西隣の勢力
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今回は地の文増やしすぎたせいで長め。
◾︎相模国小田原城
「謹んで新年をお慶び申し上げます」
「うむ。上総介殿も遠江国攻略、順調とのこと。誠めでたい」
年が明け、伊勢新九郎が年に一度の定期報告に訪れた。
現在も相変わらず遠江国は斯波派と今川派の戦が続いている。
1度は天竜川以東を制した今川家であったが、二俣城や杜山城といった城を拠点にした斯波方に、天竜川沿い北部の地域を取り返されてしまったようだ。
未だ天竜川沿い南部を今川家が領することができているのは遠江今川家(以後堀越家)が今川宗家に従順に従っているからに他ならない。
それも、宗家に従うよう俺が堀越家に命令したからだ。
無論それは、俺と使者を務めた小太郎と堀越家当主堀越貞基、3人だけが知る内密の事。
史実でも堀越家は宗家方に付いており、貞基の兄瀬名一秀が宗家に仕えている。
堀越家が宗家に対し如何な感情を抱いていようとも、以上の2点に加え、彼らが花倉の乱、次いで河東の乱まで堀越の家が残っていたことからして、命令せずとも宗家方に付いていたとは思う。
しかし、堀越貞基の心の持ちようは変わるだろう。
座して宗家に取り込まれるか、あるいは上位権力に通じ未来の栄達を勝ち取るか。
そんな背景を抱えながら、今川家は遠江国攻略を目指す。
「当主上総介は細川右京太夫様より、武衛家に圧力をかけるようお頼みされておりまする。今後もより一層、今川家は遠江国攻略に力を入れることになりましょう」
その一因に細川京兆家当主細川右京太夫政元の影がある。
成功の暁には遠江守護が約束されている、といったところかな。
「上総介殿に励むよう伝えよ」
“はっ”とすぐさま頭を下げる新九郎の姿を見て思う。
この者の忠義は何処に向いているのか。
伊勢新九郎盛時は俺(茶々丸)にとって明智光秀に等しい。
今も遠江守護に関して一言も申さなかった。
忠義の先が幕府か、将軍か、今川家か、今川上総介氏親か、それとも甥の今川五郎氏親か。もしくは己か。
その向け先により危険度が上下すると。
ただし、新九郎は俺の成さんとする事は理解しているはずだ。
それが今川家に如何な影響を与えるかも。
しかし、これに関する対応が今川家中からは感じられない。
俺のことを“無道”だとか“天魔”だとか罵っている者がいるとは聞くが。
ということは、新九郎自体も甥を助けるだけで特に俺に対する何かを行っているわけではないことになる。
警戒するに越したことはないがな。
「今一つ。来年の正月、それへ控える千代丸を、俺が烏帽子親となり元服させようかと考えている。如何かな?」
そう言って待機していた千代丸に視線を向ける。
話千代丸は驚きのあまり間抜けな表情を晒している。
予定通り伊勢新九郎を取り込む方向で話を進めることが最善。
北条早雲の世継ぎ、北条氏綱の烏帽子親なれば大きな意味を持つだろう。
「これ以上にない誉にございます」
新九郎が感謝の言葉を告げる。断るわけがないよな。
「それは重畳。次の正月が楽しみだな、千代丸」
「はっ。有り難き幸せに存じます」
まあ、新九郎周りや今川家にも風魔が入り込んでいるのだが。
〇 〇 〇
◾︎相模国小田原城
今川家の遠江攻略。
史実と比べて如何程の差があるのか。それを判断できるだけの前世の知識が足りない。
元服後の今川氏親といえば、勢力が尾張の那古野まで及んだことや死に際の今川仮名目録の制定くらいの知識しかない。
唯一、徳川家康の先祖にあたる安祥松平家が1つの判断材料になるだろうか。
三河の松平家には宗家があったが、徳川家康の歴史には松平の宗家など存在しない。
強いて言えば、家康が宗家といえば宗家であったのだろう。
けれどあれは家康の祖父清康が遺した威光によるところが大きい。出自を名門に拠らない一介の土豪が短期間で三河一国を統一した。それは国人や地侍の脳を焼くに十分過ぎる。
しかし、この時代には岩津松平家という松平宗家が存在する。この家は史実にも存在したはず。
つまり、どこかのタイミングで宗家と分家が入れ替わる。
少し曖昧だが、三河を統一することになる清康とその子広忠の2代が、それぞれ10代で跡継ぎを成していたことを覚えている。
家康は確か1617年死去の享年74。生まれは1543年。
そこから17歳刻みで遡れば広忠が1526年生まれ、清康が1509年生まれとなる。
よって、清康は10年もすれば生まれることが推測できる。
そしてその清康は、10歳と+αで安祥松平家の家督を継ぎ、信長がうつけ的行動をとる前には既に尾張国守山城攻めの最中に家臣に殺されていたはず。
そうでないと、信長が自由にうつけ行動できる余裕なんて存在しないから。
1510年代前半ー清康誕生
1520年代前半ー清康家督継承
1530~35年ー家臣により殺される
清康が宗家勢力からの大した抵抗を受けなかったことから、その前には宗家は滅んでいたと仮定し、現在の1500年から1520年の間に松平宗家の滅亡を限定できる。
さらに、伊勢宗瑞が1510年までは今川家に通っていたことから考えて、1500〜1510年の間が怪しい。
1510年以降は伊勢家(後の北条家)が関東情勢の深みに嵌っていく。
したがって、これからの10年で松平宗家が滅びると予想される。
ああ、そういえば。武衛家当主のくだりがあったな。
織田信長の英雄章において、守護代大和守家が守護斯波義統を殺したことでその子義銀が信長の元に逃れ、信長は清洲城奪取の大義名分を得ることになる。
この義統が傀儡になったそもそもの原因が次期武衛家当主斯波義達にあった。
武衛家は越前・尾張・遠江三国の守護を務める家柄であった。
しかし応仁の乱を経て越前国は守護代の朝倉家に奪われた。
尾張国は守護代織田家が武衛家を担いだため失陥を免れたが、遠江国は守護代の甲斐家が没落。
そうして遠江国は、斯波方と今川方が入り乱れる有り様となった。それ故に両勢力は軍勢を以て遠江国に攻め込んだわけだが、今川方はそれに成功し、斯波方は失敗した。
斯波方の本拠は尾張国。そこから軍勢を三河国を超えて送り込むのにはさぞ苦労したことだろう。
なんと両者の直接対決で武衛家当主斯波義達が今川方に捕まってしまったのだ。
命は取られなかったが当主義達は剃髪を強いられ、面目を失い帰国した。
そこに遠江への遠征に不満を持っていた大和守家や国人衆の反発が加わり、斯波武衛家は傀儡と相成った。
斯波義達は未だ15歳。まだまだこれからか。
※本文中では二俣城と記載していますが、この時代に二俣城があったかは微妙らしいです。
代わりに二俣城すぐ北に笹岡城(二俣古城)なる城があったそう。




