中央もまた面倒
評価・リアクション等ありがとうございます。
今回は作者自身迷走したため、文章・作品としての質が悪いです。
本文最後の主人公のセリフと後書きが本来書きたかったことになります。
◾︎武蔵国江戸城
「では頼んだぞ、四郎左衛門」
「お任せくださいませ」
江戸の整備・下総国への対策等やるべき事を終え、江戸を出発することができたのは、最初の文の到着から1週間経ってからのことだった。
江戸を出発してからは、ゆっくりと領内の様子を見ながら小田原へと進む。
一応、風魔衆という諜報部隊の存在を隠すために俺は帝の崩御を知らない体で過ごしているので、
京から小田原までは徒歩で10日程かかる。
使者の道興は御歳70歳らしいので、歳を加味して2週間はかかるだろう。
帝の崩御を報せる風魔衆の文は、情報の取得にラグさえあれど京からわずか3日で届いた。それから江戸城に7日滞在して計10日。ゆっくりと小田原を目指せばちょうど良いタイミングになるはずだ。
〇 〇 〇
◾︎相模国小田原城
小田原城内の俺の私室。
この部屋は私室であり、執務室であり、密談の場でもある。
「ようこそおいでくださいました、道興殿。いや、この場では義伯父上と呼んだ方が良いかもしれませんね」
「鎌倉殿に義伯父と呼ばれるなど誠恐れ多いことに。拙僧は近衛家の出とは言え、今は一介の僧に過ぎませぬゆえ」
公の場での堅苦しい挨拶を終え、場所を改めて今度は親しみを込めて挨拶を交わす。
「されど、近衛家の使者として参られたのでしょう?でしたら、気になさいますな、義伯父上」
「かたじけのう存じます」
道興は元聖護院門跡。今は先日崩御された帝の従兄弟が聖護院門跡を務められている。
聖護院門跡はかの有名な園城寺の長吏や熊野三山検校を兼ねる。
警戒のしすぎかもしれないが、この時代の寺社勢力との直接的な繋がりは極力避けたい。
なので、鎌倉公方と元聖護院門跡の会話ではなく、鎌倉公方と近衛家の話となるように仕向けたわけだ。
まあ、舅殿(近衛政家)から俺の寺社に対する思想は聞いているはず。寺社勢力に利するような行為はしないだろう。
「しかし、帝が御隠れになられたとは……大樹のすげ替えに大層なお怒りだったとは聞いておりましたが」
ここで言う征夷大将軍のすげ替えとは、明応の政変における義材から義高への交代のこと。
これまでの将軍は、先代の死や隠居によって朝廷から将軍職に任じられてきた過去がある。
しかし、明応の政変による将軍職交代は武家間の政争の結果であり、武家の行動が、朝廷ひいては帝の決定を覆したことになる。
要するに、明応の政変は帝の面目を損ねた。
「譲位により帝は御不快の念を表したかったのだと存じ上げます」
道興は帝のお気持ちを推測した上で代弁する。
明応の政変直後、帝は怒りを表すため、譲位を行おうとした。なれども、朝廷には譲位のための費用がない。
それもそのはず。南北朝時代、室町幕府によって祭り上げられた現在の皇統の祖先である北朝は、担ぎ上げられただけで何の実も備えていない皇統であった。
鎌倉時代より続いた持明院統と大覚寺統による両統迭立は、鎌倉幕府の滅亡により両統が南北の帝として並立する状態となった。
正平の一統で北朝が廃され、足利尊氏が関東へ出兵した隙をつく形で南朝は和平を破棄。
南朝は京へ攻め込み、北朝の皇位継承の資格を持つ皇族を悉く南朝に連れ去った。
後に幕府が京を取り戻した時、幕府の属する北朝には帝が存在しない事態に陥る。
そこで、幕府は正平の一統により廃された崇光天皇の弟で、唯一京に残っていた皇族が後光厳天皇として即位させる。
この選択もまた、北朝内に2つの皇統を生み出し、幕府の揉め事の原因になる。
当時、帝の即位には必要な条件が3つ存在した。
1つ目は血統。これは後光厳天皇の父が帝であったのでクリア。
2つ目は治天の君からの任命。治天の君とは政の実権を握った天皇または上皇のこと。これは即位予定の後光厳天皇を除いて治天の君になれる皇族が南朝によって連れ去られたので不可。
3つ目は三種の神器。これは正平の一統により南朝の手に渡っていたので不可。
先例としては、2つクリアしていれば問題なかったそうだが、この場合は1つ目のみ。
これでは無理を通すにも流石に無理が過ぎる。
しかし、南北朝の長引く戦により北朝の神儀や朝儀は潰えていた。これからも続く戦を勝ち抜くためには、迅速な北朝の再建が必要であった。
ここでかの有名な(?)、二条良基の『天照大御神を鏡に、尊氏を剣に、良基を勾玉(璽)に』の登場である。
舅殿から聞いたので、似たような言動はあったのだろう。
この強引な手法により3つ目の三種の神器をクリア。
治天の君による任命も、後光厳天皇の祖母を擬似的な治天の君に据えることでクリア。
これにて即位に必要な3つの条件をクリアしたわけだ。
まあ、こんなことばかりをやっているので、北朝の帝・後光厳天皇は何の実も備えず、さらには偽主と呼ばれた。
のち、南北朝合一により後光厳天皇の皇統が正統として後円融天皇・後小松天皇・称光天皇と続いていく。
並行して、足利義満と二条良基の尽力により、朝廷と幕府は一体となって実を取り戻していた。
称光天皇の後、皇統が後光厳天皇の兄崇光天皇の血統に移り、後花園天皇そして先日亡くなられた帝へと至る。
後花園天皇の御世には応仁の乱が発生、亡き帝の御世はその影響をガッツリ受けた。
今の時代、朝廷も幕府も困窮している。
万に一つ譲位が成せたとしても、それは不快の原因である幕府の献金によるもの。
不快になった原因に、譲位の費用を請求する。
その行為もまた、著しく帝の面目を損なわせる。
そんな有り様ので、亡くなられた帝の葬儀も、次の帝の即位礼も行われないかもしれない。
「何か私が力になれることがあれば言ってくだされ。義伯父上」
元々、幕府もとい細川右京太夫政元がケチって話を書きたかったのですが、どうしてこうなったのか…
これも天狗の仕業か。




