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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1499年〜
37/58

3年後

昨日投稿しようと思ったのですが、物足りなくて加筆して遅れました。


※地震や津波が出来事として登場します

※撰銭令に関して文章訳分からなかったら教えてください



◾︎相模国小田原城(明応8年1499年)


 昨年夏、東海地方で大きな地震が発生した。

 後の世にいう、明応地震だ。


 東海地方で大きな地震といえば南海トラフ巨大地震。

 揺れを感じた時、俺は小田原城にいたのだが、遂にこの時が来てしまったかと諦念を抱いてしまった。


 各地から上がってくる被害報告は人知の及ぶことのない自然災害の悲惨さを物語っていた。


 領内では建物の倒壊や土砂崩れに加え、大津波が発生。

 技術の発展していないこの時代では、どれも防ぎようがなかった。

 

 出来た事といえば、俺の威光が成したエセ避難訓練と各地に伝わる口伝による減災。

 このおかげで人命の被害をある程度抑えることができたと思う。


 それでも被害がゼロになったわけではない。

 

 特に伊豆国が1番深刻だった。

 

 西海岸の戸田では津波が半里遡ったそうだ。メートル換算で約2km。

 山がちでリアス海岸であることを考慮すれば、標高2.30mの地にまで津波が到達したことになる。


 この時代、地域や使用する人によりあらゆる物事の単位が異なる。単位の統一は三英傑の頃の出世と共に進められていったと記憶している。


 当然、この時代に存在する1町の長さは統一性がなく、また馴染み深いcmやmを定めたメートル法の成立過程を俺は知らないので、正確な長さの単位を求めることができない。

 

 それでも一里=36町の概念はあるらしいので、1町は4000m÷36町で約111m。あとは俺の体感で決めた。


 堀越学校(仮名)で学んだ優秀な者がメートル法を編み出してくれることを祈るばかりだ。


 領国に関してはこれくらいか。


 近隣国だと、西の遠江国では遠淡海こと浜名湖が津波の影響により太平洋と繋がり汽水湖となったそう。

 海側のかなり広い範囲で土地が流出または沈下したそうで、これまでは浜名川を渡るだけで東西を行き来できた東海道が、今切という湾口を渡らなければ行き来できなくなったそうだ。


 伊勢国でも安濃津が壊滅したとか。確か津城が築かれるまでは廃れたままになるんだったかな。良い位置にある港なのに。



〇 〇 〇



◾︎伊豆国三島城


「爺様。河東及び伊豆国の復興の指揮、誠にご苦労様でした」

 

「有り難きお言葉。御所様の意に添うことができ、何よりにございます」


 今日は地震発生以来2度目の三島城訪問。

 逐一書状で報告は受けていたが、直接報告を受け、働きに対する労いの言葉をかける。そのパフォーマンスにこそ意義がある。


 前回は船で小田原から薩埵峠までの視察のち、馬で三島に至る行程を歩んだ。

 そうしたら三島の祖父に、「そんなにフットワークの軽い御所がいてたまるか(要約)」と怒られたので、今回はしっかりと三島で報連相をしてから視察に向かうことになっている。


「皆もご苦労であった」


 控えている他の家臣にも労いの言葉をかけておく。


 その場を締めると、祖父と高橋左近将監を連れ密談に入る。


「爺様も知っての通り武田家の内訌を仲裁した」


 昨年発生した明応地震により、これ以上内訌を続けることが難しくなっていた両武田家。

 そこに堀越公方改めて鎌倉公方が間に入ることで和睦を実現させた。


 条件は、『先代当主武田信昌とその次男油川信恵は長男武田信縄を正式な武田家当主と認め、武田家当主信縄は先代と弟、そして与した国衆の帰参を許す』こと。


 通常であれば随所から反対の声が上がるだろうが、当時は地震の被害で皆それどころではなかったことが功を奏した。


「鎌倉公方である俺と関東管領に等しい立場である爺様が連名で仲介を成したことで、周辺国衆も我が家を得体の知れない御家ではなく正式な足利の公方だと認識したことだろう」


「誠、祝着至極に存じます」


 鎌倉公方の役目は関東10ヶ国及び奥羽を治めること。関東管領はその補佐。


 祖父の治部少輔は未だ関東管領の地位にない。


 本人が伊豆駿河国境の三島城で箱根以西の堀越御所領を統治しており関東の外にいるのもあるが、俺が祖父の関東管領就任を中央の幕府に求めていないからだ。


 それは何故か。


 幕府、特に将軍義高&管領細川政元が祖父の関東管領就任を認めるか未知数であるからだ。

 義高は純粋に俺のことを良くは思っていない様であるし、細川政元は12年前に勃発した両上杉の争い長享の乱の時から山内と少しばかり縁があるようだ。


 よって、どちらに転んでもおかしくない。

 

 それに関東において現古河公方と関東管領山内上杉の名は重い。関東管領職就任を強行すれば鎌倉公方の俺と室町幕府に兵を上げる者が現れることも考えられる。

 したがって、中央も俺が関東の大半を制さない限り軽々しく関東管領職を動かしたりはしないだろう。


 そんなことを話していると、左近将監から良い案が出される。


「越前の御方の存在を煽ればよろしいのでは?」


「越前。ああ、いたな。越中から体よく追い出されたのだったな」


 越前の御方。


 その名は足利参議左近衛中将義尹。

 言わば、足利義稙の第二形態である。


 5年もの間、越中国に滞在していた義尹。

 越前守護朝倉家、加賀守護富樫家、能登守護能登畠山家、越中守護畠山尾州家、()()()()()()()を背景に、後の堺公方と同じように越中御所と称される程の影響力を持っていた。

 

 そんな義尹を直接的に支援していたのは、義尹将軍在職時に協力関係にあった先代の越中守護畠山政長の家臣、越中守護代神保長誠。

 畠山政長は明応の政変の際、新将軍擁立側に攻められ自刃している。現越中守護はその息子尚順である。


 神保氏は将軍を担ぐことで様々な利を得ていたが、5年も御輿を担いでいると疲れたようだ。

 自ら兵を募るように差し向け、少数で越前国に義尹を送った。越前に移ったので越前御所と言うべきか。


 今頃は越前守護の朝倉に兵を出してくれと頼み込んでいるのではなかろうか。


 ここで重要なのは従う守護家の中に越後上杉がいること。

 越後守護上杉房能の兄は関東管領山内上杉顕定。


 つまり左近将監の申したのは、

『室町幕府&堀越公方の俺&堀越執事の祖父VS越前公方義尹&古河公方政氏&山内上杉顕定』

の構図に持っていけということだ。


「良い案だ。確かにやってみる価値はありそうだな」


 まあ、中央へ対する工作と関東国衆の反応次第だな。


 祖父も今年で60歳後半になる。あまりゆっくりもしていられない。

 史実では自刃したためこの世界でくらい長生きしてもらいたいものだが、いつまで祖父の身体が持ってくれるのか。


 

明応地震は1495年相模トラフ(?)と1498年南海トラフの2回が記録に残っているそうですが、そこまで調べる力はないので後者に統一しました。

従来の北条早雲の小田原城攻略も前者の地震を利用したものだと説を見ましたが、1498年に武田の内乱が明応地震の影響で和睦したらしいので、後者の方が自然だとは思います。


書いている途中で撰銭令が創作のネタとして出てきたので以下(ry

作者の解釈が間違っているようなので感想欄とセットでお願いします。【】は加筆 ✕は消去


精銭(良銭)が手に入る→【(忌避した結果)悪銭を使う→精銭は箪笥貯金】→✕悪銭を忌避✕→✕精銭しか使われない✕→全体で精銭が減る【悪銭を忌避】→銭が無い→経済が滞る→撰銭令→銭が動く→精銭が手に…(以下ループ)

が三英傑の時代まで続いたと思ってください。

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― 新着の感想 ―
第二形態w。 すごく面白かったです。 撰銭令の話が文章中に挿入されてなくないですか? 不勉強なだけかもしれないのですが、撰銭令って 精銭(良銭)が手に入る→ 精銭より悪銭を積極的に使う→ 精銭を溜…
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