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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1499年〜
38/58

お手紙爆撃

いつも評価・誤字訂正等ありがとうございます



◾︎相模国小田原城


「こんな簡単に成るとは思わなかった……」


「左様ですな」


 左近将監は書状に目を通すと、さも当然の結果だと言わんばかりに、誇るでもなく淡々と隣に座る外山豊前守に書状を回していた。


 冷静になって考えてみれば、左近将監の提案は我らにとって理想的だった。

 一兵足りとも失うことなく、遠くから扇動するのみで最大の利益を得ることができる。


 今回は完全に現越前公方の存在を失念していた。

 

 やはり、中央の政局も意識していかなければならないと思わされた出来事であった。


 先日、左近将監に提案された案を元に、祖父の関東管領就任を幕府に願い出てみた。


 工作の前後で効果の効き具合を確認するために、実行を前に中央に任命を求める書状を送った。


 内容は以下。

 

『越前の公方が後援の越後上杉、ひいては関東管領山内上杉と古河公方と手を組み、反政権の動きをする恐れがある。関東で公方と関東管領が揃って反幕府となると抑えるのは難しい。したがって、こちら側にも関東管領として父政知の代から堀越執事を務めた犬懸上杉家上杉治部少輔政憲を任命して欲しい』


 なしのつぶてだろう、くらいに考えていた。


 そうしたらなんと、管領細川政元から書状が来た。


 要約すると、『本当か!?』といった感じの切羽詰まった文面であった。

 

 義尹が京により近い越前に入ったことで、朝倉家に兵を出す気があれば京の都はすぐそこ。


 再び京の都が戦乱に巻き込まれる恐れが高くなったことが関係していたのだろう。

 

 なので、丁寧に返信しておいた。


『3年前、幕府公認の鎌倉公方である俺に対して古河公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家は連合して事に当たった。形としては彼らは既に反幕府に片足を突っ込んでいる。そんな奴らが越後上杉と山内上杉の関係を生かさないわけがない』


 滅茶苦茶言いがかりな気がしないでもない。

 

 並行してこの頃から京の都で義尹が攻めてくると噂を流し始めた。

 とは言っても、噂を流す前から義尹の襲来を危惧する者が多く、結果として噂の流布は必要なかったのかもしれない。


 そして今日。祖父の関東管領就任を認める御内書が届いた。


 豊前守が読み終わり、御内書を隣に座る祖父の前にそっと置く。


「爺様、受け取られよ。就任式は別途鎌倉で行うが、それを手に取った瞬間、爺様は名実ともに関東管領となるのだ」



〇 〇 〇



◾︎相模国小田原城


 今、俺の目の前には積み上げられた書状の山が鎮座している。


「初めて御内書というものを書いたが、鎌倉公方と関東管領の力を侮っていた。まさか、これほどまでとはな」


「御所様は征夷大将軍の実の兄君。その御威光は関東において等持院(とうじいん)殿に比肩するものでしょう」


 俺が等持院殿、足利尊氏に並ぶ、か。

 嬉しいような嬉しくないような。


 癖の強い南北朝期の武士を率いるカリスマ性(神輿としての魅力)。そして、足利尊氏(御輿)を中心に巻き起こる争い。


 これぞ足利(源氏)のお家芸の象徴たる存在。

 

 第一、返信してきた武士たちも自らの欲望を認めてくれる源氏の御輿を求めているだけだろう。


 自分で招いておいてなんだが、大変面倒臭い。


 仕方ない、整理するか。


「書状を所属勢力と所領によって分けてくれ」

 

 重要な物だけ手元に残し、残りの仕分けを煽ててきた近習に任せる。


 御内書を送る相手は選び抜いたため、返信率80%といった驚異的数字を残している。


 うち、本命の相手からは100%の返信率。

 ラインナップは上野国岩松家、下野国上那須家、常陸国大掾家、武蔵国千葉家、常陸国山入佐竹家。


 この五家の共通点。

 それは上杉禅秀の乱で我が高祖父上杉禅秀に味方した家だったということ。

 

 そして、山入佐竹家を除けば、どの家も皆上杉禅秀の血が流れている。

 

 彼らは上杉禅秀の乱に加担したことで関東を治める鎌倉公方により討伐される運命にあった。


 しかし、そこは独立志向の高い鎌倉公方。

 京の都から茶々が入る。


 分かりやすい例が山入佐竹家。

 当時、親鎌倉公方の佐竹宗家と敵対していた関係で上杉禅秀に加担した山入佐竹家。

 この家は幕府との繋がりから乱後に反乱勢力側にも関わらず一時は常陸国守護務めるなど、幕府の描く関東における反鎌倉公方の構図の一部分となっていた。

 

 しかし、相手が悪かった。


 その人物は現古河公方足利政氏の祖父で、この時の鎌倉公方である足利持氏。まさに戦国の申し子と言うべき存在だった。


 持氏は上杉禅秀の乱の残党狩りやに加え、関東に所領を持ちながら京の幕府に直接仕える京都扶持衆を討ち滅ぼさんと何度も兵を挙げた。


 総称して小栗氏の乱とも呼ばれる。


 岩松家や大掾家は当主が斬首または暗殺され、那須家は上下に別れて内乱、山入佐竹家は持氏の命を受けた宗家に追い込まれ自刃した。


 残った千葉家も持氏の子で前古河公方成氏を担いだ分家筋に乗っ取られ、それ以降は武蔵国に逼塞していた。

 

 それらを考慮すれば、彼らが御内書に反応したのも当然の結果である。


 彼らを使って早期の関東制圧を目指す。


 

雑な調べで全員上杉禅秀から血が繋がっているのは確認しました。

そもそも主人公の祖父上杉治部少輔政憲の祖母(禅秀の室)が武田の人の可能性があるらしいので…


当時の昔の偉人の呼び方(敬称)ってどうしたら良いのでしょうか。

例えば足利尊氏は戒名が“等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿”で、略して等持院殿または長寿寺殿(関東?)と呼ばれたらしいですが、会話では〇〇殿扱いで良いのだろうか。

たまに、〇〇様って書いてる物を見かけるので悩みます。

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― 新着の感想 ―
確かに足利尊氏と類されるのは嬉しくありませんねw。 関東情勢の解説ありがとうございます。 戎名にルビで名前とかも分かりやすそうですね。
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