成果
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体調不良で少し更新が開きました。何とか書き切りましたが、なんかごちゃごちゃしてます。
◾︎相模国小田原城
「これは目出度いですな」
書状から顔を上げた祖父はそう口にした。
祖父治部少輔は昨年末まで、三島での仕事を俺の弟四郎氏時に移譲するため三島城に滞在しており、今年に入りようやく小田原へと引っ越してきた。
そんな祖父が目を通していたのは、京の義兄近衛尚通より届いた書状。
『先帝の葬儀は無事に行うことができた。それも義弟のおかげだ。帝も感謝しておられる。ついては、左近衛中将に任じることになった。この書状に遅れて、勅使が向かうだろう』
義兄の書状と風魔衆の最新の報告に齟齬はない。
風魔衆によると、細川政元は『払ってくれるならご自由に』というスタンスで、費えに関しては政元本人を含め細川京兆家はノータッチを貫いたようだ。
肝心の将軍義高は大層御立腹だったらしいが。
多くの幕臣は義高に追従した。
とは言え、今の幕府に朝廷への献金をどうこうする力はない。
特に義高は将軍就任の背景から、政元の力がなければ自分の身すら守ることができない程だ。
例えば、先年の義尹の北陸からの上洛騒動。
最終的には義尹を追い払った六角家の軍勢のおかげで義高は命拾いしたわけだが、この時の政元は南より来たる畠山尚順の対応のために兵を山城国に割き、北より来たる義尹の対応にまで手が回らなかった。
そうなると自分の身を守る者がいない義高は、相国寺だか何処かの寺に『鎧をくれ、無理なら兵糧を出せ。できぬなら寺を破却する』と迫ったらしい。
この問題は先代の政所執事伊勢貞宗が収めることになるが、応仁の乱以降の将軍家の足下の弱さが目立つエピソードとなってしまった。
万事が万事この有様なので、現在の幕府の力の源は全て政元が当主の細川京兆家頼りになっている。
しかし、畿内は細川京兆家一強ではない。
政元もそれを理解していたのだろう。
足利義尹が家出を繰り返すことで自身の主張を通す政治スタイルを用い、所謂“家出公方”と称されたように、義澄や政元も隠居詐欺を繰り返すことで自身の主張を押し通す政治スタイルをとっていた。
彼らのことは“隠居公方(管領)”とでも呼んであげれば良いだろうか。
けれど、細川政元という人物は、管領職に全く興味がないようなのだ。
全くと言ってしまうと語弊があるかもしれないが、『足利将軍家を支える細川京兆家』。この体制での細川京兆家の権威を高めることには興味がある様子。
だから管領と呼ぶのは適切ではない。敬意を込めて“隠居天狗”と呼んで差し上げるべきだろう。
話が逸れた。
俺の勝手な行動に御立腹だった将軍は、政元がノータッチの姿勢を貫いたことで何の行動も起こすことができなかった。
つまりは、此度の朝廷への献金、幕府からは一切の横槍が入ることはなかった。
それが意味するのは、畿内の実力者による鎌倉公方への容認姿勢、そして将軍職に就く人間の扱いの軽さ。
前者はともかく、後者は明応の政変に由来する。
明応の政変は日野富子と彼女に追従した政所執事伊勢家を中心としたクーデター。その背景には、父義視と同様、京に支援者が居ない義尹の脆弱な権力基盤にあった。
そもそも義尹は、足利義政・日野富子の支持によって将軍職に就いた。
しかし義政没後、将軍位に就いた義尹は、まず伯母富子と対立するようになる。
義尹が自身の権力を確かな物にするためには、当時の室町幕府で最大の権力を持っていた日野富子を排さなければならないからだ
それ以前から、父義視が日野富子から当時出家して清晃を名乗っていた義高に与えられた小川御所を破却するなど、両者の対立の下地は作られていたとも言える。
さらに、将軍になってからの義尹は父以来の側近を重用した。つまり、既存の幕臣を幕政から排除してしまった。
これで幕府上層部と幕臣からの支持を完全に失ってしまったことになる。
そんな訳で義尹は、排除しようとした日野富子サイドに、逆に将軍職を廃されてしまったわけだが、政元は大御台日野富子の意向に従ったにすぎないと思う。
しかし、将軍家の権力争いを経た将軍職のすげ替えは、日野富子亡き後、将軍職に就く人間の扱いの軽さを示す指標となってしまった。
将軍と幕府の権力者が相容れない関係ならば、首をすげ替えてしまえば良い。
実際、明応の政変までは権力者(管領)の首を変えることができた。義満とか義教が良い例だろう。
だが、政変以降はその力関係が逆転。
細川京兆家しか有力守護家が在京していない現状も相まって、将軍には権力者の首をすげ替える力がない。
そして、権力者には将軍の首をすげ替えて良い先例が齎された。
次回から関東に戻ります。




