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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1501年〜
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北からの報せ

評価・ブックマーク・感想・リアクション等ありがとうございます。


「身の程を弁える」の語源が仏法用語由来で、江戸時代には「結界わきまえる」として用いられたらしいのですが、投稿の遅れを考えて無視します。



◾︎武蔵国松山城付近


「大筒、本曲輪に着弾しました!」


 本陣に飛び込んで来た馬廻りの発言に、好奇心を抑えられず陣幕の外に出て城の様子を確認する。


「一目見ただけでは、何処に着弾したのかも分からんな。声の聞こえるあの辺りか?」


 手に持っていた扇で指し示す。

 目視では何も捉えられていないが、扇で指した辺りから喚声が聞こえる。

 

 砲撃は最初から山頂を狙ったものだった。

 当たらなくとも、山城のさらに頭上を通過する謎の物体というだけでこの時代の人間には効果大だと考えたからだ。

 

 ただし、大筒の弾には破裂しない弾を使用しているため、多くは土塀に突き刺さり、着弾しても柵や壁を破壊するだけに留まる。したがって、遠目から見ると大筒の効果は何一つ窺い知ることができなかった。


「左様にございます!」


 馬廻りが着弾点を教えてくれる。果たして、大筒はどのような結果を残したか。

 あ、煙が上がり始めた。


「あの煙の発生源が松山城の本曲輪になります」


 着いて来た高橋左近将監が煙の発生位置に関して付け加える。

 

 なるほど。あそこが本曲輪か。本曲輪が1番高いところにあるらしい。

 もしかしたら、扇谷上杉家当主上杉朝良も巻き込まれたかもしれない。


 これは流石に高望みのしすぎだな。

 当主が本曲輪にいるなんて創作の世界ではあるまいし。


「確かに山頂は狙わせたが、そんな簡単に当たるものか……?」


「何を仰られますか、御所様。一発だけの試し打ちならともかく、ゆっくりと角度の修正が可能な城攻めにおいて、御所様の開かれた学校は大きな意味を成していますぞ」


「大した事は教えていないはずだぞ、豊前守」


 左近将監同様、陣の外まで俺に付き従っている外山豊前守が大筒の命中の要因を学校に求める。


「これまで弓を使う者は自身の長年の勘を以て標的を撃ち抜いて参りました。されど、学校での教えは経験の差を埋める画期的なもの。御所様はそれを十分理解くださいませ」


 重力・浮力・慣性など、地球の理を知識として明文化しただけだぞ。

 古くは古代ローマの数多の知恵や技術に始まり、近代ではコペルニクスの地動説があるんだ。

 先に挙げた3つくらいこの時代の人間でも考え付くだろうに。


「分かった分かった。己の身の程を弁えるよ」


 『降参だ』と広げた両の手の平を掲げてみせれば、『何やってんだこの人?』みたいな視線を挟んだ後、諦めの視線を送られた。


 ジェスチャーの意味が伝えわってないな、これは。


 武器を持っていない。転じて、手(謀)は無い。


 戦場ならば武器を捨てる行為に降伏(降参)の意思表示が含まれるが、会話の末に手を上げる行為には降参の意思が伴わないものなのだろうか。


ーー実際に周囲の者からは、『御所様は何を言ってorやっているんだ?』と思われている。

ーー豊前守や左近将監といった古参の者などは『また(謎の奇行)か』と内心思っている。一応、『参った』に近いニュアンスだと理解している。


 そんなことを知らない俺は、大筒部隊に賞賛の言葉を伝えふよう馬廻りに命じて陣幕の中に引き返す。

 


〇 〇 〇



◾︎武蔵国松山城付近

 

「そうか。報せご苦労」


 報告を終えて陣幕から去って行く風魔を見送る。


「風魔は何と?」


 扇で隠した上で耳打ちで報告を受けていたため、報せの内容を知らない周囲の家臣は情報の共有を求めてくる。

 隠す情報でもないので正直に話す。


「山内上杉家は扇谷上杉家救援のため越後上杉家の援軍の到着を待って兵を挙げるそうだ」


「ようやく動きましたな、()()が」


 とは左近将監の(げん)


 ()関東管領で山内上杉家当主の上杉顕定。彼は元々越後上杉家の出身である。


 そもそも越後上杉家は山内上杉家の分家だった。

 しかし、1度山内から越後に養子(房方)が入って以来、山内が絶えし時には越後から養子(憲実・顕定)を迎えるようになり、これ以降、山内と越後は他の分家とは隔絶した緊密な関係を築いていく。


 それが一層鮮明になるのが越後上杉家先代当主上杉房定の代でのことである。

 次男顕定が()()の命令で山内上杉家に養子入りしたことに端を発し、越後上杉家は山内上杉家を支援する形で関東情勢にどっぷりと浸かることになる。


 関東に隣接した越後・信濃・甲斐・駿河の守護は、幕府の命令で関東に関わる例が多い。越後上杉家もその一環だったのかもしれない。


 予想だが、越後上杉家に下された役割が関東管領家の立て直し。そして、上杉が古河公方の抑えたること。


 その結果が将軍家と古河公方の和睦、都鄙和睦である。和睦の成立過程において房定は大きな役割を果たし、その功績と影響力は越後上杉家に全盛期をもたらした。


 その力は越後上杉家を上杉家の宗家と評されるにまでに至った。

 ちなみにその評には続きがあり、『京都上杉家(犬懸)が嫡流、山内上杉家が庶流』と続いている。これを聞いた時は、京都の犬懸さんも頑張っているんだなと思った。


 そんな上杉家宗家の地盤を顕定の弟房能が引き継いだことで越後と山内の蜜月関係が続いたわけだが、如何せん越後上杉家はあくまで越後国の勢力だからね。


 堀越御所の跡継ぎ時代に駿河国を攻めた俺が言うのもおかしなことだが、本来鎌倉公方()が関東の外を攻める行為は完全なる越権行為だ。


 鎌倉公方の管轄範囲は、相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸の関八州に、甲斐・伊豆を加えた関東10ヶ国。そこに陸奥・出羽加えた計12ヶ国。

 逆に考えれば、この12カ国ならば俺がどう扱おうと幕府から口を挟まれる筋合いは無いが。


 鎌倉公方が管轄範囲外に出るには、それ相応の大義名分が必要だ。


「ああ。これでようやく関東の外に出られるな」


 

今回調べて分かったことですが、コペルニクスって徳川家康の生年に没するんですね…しかも、1475年生まれの主人公の2歳年上で驚きました。

てっきり、地動説は17世紀前後かと思ってましたが、意外なことに日本ではまだ戦国時代。


書物に残ることなく歴史から退場した茶々丸(主人公)の没年を限りなく引き延ばそうと考えている作者としては、これは軽く超えたいなと思いますが。



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