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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1500年〜
46/58

武衛殿

感想・評価・リアクション・ブックマーク等ありがとうございます。

やる気が出たので連続投稿。

※武衛家に関して2話前と同じことを擦ってる箇所あり



◾︎相模国小田原城


 伊勢新九郎が定期報告を終え駿河へ向かった数日後。

 尾張国へ向かっていた横江相模守と田中越中守が、とある客を連れ戻ってきた。

 

「鎌倉殿におかれましては、お初に御意を得ます。斯波武衛が弟、斯波中務少輔にございます」


 斯波中務少輔寛元。斯波武衛家当主斯波義寛の長弟で、次弟義雄と共に兄のために懸命に働いている。

 ちなみに、次弟義雄が遠江国で二俣城と杜山城を斯波方に取り戻した将だったりする。

 

「證阿様(足利泰氏)より分かれし斯波家の者と会うことができ、大変嬉しく思う」


 斯波家は證阿こと足利泰氏の子・家氏より始まる。

 

 泰氏は初め、名越流北条朝時の娘を正室に迎えた。その間に生まれたのが斯波家の祖・足利(斯波)家氏と渋川家の祖・渋川義顕。

 足利家氏は足利氏の通称“三郎”を名乗り、泰氏の嫡子三郎家氏として扱われていた。


 しかし、宮騒動によって名越流は衰退。

 何故かいつの間にか得宗家北条時氏の娘が泰氏の室となっており、その娘の産んだ頼氏が“三郎”の通称を名乗り足利家を継承した。


 その結果、足利“三郎”家氏は足利尾張守家当主足利“太郎”家氏となり、家格は高くとも、斯波家は源氏の嫡流から外されたことになる。

 

「此の度のお話、主武衛より是非にと。相模守殿より話を伺った主はすぐさま某に小田原に向かうよう命ぜられました」


 武衛家にとって鎌倉御所の提案はまさに渡りに船。そう答えて当然であろう。


 現在の斯波武衛家は幕府に睨まれている。


 応仁の乱で越前の失陥後、武衛家は失った越前を取り戻そうと幾度も攻め込むも何ら成果を挙げることはできず、朝倉家を越前()()()に任じることで表面上和睦した。


 しかし、越前奪還を諦めたわけではない。

 そこで武衛家が頼ったのが幕府、正確には将軍。

 

 9代将軍義尚による六角高頼征伐(鉤の陣)に8000の兵を率いて参陣。副将軍を務める。これに朝倉家が参陣したことで越前をめぐる訴訟に発展するもこの時は有耶無耶に。


 義尚の跡を継いだ10代将軍義材こと現義尹(義稙)は六角征伐を継続。武衛家は再び参陣し、一時は義尹に代わり総大将を務めるなど活躍。また、義尹に重ねて朝倉征伐を訴えることで朝倉退治の御教書を授かる。


 この時の斯波武衛家は、二度の六角征伐を経て、三管領として細川京兆家と遜色のない政治的勢力を取り戻していたことだろう。

 これも足利将軍による守護の権力均衡を狙った策であろうが。

 

 その後、河内畠山総州家征伐に参加したが、その間に明応の政変が勃発。


 この政変で、11代将軍足利義高(義澄)を担ぐ細川政元ー畠山総州家ー朝倉家ラインと10代将軍足利義尹を担ぐ畠山政長ー畠山尾州家ー斯波武衛家ラインの対立が顕在化。


 結果はご存知の通り。後者は敗者として、義尹は幽閉のち越中へ逃亡&現在は周防へ、畠山政長は自害、尾州家は政長の子尚順が紀伊国に逼塞。

 武衛家当主義寛はやむを得ず新将軍義高に出仕するが、義尹との親密さが災いして幕府内で孤立する。


 周囲に義稙派とみられたからである。

 それが斯波武衛家が鎌倉御所の一門と婚姻を結ぶ理由となる。

 

「四郎は奉行に混ざって仕事を学んでいる故、今すぐにとは参らぬが、明日にでも顔合わせの場を設けよう」


「何卒よろしくお願い申し上げます」

 

 いくら政略結婚とはいえ、主家の婚姻相手の素行は気になるはずだ。

 後で歓迎の宴を開くのでそれまでは休むよう客室に下がらせる。


 入れ替わるように待機していた相模守と越中守を呼び出す。


「武衛殿の反応は如何であった?」


「大層お喜びのご様子であられました」


 現在の畿内は利害関係に起因する対立が幾重にも重なり、畿内周辺が伏魔殿と化している。


 足利義高と足利義尹の将軍位争いをはじめ、足利義高と細川政元を恨む畠山尚順、畠山総州家と畠山尾州家の畠山嫡流争い、朝倉家と斯波武衛家の越前守護争い、若狭武田家と丹後一色家の丹後守護争い。

 

 その対立は明応の政変における義高派と義尹派の域をはるかに超え、義尹が越中国へ逃亡したことで、畿内の騒乱は越中国・越後国にまで及ぶことになった。

 これは爺様を関東管領に推挙する際に、その理由として利用させてもらったがな。


 武衛家も尾張国にありながら義尹に近しいことで騒乱に巻き込まれた。

 細川右京太夫政元が今川家に遠江攻略の暁には遠江守護を与えるとしたのもその一環だろう。


 政元が当主の細川京兆家は、先代勝元が8代将軍義政と共に朝倉家に越前守護の空手形を切った前科がある。

 守護(名門)に誰を戴くか、それを朝倉家に委ねる。そんな内容だったらしいが。


 流石に武衛殿も気付いているからこそ俺の提案を受けたのだろう。


「越中守。中務少輔殿が尾張に戻る際は同行し、再度武衛殿の御心の内を確かめてきてはくれぬか?」


「承ります。しかし、何を探ればよろしゅうございますか?」

 

鎌倉()に付くか、将軍(義高)に付くか、流浪(義尹)に付くか、だな。口にしてくれても構わんぞ」

 

 

日付的に連続投稿。反動がありませんように。


ちなみに、小田原ー尾張間の移動は船です。


それは置いといて、戦回でないとリアクションの伸びが少し小さい気がします。好反応は戦でしょうか?

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― 新着の感想 ―
連日投稿に感謝。 名越流にそんなことがあったなんて知りませんでした。 そして義稙遂に第二形態へw 四郎の婚姻は来たる義稙政権への布石ということでしょうか? 続きが気になります! 正直戦回より庶政の方が…
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