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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1499年〜
41/58

江戸への滞在

評価・ブックマーク・リアクション等ありがとうございます。

※千葉家は便宜上、武蔵千葉と下総千葉と呼称します。



◾︎武蔵国江戸城


「左衛門尉様、葛西城を制圧されたとの由。詳しくはこちらをご覧下さいませ」


 渡された書状によると、葛西城は水軍と城の構造をよく知る千葉家の者の協力により簡単に落ちたそう。

 葛西城を落とした水軍は、当初の予定通り中川を下り次の目的地へと向かった。


 この作戦には武蔵千葉家当主が直々に参陣したらしい。

 

 千葉千葉介守胤。

 彼は本来であれば千葉宗家惣領であるべき人物だ。


 彼は当時の千葉家当主千葉兼胤に嫁いだ上杉禅秀の娘の曾孫である。つまり禅秀の玄孫にあたる。

 玄孫ということは俺とは同世代。しかも同じ年の生まれらしい。


 そもそも現在の千葉氏は千葉介守胤が当主の武蔵千葉家、千葉介勝胤が当主の下総千葉家の2つの系統に割れている。


 本来の宗家は前者の武蔵千葉家。ところが、後の世に千葉氏宗家として名が知られるのは後者の下総千葉家だけ。


 宗家と分家が入れ替わった原因は40年前にまで遡る。


 享徳の乱に際し、幕府に従い足利成氏討伐に参加した千葉宗家の胤直・胤賢兄弟(彼らはともに上杉禅秀の孫)。

 しかし、このことに不満を持った重臣原胤房に居城千葉城を襲われ、叔父馬加康胤が千葉家当主として擁立された。

 

 胤直・胤賢兄弟は一連の戦で自刃または討死。胤直の子胤宣もまた自刃して果てた。

 

 残ったのは胤賢の子、実胤・(より)胤。

 

 下総を追われた彼らは幕府の支援の元、下総へ攻め込んだ。

 

 まずは同族で幕府奉公衆の東常縁の支援で原胤房を破り、馬加康胤・胤持父子を討ち取る。

 とはいえ、実胤・自胤兄弟に下総を掌握するだけの力はなく、援軍の東常縁も所領問題で帰還してしまい下総は呆気なく失陥。


 この間、新たに岩橋輔胤が事実上の千葉宗家当主となり、享徳の乱の結果古河に本拠を移した古河公方足利成氏に味方して千葉宗家に成り代わった。

 

 この頃、兄実胤が隠遁したらしく、弟自胤が幕府に認められ千葉家当主となった。


 続いて兄実胤の縁戚の扇谷上杉家から家宰太田道灌の支援を受け臼井城を攻撃。

 この戦は長尾景春の乱と連動しており、長尾景春に味方した下総千葉家を攻めることで連携を断たんとしたがために起きたもの。


 太田道灌は弟資忠を派遣し臼井城を落とすに至るが、輔胤の子孝胤の逆襲を受け資忠は討死。

 結果、それまでに征した下総の地を再び失い、実胤・自胤兄弟もこれ以上の下総での軍事行動は諦めたそうだ。


 実胤・自胤兄弟は亡くなり、実胤の子守胤が家督を継いで現在に至る。


「千葉介殿は水軍と共に動いている、か……」


 本人も家臣も()()のことならば我らより詳しいからな。当然と言えば当然か。


 落ち着いたら参陣するように文を送っておくか。


 文をしたため、近習にその文を送るように指示を出そうと思ったところ近習が客の到来を報せに来た。


「御所様。只今、吉良様が城に参られました」


「来たか。準備は不要、そのまま広間に通せ」


「ははっ」


 本人が江戸城にまで来たということは、扇谷上杉家が東に兵を向かわせる余裕がないことが吉良氏にも伝わったのだろう。


 現在別働隊が武蔵西部を荒し回っている。

 農繁期で兵を集めることができない敵方は、効果的な防衛を行うことができず、四郎や豊前守率いる軍勢にどんどんと領地を削り取られている。


 既に四郎は入間川に到達したと聞く。

 河越城に取り付くのも時間の問題だろう。

 

 さて、俺も広間に行くとするか。


 部屋に入れば初老をとうに過ぎた男が頭を下げていた。


 偉そうに振る舞うためにどっかりと座る。

 脇息に肘をつき、暑さを紛らわすために扇で仰ぐ。


「名乗られよ」


「吉良左兵衛佐にございます。此の度は鎌倉殿に御目通りが叶い、恐悦至極に存じます」


 吉良左兵衛佐成高。

 “成”の時は一昨年亡くなった先代古河公方足利成氏からの偏諱。


 彼の一族は奥州吉良氏または武蔵吉良氏と呼ばれる。

 

 三河の吉良とは家祖が兄弟であり、彼の一族は前期東条吉良氏とも言うべき存在であった。

 ちなみに、その兄弟の父が俺と同名の鎌倉時代の足利義氏さん。


「俺に仕えると決めたと聞いたが、それは所領のことを承知してのことか?」


「その通りにございます。半ば所領を失うことになれど、我が所領が発展するならば惜しんではいられませぬ」


 俺は身勝手な所領を認めていない。


 堀越流の教育を受け、所領の発展を担う知識を持った者。彼らを含めた鎌倉公方の口出しを受け入れることが最低限の条件だ。


 こちらが口を出す範囲は所領に関すること全て。

 戸籍・徴税・兵権・司法・外交など数えれば枚挙に遑がない。

 

 この時代を生きる人間からしたら、家督以外の全ての権限を寄越せと言われているに等しいと思う。


 領主の元に残るのは〇〇の領主という肩書きだけ。


 統一された意思の元、多くの民が享受することができる開発を行い、日ノ本の早期の発展を狙う。


 それこそが俺の至上命題。


 左兵衛佐はそれを呑んだのである。


「であるか。ならば、偏諱を与えるとしよう。


「ありがたき幸せ」


「今後の働きを期待している。左兵衛佐氏高」


 

3話前からリアクション急増して驚いたのですが、前話でリアクションが減少しました。

とりあえず今回は主人公の一人語り。

何故だろう。タイトル?内容?


それはさておき、武蔵吉良氏の成高ー頼貞(頼康)親子っていくつ歳が離れているんでしょうか?

成高(生没年不詳)が扇谷上杉持朝(1416~1467)の婿

したがって、1450前後には生まれていると想定


対して頼貞(頼康ーこの人は生年不詳〜1562)。この物語では氏頼か氏貞、氏高になりそう。

1524年に北条氏綱が江戸城を落としたことで、これ以降北条氏に従う。39年氏綱の娘を正室に。60年以降遠江今川家出身の氏朝に家督を譲る。

1524年に幼少だとして、1520年生まれ想定。すると父成高が約70歳の時の子、頼貞の寿命は約40歳。2世代くらい間に挟めそう…

ならば1500年生まれ想定とすると、成高50歳の時の子、頼貞の寿命は60歳となる。


そのため、1500年生まれとするか、間に一世代挟むか悩み中。


次回の更新も頑張ります。

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