場へと向かう。乱暴に体と頭を洗って出れば、新しい着替えが置いてあった。今日着ていた服は持ち帰りだな、と台所でビニール袋を探してそれに詰める。居間に行けば伯母が冷たいアイスコーヒーを淹れてくれていた。
「駅まで兼親に送ってもらう。仲直りもする」
「そっか。……ねえ、ときちゃん」
「なあに」
「遠野、また来てね。いつでも歓迎するから」
「……うん」
正直言って伯父に会うのは御免被りたいが、伯母と祖母には会いたい。今後遠野に来るにしても姉の家で寝泊まりする事になるだろう。一生関わらないと言う事は出来ずとも、多少なりとも会いに来る時間を作ろう。
荷造りに入り、着替えや化粧品などキャリーバッグに詰め込んでいく。お土産も忘れずに詰め込み、大して時間もかからずに準備は完了する。キャリーバッグを玄関に置いて、祖母に別れの挨拶をする。
「ばあちゃん今までお世話になりました」
「まだ来なねえ」
「うん、多分また来るから生きてろよ」
「私いづ死んでももうおかしくねがらね。冬にでもまだこ」
「うん、ありがとう」
来たら鍋すっぺしな。と祖母は深くシワの刻まれた顔で笑った。くちゃくちゃの顔を見て今は泣きつきたい程に祖母と離れるのが辛かった。ぐす、と涙腺が馬鹿になっているのか涙が出てきた。私に祖母はまだ会えるがら。と慰めようと肩に手を添えてくれた。
「おじちゃんさ挨拶してこ。会いたぐねがもしんねけど」
「……うん」
祖母にも伯母にも何かあったと察せられ、気を遣わせている事に申し訳なさが湧いてくる。二階さ居るがら。との祖母の言葉に、廊下に出て二階への階段を上がった。伯父がいるであろう部屋の前で、障子戸を軽く叩く。
「なんだ」
「帰る。兼親に送ってもらうから」
「そうか」
「私謝んないから、おじちゃんが謝っても謝んないから。絶対根に持つから。一生忘れずに恨み続けるから」
「……勝手にしろ」
「じゃあね。夜中に糞漏らせ糞爺」
ぎしぎしと音を立てながら階段を降りて玄関へ向かう。伯父は絶対に謝る事は無いだろう。だったら私だって子供染みていようが謝ってなぞやるものか。こっちは殺されかけたんだぞ誰が謝るか馬鹿野郎。
「おばちゃん、ばあちゃん帰るね〜」
「気を付けて帰るんだよ。長旅なんだから水分補給もしっかりね」
「まだね」
「ほいほい、でばね〜またね〜」
キャリーバッグとリュックを背負って家を出る。兼親の家に行けば縁側で腹を出した猫の様に兼親が寝っ転がっていた。
「兼親」
「準備出来たか〜」
車乗れよ。と起き上がって兼親宅の庭に停めてあった車の後部座席にキャリーバッグを乗せ、私も助手席に乗り込んだ。車が発進すると兼親が、なあ、と声をかけてきた。
「おじさん謝った?」
「謝る訳ねえだろ。プライドエベレスト級なんだから」
「何というか、結構やべえ人間だよなおじさんも。あれ本気で殺す気だっただろ」
「姉ちゃんのクソビッチ具合に良く似合ってるよ」
「あー……うん、ちいねえやばいよな。手当たり次第関係持とうとしてた所とか、死んだ理由とか、ときわに執着してる具合とか」
「うちの家系とんでも人間博覧会か?」
「あながち嘘とも言えないというね」
でもさあ、と私は橋から過ぎゆく川の風景を望みながら、呟く。
「どんだけ最悪の女でもさあ、私にとってはいい姉ちゃんだったんだよ。割り切れねえよ。……やっぱり」
「……兄弟の形も様々だし、俺から言える事はねえよ」
「うん」
市街地に入るとやはりいつ見ても閑散とした元商店街だ。シャッターが閉まっている元は店だったであろう建物が多い。駅に近くなるに連れて歩道を歩く人がぽつりぽつりと見え始める。駅のロータリーに車を停め、私は荷物を持って車を降りた。兼親も車から降りて共に遠野駅構内に向かう。電光掲示板には次の列車は十二時十七分と表示してあった。後三十分程だ。窓口で新幹線と混みの切符を買ってベンチに並んで座る。
「帰んないの」
「見送るよ。お前昼飯買ってかなくていいのか?」
「んー、新花巻着いてから買うわ」
「あそこなら多分蕎麦屋もあるだろうし、時間あるなら良いんじゃね」
構内は私達を含めて五人ほどの人間しか居ない。最後に兼親と話すのも良いだろう。
「この夏はお世話になりました」
「楽しかったよ。俺も」
「柑南とも遊んでくれてありがとうね」
「別に、やっぱり異種族って言うのは、他の人間と違って数も少ない。きっと心細かっただろうなって気になってただけ」
「ん……」
帰ったら柑南と生活を共にする事になるのだろう。ある意味新生活なのもあり不安もあったが、きっと大丈夫だろうと思い込む。
兼親には言うべきかどうか迷っていた事がひとつだけあった。柑南には言った事だったが、散々川で言ったし、と考え話を切り出す。
「私さあ、死ぬ気でここに来たんだよ」
「……ん」
「別にいつ死んだって良かった。けど柑南が現れちゃったから、もう出来ないなって。……どれだけ悲しいか、傷付くか解っちゃったから。それに、死んだらつまんねーって言ってくれる人も居るんだなって分かったから、やめとく」
「そうしてくれよ。寝起きが悪いのは嫌だからな」
「うん。兼親、ありがとう」
「なんか改まって言われると照れるな……」
兼親は金色の目を閉じて照れ臭そうに頬を掻く。来たばかりの頃なら照れ臭いなんて思っているなんて、表情からは分からなかった事だろう。大分黒豹の顔にも慣れた。
「また来るよ。柑南と一緒に」
「おう、そうしろよ」
に、と笑う兼親にくすくすと笑う。
「この世は地獄だと思っていたけれど、まあその評価は変わらなかったわな」
「お前そんな事思ってんのかよ」
「残される人間にとっては地獄だろう?」
何も殺す事が無かった人間なんてこの世には居ない。私が持っているのは仏教感の思考だが、他の宗教だったのならまた違うだろう。
「自分が地獄に堕ちないなんて思っている人間なんざ、頭お花畑野郎くらいなもんでしょうよ。正しき事を成せば天国へなんて、今までそれ以上に悪どい事やってたとして自分は必ず天国へって馬鹿かよ」
「分からんでもないけどさあ」
「信仰しなければその時点で地獄とか馬鹿らし」
飲み物買ってくる。とベンチから立ち上がり購買でお茶とコーヒーを買う。ベンチに戻って缶コーヒーを兼親に渡した。私もペットボトルのお茶をひと口含んだ。
「さんきゅ」
「ん」
「帰ったらさあ。なんかやりたい事あるのか」
「無いね。ただまあ仕事にはつかなきゃなとは思ってるから、なんかしらするよ」
「ふーん」
「兼親は大工頑張って。私も何か見つけられる様に頑張る」
「……そうだな。何始めるにしたって、遅すぎるって事は無い」
でももう三十路だよ〜。と泣き言を言うと、まだ三十路だろう。と返ってくる。
「うちの兄貴、今の仕事に着いたの三十過ぎてからだし」
「え、そうなの?」
「それまでふらふらしてたけどな」
「でも鳥人ってアドバンテージがある訳だし、私に当てはまるかねえ」
「別に人間だって出来るだろ。頑張るしかないけど」
ふーん、とだけ返して、しばらく駅構内の人の話し声だけ響いていた。
「……兼親は獣人で困った事ってある?」
「色々あるけど、服かな〜」
「服?」
「獣人用の服って言っても種族で色々違うからさ。尻尾の穴の場所とか。そういうの自分で加工するから裁縫スキル無駄にある」
「うわ、意外だわそれ」
「よく言われる」
ちまちまと裁縫をしている兼親を思い浮かべ思わず笑った。恐らく柑南の服もそうなのだろう。きっと姉が手を加えていたはずだ。
「笑うなよ」
「ごめんて、まあそりゃ服の加工しなきゃいけないって必然性があるのは確かに大変だわ。でも意外な面知れたな」
時間が迫ってくる。時計を見ると後十分程で列車が到着するだろう。この会話が終わってしまう事に寂しさを覚えた。
「冬に来たらスキーでもどうだ?」
「いいね。私運動神経全然だけど」
「柑南と康之くんは絶対良いよな」
「康之は運動得意だね〜。柑南も鳥人だし身体能力は高そうだ」
「ときわはソリで良いんじゃないか?」
「楽しそうだなソリ。でもあれあれ、スノーモービルとか乗りたい」
「そういうのやってる所ある筈だから調べとくよ」
「頼んますわ〜」
「わかさぎ釣りも良いだろ」
「いいねえ。ウィンターイベント盛りだくさんじゃん」
冬に来たら、ばあちゃんが鍋してくれるし、伯父貴に会う以外は良いイベントになるな〜。と溢す。
「また会おうね。幼馴染よ」
「お前変な気起こして死ぬなよバーカ」
「善処しましょう」
そこはしないって言うんだよ。と語気を強めて言われるが私はへらへら誤魔化しながら笑っていた。
駅構内に人が増えてきた。改札に向かう人も増え始める。私もそろそろホームに出るべきかと兼親に言えば、そうだな。と呟く。
「お前本当の本当に死ぬなよ」
「信用ねえな〜」
「お前居ないとつまんねーっつっただろ。柑南だってお前居なくなったらつまんねーって思うぞ。絶対」
「そこまで懐かれてるのか?」
「お前は柑南のお母さんの妹なんだから、そりゃそうだろ」
今まで存在知らなかったかも知れなくても、大切な存在になる。だから死ぬな。そう言われ、うん、とだけ呟いた。
「そろそろ行け」
「はいはい」
ベンチから立ち上がって改札に向かう前に、兼親に向かいあい小指を差し出した。
「約束の指切り」
「……おう」
ぎゅ、と力強く小指を絡ませ、それを最後に改札へと向かう。切符にスタンプを押され、振り返って改札の向こう側の兼親に手を振った。振り返された手を見てホームに並んだ。
スマホでLINEを開き、今更ながら母に今日帰るとだけ送る。少し待てばホームに列車が入ってきた。降りる人を待って乗り込み、空いていたボックス席に腰掛けた。列車が動き出すと同時に改札に目を向ければ兼親が手を振っていた。胸に寂しさが去来したが、これでいいのだ。と自分に言い聞かせた。手を振りながら列車が遠ざかってゆく。出会えば別れは必ずと言うのだから。
母からのLINEでどうしたのと送られてきたが、伯父の件で喧嘩をした。最寄り駅まで迎えに来て、とだけ送って私は外に目を向けた。街を抜け田園が広がり出す。非日常から抜け出し、私は歩いて行かなければならない。誰が死んだ所で世の中は変わらずに動いていく。生きるとはそう言う事だ。歯車が欠けた所ですぐに補填され、壊れた歯車は忘れ去られる。私もそうなるのだろうか。嫌だなあ。と窓に頭を預けながら呟く。
結局、ここは終の寝台になんてならなかったな、と車窓から街から離れていく風景を眺めながら思った。