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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1494年〜
36/58

追い討ち

調べ物をしていたら遅くなってしまいました。

評価・ブックマークありがとうございます。



◾︎相模国高座郡


「左近将監様、早川城を接収したとのこと」


 斥候の報せに周囲の馬廻り衆がどよめく。

 

 分かってはいたことだが、接収したということは古河公方はとうに逃げていたようだ。


 それを表すかのように敵連合軍の崩壊は呆気なかった。


 各当主の本拠地が()()()()()り、大将討死という偽報で兵が混乱したところに、引き篭っていたはずの堀越公方軍が奇襲を仕掛けてきたのだ。


 崩壊するのも無理はない。

 

 しかし、敵連合軍が崩壊した原因は他にある。

 

 それは我らが用いた破裂する壺こと焙烙玉の存在だ。

 未知なる音、爆発の強烈な衝撃、飛散する壺の破片。その全てが敵軍には強烈な恐れの対象になる。

 

 そんな存在が四方八方から飛んでくるのだ。


 敵兵は爆ぜる焙烙玉を前に恐怖を覚える他に何もできず、武士や農民身分に関係なく我先にと逃走を始めた。


 1度崩れてしまった軍勢は脆い。

 

 大庭城の南側に陣取っていた相模国の国人地侍に対しては大庭城に籠城していた外山豊前守に小勢を遣わして抑えとし、残りの軍勢は城の東西から連合軍を北へ北へと追い立てるように追撃を始めた。


 敵は軍勢の体を成していない。

 馬が突進すればモーゼの海割りの如く敵軍は割れ、また焙烙玉を投げれば敵兵は腰を抜かして地べたに落ちる。


 俺が何の抵抗も受けることなく大庭城に辿り着いてしまったくらいだ。

 

 まともな戦初体験の俺としては、戦がこんな簡単なもので良いのかと内心思ってしまっている。

 

 もちろん混乱により隊列を乱した敵軍を相手にした戦が本来の戦と同じものであるとは考えていない。

 

 ただの追撃、殲滅戦だ。


 敵の撤退ルートには、焙烙玉を持った兵が至る所に伏せている。

 ゲリラとも呼ぶべきこの隊は、焙烙玉や矢による牽制に務め、使い切れば退くように命じてある。

 

 連合軍それぞれの当主を討ち取るつもりはない。だが、二度と堀越公方領に攻め込もうと思わないように痛め付けたい。


「賊軍を相模国から追い出す。皆の者、もうひと踏ん張り頼むぞ」


「「はっ!」」



〇 〇 〇



◾︎相模国玉縄城


「周辺の地侍を降したか」


 読んでいた書状を横に退けると返書を認める。

 内容は働きに対する称賛、加えて新たに送る文官・技官を有効活用した江戸の領地化の指示で良いだろう。


 良し、これで完了。


 江戸城の左衛門尉に届けるよう指示を出すと元の作業に戻る。


 敵軍を相模武蔵国境までの追い討ちを終えた後、俺は玉縄に滞在している。

 何故玉縄なのかというと、戦の後処理もあるが、前線に近い方が何かと都合が良いからだ。


 新たに得た江戸城を固めることと並行して、戦で敵軍が侵軍した高座郡における破壊された衣食住・インフラの復興を行わなければならない。


 今回の戦で高座郡の反抗的な地侍を潰せたので、大抵のことは民を説得するだけで済む。


 子飼いの奉行衆に計画の素案を検討させ、上がってきた案を俺が吟味する。問題が無いようであれば許可を出し、奉行衆または郡代が主導する形で計画が実行される。


 今回は高座郡代の豊前守が担当となるだろう。

 

 それよりも今は江戸城だ。


 江戸城。太田道灌が武蔵野台地の東端に築き、後北条が拠点とし、徳川家康が幕府を開き、明治維新を経て皇居となった未来の首都。


 江戸は関東平野のほぼ中央に位置し、幾つもの川が流れ込む東京湾において少し南の品川港と並び関東の水運を牛耳ることができる要所にある。

 

 水害対策や新田開発、その他城下町整備のために河川の流路変更を行う必要はあるが、東京が日本の首都として発展したという歴史的事実を鑑みれば関東平野を治める拠点として江戸城は最適であろう。


 本命となる河川の付け替え工事の着手には、武蔵・上野・下野・常陸・下総国を抑えることが前提条件てあることを考えれば、着工はまだ当分先のことになるが。



〇 〇 〇



◾︎相模国小田原城


 関東とその周辺国が描かれた絵図を広げ、次の策略を練る。


 風魔の報せによれば古河公方は家臣簗田氏の関宿城、関東管領は白井城、扇谷上杉家当主は河越城に入ったらしい。


 山内上杉家なんて、かの長尾景春の乱で有名な長尾左衛門尉景春が再蜂起したことで本拠地の鉢形城平井城周辺を失陥。

 景春の嫡男で現白井長尾家当主景英は昨年から山内上杉方として活動しており、此度の父の蜂起には大変憤ったようだ。関東管領上杉顕定の養子憲房の元、烈火の如き勢いで平井城周辺を奪還した。


 それも含め全てが想定通り。

 

 彼らは数的有利な戦で堀越御所に一方的に敗れたことで関東公方とそれを補佐する上杉家としての面目を失い、本拠地が()()と噂される火災で焼け落ちたことで武士を率いる長としての威信を失った。

 

 耕された足元はさぞ柔らかいことだろう。

 各々拠点の復興や勢力の立て直しに精一杯でしばらくはこちらに兵を向けてくることはない。


 その間に我らは新たに得た領地を整備し体制を整える。


 こちらが立たせた長尾景春にはある程度支援を行わなければならないが、これにてしばらく戦は打ち止めかな。


 

長いのであとは飛ばしてもらって構いません。


調べ物とは蒲原氏の領地についてです。

蒲原氏、本来遠江に領地があり、この物語では蒲原左衛門尉が入っていた蒲原城、戦国期には遠江衆が在番していたりと本人達が蒲原城にいなかった可能性が浮上したため、迷走しておりました。

※この物語では蒲原城を蒲原氏の所領として扱う


そもそも蒲原氏がいつ蒲原姓を名乗ったのかは不明。

①家祖扱いの今川氏兼が守護代を務めていた越後国には蒲原郡が存在する。

②駿河国蒲原の土地は万人恐怖さんの富士遊覧(1432年)の際に左衛門尉の曽祖父氏頼に功があり、対鎌倉公方を強く意識していた万人恐怖より蒲原庄を賜ったとか。


後者の方が有力に思えるからこそ遠江国の所領の扱いはしくじったなと思います。

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